「――と、この時何気なく…… 言った内ヶ原の呟きが……… 後に大きな意味を持って来るとは、 その時の私には――、 ここ、『は』かな『が』かな、いや、その前の切れ目は体言で?過去形にした方が良かったような気がしてきた。いや、でも、 …………うううう」 カタカタカタと、途切れがちではあったものの何とか続いていたキーボードを叩く音が、ついに力尽きたが如く途切れて消えた。 一人暮らしの部屋の中には、自分が発するか機械を点ずるかせずには音の出る筈もなく、そうして人工の音が生まれなくなると途端に、思い出したかの如く外界を埋めた降雨の気配が忍び入って来た。淹れたまま忘れていたコーヒーを一口啜れば、外の雨を思わせるような鉄の匂いが口の中に広がって、それも何だか憂鬱を生み出していく。 こうして、一行打ち込んでは立ち止まり、一台詞をひねり出しては溜め息に指と空気とを湿らせ、出掛けるまでは順調だった仕事が滞って来たのは、昨日の帰宅後から。話の筋に見通しは付いている筈なのに、どうにもページが進まない。特に、内ヶ原に関わる描写が出てくると覿面なのが、我ながら、なんともはや………素直だよなあ。
私、柳島紀文が推理作家としてデビューしたのは、鵠沼在住のマエストロに後押しされた3年前のこと。実績もなく華々しい受賞の経歴がある訳でもない私が、それでも何とかこんな風に好きなことを書き連ねて糊口を湿すことが出来るのは、折からのミステリブームに乗って、一昔前ならば省みられることもなかったパズラーな作風が若い読者層に受け入れられたおかげで。学生の頃の、自分のみが楽しければ良かった作文とは違い、仮にも報酬を受けて仕事として書いている身分であるのだし、不調を理由に質や速度が落ちても今後に影響がないような安泰な身の上でもないのならば、こんなちょっとした出来事に一々動揺していてはいけないのだ、と、分かってはいる。いるけれど………。 この場合は、仕方ないと言えないこともないのだろうか。創作活動、特に自分の著作の中でもメインのシリーズとされている、この『内ヶ原探偵モノ』についてと、あの人の存在とは、ダイレクトに繋がっているようなものだ。何しろ。 そこまで思ったところで、意識は今の不調の根幹をなす、幽玄社での昨日の一幕へと、更にはそもそも現在の私を作家たらしめた出立点へと飛んだ。
『幽玄社』は、私のデビュー作を世に出してくれた、推理小説とSF、異色なところで精神医学書なんかを得意とする東京の中堅出版社で、勿論、今でも一番にお世話になっている版元でもある。 大学のミステリ研究会に在籍していたその頃から、インタビューや勉強会、読書会と称しては出入りしていた鵠沼の『月岡屋敷』で、会誌に載せた、私の犯人当てショートショートに目を通していらしたマエストロ、本格推理界の大御所・月岡徳馬先生が、「あなたの着眼点が、とても好みなのですよ、でもねえ」、と前置きして、私の顔を覗き込んだ。 「私はもう、ここでのんびり過ごしたいのですがね、どうもそれを許して下さらない、鬼の様な小父さんがいましてね」 言って、稚気に富んだ少年のような笑顔で隣に座った「小父さん」に目を移すと、 「とんでもないです、そんな元気でいらっしゃるのに、まだまだ根岸ならぬ『鵠沼の里の侘び住まい』と洒落込んで頂く訳には行かないんですよ、新作だって拝読致したいですし、それから後進の連中も育てて下さらないと」 鬼呼ばわりされた事には敢えて目を瞑って、体の向きを此方に変えたその人は、突然私に話題を振ってきた。 「ねえキブン君、びしがしと指導して欲しいでしょう?」 ちなみに「キブン」は私の下の名前、「紀文」の音読みで、練り物でその名を馳せるさるメーカーのCMソングのお陰でついた、子供の頃からの綽名なのだけれど。 話の筋が良く見えなくて、テーブルを挟んだ向かいに陣取った同級生と顔を見合わせる。相手の顔にも自分と同種の疑問符がありありと浮かんでいて、それ以上の進展を示す符丁が互いの顔にはないと判断すると、揃ってマエストロの顔を覗き込んだが、当のご本人は、相変わらず悪戯でも仕掛ける風に微笑ったまま、口を開こうとはしない。 「あの、臣さん……?指導って、講座でも始められるんですか?」 だったら、是非参加したい。思って角席を占めている臣さん、雑誌『幽玄推理』の編集長へとその年に昇格したばかりだった、マエストロ言う所の「鬼のような小父さん」を伺うと、鬼には程遠い、チワワのような愛らしい顔をしたミス研の大先輩は、違う違う、と顔の前で手を振って見せた。 「今度ウチでね、公募形式の文庫を発刊することになったんですよ。 まあ、新人の発掘も手間が掛かる割には、まごまごしてると直ぐ余所に取られますしね、それで、副賞として受賞作品をオムニバスに集めた文庫本の発行を掲げて、ああ勿論、マエストロの責任指導・編集を経てですが、まあそんな条件で、中~短編推理を募ったらどうかってなりましてね。雑誌の出るのを待つよりは確実に世に出せるでしょう、投稿作を」 ?分かったような、分からないような。 『幽玄推理』は季刊の上に、始終「発売延期」やら「次号休刊」やらを繰り返しているので、新人賞の選考経過が載った後、時が経ちすぎて、その間に最終選考に名前が載っていた人が他社からデビューしてしまう、ということが昨年だけでも二人あった。付け加えるなら、店頭でS社やK社のハードカバー平積み台に「何やら見覚えのある名前の人だな?」と思う作品が並ぶと、その著者が『幽玄推理大賞』の上位入賞者だった、と言うのは良くあることで。それって、まんまと横取りされてるんだろうなあ、新人さんを。だから、臣さんから聞いた企画は、幽玄社の為にもそこに投稿する人達の為にも良いことだとは思う。そこは分かった。 分からないのは、そんなことを僕たちに聞かせるその意図だ。下読み要員に、ミス研の連中を駆り出せとでも言うのかなあ、まあ、やりがいは有りそうだけど。 引退が近い自分達でもいいのだろうかと、口を開きかけた時、先に同席していた友人が言葉を発した。 「あの、それってもしかして、こいつ」 皆まで言わずにマエストロの顔色を伺う同期生の頭越しに、臣さんの方が返事を寄越した。 「そうなんだ、君、その企画に作品を投じる気はないかい?キブン君」 「へ?」 間の抜けた反応を示した私の視界に映るのは、微笑んだ表情のまま頷いて見せる尊敬する人と、顔を輝かせてこちらを振り返った、入学来の知己と、それから。 「あ、勿論、審査は公正に行うからね、キブン君一世一代の大傑作、頼んだよ」 その後何回も聞くことになる、業界では有名な彼の決め台詞を、私に向かっては初めて投げかけた、温厚だけれど性格のイイ大先輩。三者三様の脅しにも近い笑顔にジリジリと迫られて、私はいっそ気弱に肯いてみせるだけで、精一杯だった。 ――結局、その当時私が最初に投稿した作品は佳作の一番下で、そのままデビューを果たすことは出来なかったのだけれど、マエストロは進歩の遅い私を放り出すこともなく、かと言ってけして妥協も甘い顔もしてくれることなく、私のアイデアと熱意だけで語られた「作文」を、店頭に並べられる最低線ではあるが「作品」に昇華させることが出来るまで、根気よく付き合って下さった。今思い返しても、あの時の先生には頭が下がる。よくぞ途中で私を見放さずに頂けたコトだと思わずにいられないほど、私は程度の低い弟子だった。 兎にも角にも、七転八倒、三歩進んで二歩下がり、もう一歩下がってもマエストロの影は拝み倒し、蛍の光も窓の雪も利用できるモノは寝ている親でも利用して、紆余曲折の末、3年前の晩秋、私のデビュー作は店頭に並ぶ運びとなったのだった。 3年。四季は3回巡り、中学・高校の新入生だった子達は巣立ち、三年坂で転けた人は言い伝えの真偽を知る頃。それだけの時間が経って、私は果たして過ぎた時間に見合った成長を遂げているのだろうか。一度プロとして報酬を得うる作品を仕上げた私のことは、仮免扱いなのだろう、その後の作品に関して出版前にご意見を伺っても、致命的なミス以外について、マエストロは何も御指南下さらない。 マエストロは。
あまり執筆ペースが早い方ではない私が、義理筋で断ることのできない雑誌の細々とした仕事をこなす傍ら、やっと印刷に漕ぎ着けることの出来た4冊目の単行本。その製本が仕上がった、と言うので、昨日私は打ち合わせがてら見本を頂きに幽玄社を訪ねた。 いつもの、編集室の片隅に作られた応接スペースには先客がいたので、昨日の私はこれまで二三度しか入ったことのない応接室へと通された。三年前から変わらずに私を担当してくれている吉川さんが、できたての単行本をテーブルに置いてくれるのを目で追っていると、なんだか気持ちが高揚してきた。 「はあ、これで四冊目ですよね、こうして形になったところを目に出来るのが。でも、一回目からずっと、緊張の度合いは変わりませんねえ。これからこの子達が書店に並んで、見知らぬ誰かがそれを手にしてくれるのかと思うと、もう、この」 胃が縮み上がる思いです。 言って、鳩尾に片手を当ててみせると、よっぽど青い顔をしていたのだろう、吉川さんは眉根を寄せると、苦い声を出した。 「そんな調子でこの先どうするんです?もう少しこう、ゆったり構えて貰いたいんですがね……まあ、鷹頭さんみたいになられても困りますけど」 鷹頭、と言うのは去年後半の直木をとった作家さんの事だろう、たしか幽玄社では吉川さんが受け持っていると聞いた気がする。パーティーなんかで遠目に見るだけの鷹頭先生は、たしかに外見が長身ならば、その身に纏った雰囲気もまた自信に溢れた様子なのが特徴的だった。言葉を交わすわけでもなく、それこそ姿を見かける程度の私からですら「遠目」にも、威厳に溢れて感じられた。あのオーラを間近で感じたなら、さぞかし威圧的だろうなあ、と想像すると、吉川さんの言い分も納得できた。私があんな風になったら、苦労が今の三倍にも四倍にもなるだろうな。 益体もなくそんな事を考えていると、不意にノックの音と共に扉が開き、そこから冷たく整った顔が覗いた。 「失礼、此処に臣さんが…」 言い掛けて室内を見渡し、ここ2年半で身に付いた習慣、この人の顔を見ると条件反射で縮こまってしまう、状態の私を発見すると、動くもの全てに牙を反応させる肉食の爬虫類めいた視線を固定させた。や、やめてくれないかな、その目。怖いんですけど……。 現れた人物は、中堅所の推理小説評論家で、その舌鋒を持って数多の推理作家を地獄やら憤怒の嵐やらに晒す名人、八尋 滋先生だった。デビュー2作目が店頭を飾った翌月の批評記事以来、私は一作として八尋先生からの肯定的意見を頂いていない。つまるところ、アイデアに構成が付いて行っていない、登場人物のエレメントが希薄、もしくは強固すぎる、短編向けのネタを無理矢理長編に引き延ばすのはどういったものか、等々、お叱りの言葉のみを滔々と語って下さること早二年。余程気に入ったものか、完璧な作品でないと八尋先生のお褒めの言葉など頂戴出来ないのは、業界では有名な話で、である限り今の私の境遇は当たり前のこと。未だ一回も良い評価を貰っていない作家の方だって、中堅やベテランと呼ばれる層の中にも幾人もいらっしゃるのは、知っている。それに比べれば、デビュー作一つっきりでもお気に召す作品がある私は、マシな方の筈、多分、おそらく、もしかしたら、なのだけれど。……そんな些細なフォローでは取り返しがつかないほど、新作を発表するたびにお叱りの言葉(もう少しはっきり言うと罵倒の台詞なんだけど)を頂戴するようになってからが長い。ここで顔を会わせてしまったからには、やはり今日も何か一言くらいはあるんだろうな。 覚悟を決めるが早いか、八尋先生は口元だけに多少の笑みを刷き、私の正面へと回り込んだ。 「これはこれは、柳島先生ではありませんか?」 唇には、依然として穏やかな微笑、括弧して「唇にだけ」と付くけれど。 「八尋先生、こんにちは。いつもお世話になります」 「こちらこそ。そんなことより、拝読しましたよ、先生の新作、先月の「幽玄推理」に載った短編『副作用の騙し絵』を」 そこまで話すと目の前の偉丈夫は言葉を止め、中空に何かを探すかのように視線を泳がせた。私はと言えば、「拝読」の二文字からして既にその後の展開を察知し、先程よりもさらに固まった表情で「お目汚しを…」だの「光栄です…」だのと口の中でもごつくのが精一杯だというのに、相手は何の躊躇もなく断罪の刃を振り下ろす。 「何回も言うようですがね、ガチガチの本格推理で、良質の物を連続して生み出し続けるなど、余程の人でないと無理です」 彼の人だって言ってますでしょう、だから短編はホラーを書くのだと、と比べ物にならないような大先輩を引き合いに出し、既に仮死状態の私へと、さほども緩まない追い打ちを掛けてくる。 「まあ、相変わらず核となるトリックのアイデアだけは悪くないです。もっと言うなら、そのセンスには感嘆符なしに感想を述べられないくらいですよ。ただ」 視界の端で、吉川さんが心配そうにオロオロと私達を交互に見遣っているのが分かったが、お互いにこうなってしまえば一切のフォローは不可能だ。こんな風に軽く持ち上げてみせたからには、この『ただ』に続く言葉は奈落の底へと突き落とす、獄卒の金棒に違いない。 「いくら内ヶ原探偵の超人性を際立たせるためとは言え、かの先生は君津を扱き下ろしすぎます。あそこまで傍若無人、我が道をいってばかりの専制君主では、何時の日か、そう遠くない未来に内ヶ原探偵は月のない夜に闇討ちか、白昼堂々駅前で車に突っ込んで来られるか、まあ畳の上では死ねんでしょうな」 言われることには、確かにとても心当たりがある。シリーズものの探偵役・内ヶ原は生みの親たる私から見ても最近エキセントリックさに磨きがかかり、彼のワトスン役を務める君津万里に立ち直れないほどの毒舌を吐いたりすること度々で、ここ半年ほど頂くお手紙の中にも、君津を弁護するものが目立つ。だから、八尋先生が今仰有ったことは、事実ではあるんだ。だけど、でも、しかし。 それって、ミステリの本筋と関係ないじゃないか! 大人しく拝聴しておけば良いと分かっているのに、胸の内に不満を抱えた私を雰囲気で察したのだろう、八尋先生は口の端に楽しそうな笑みを湛え、最後の一撃を下した。 「言っておきますが、作品がミステリとして満足のいく物であれば、人物の造形になど、大した興味は向かない物です。『面白いミステリを読んだ』と言う満足感を得られなかったからこそ、周囲に目を向ける余力が出て、キャラクター造形などという、本筋から外れた部分まで気になり出すんです。そこの所をお忘れなく」 ほんの数秒前、自分が思ったことと、それが表情に出てしまったらしいことを、私は心の底から後悔した。あんなこと思わなければ、意地悪な追撃に討ちのめされ無かっただろうに、余計なことを考えるから、この有様だ。 既に救いの手の届かないほどの地の底までズブズブに嵌った私を、どうしたものかと見守る吉川さんが声を発しようとした時、それよりも僅かに早く八尋先生は立ち上がると、ドアノブを回しながら優雅に微笑んだ。 「あ、吉川さん、その本、僕の所にも一冊お願いします。いいですよね、柳島先生」 固まった頭の片隅に響いた言葉に、「ハイモチロン」と人形めいた棒読みで答えると、「ああ、献辞もお忘れなく、そうですね、『謹呈・イヤミ評論家殿』なんていかがですか?」と台詞を残して、扉が閉ざされた。後に、落ち武者並に枯れ果てた私と、傍観者にも為りきれずにやはり言葉を失った吉川さんとを残して。
そして、現在に至る訳だ。 目の前のモニタはここ一時間ほどその画面を殆ど変えていないのは確かで、その僅かな変化と言えば、テニヲハをいじってみたり、人物の立ち位置をちょこっと調整してみたり、話は一向に進んでいない。諦めて保存すると、モニタの電源を切った。途端に部屋が暗くなる。ハードディスクが回転する低い振動音と、外の雨の音、闇に慣れ始めた目には、机の上に並べた幾つかの写真立て。姉兄や実家で飼っているシーズーとの皆で撮った写真、デビュー作の舞台になった山村で、洋館を取材した時の外観写真、そして。 「速水さんと、永田さんと、長坂さん、後ろにいるのは部長と、タマさん。それで、右の端が僕。 こっちは一コ上の先輩で、ええと、マエストロと、臣さん、…………八尋、先生」 三つ目のフレームに納まっているのは、二回生の夏合宿で撮った、月岡屋敷の前での集合写真だった。 八尋先生は臣さんと私達の丁度中間に相当する、サークルのOBで、初めて会った時は未だ会社員だった。有給を取って合宿に参加されていたらしい、商社に勤めながら書評の仕事も少ししてらした、その人と、一回生の夏、月岡屋敷で夜通しミステリのことを語り明かした時の事は、きっと一生忘れない。知識や読書量だけなら、それまでにも凄い、と思った人はいくらでもいた。W大のミス研には勿論、ネット上で知り合った人達にも、それから紙面でしか知らない数多の作家や、評論家の方々や。八尋先生は、そのどんな人とも違った。一番近い言葉を探せば、理想の自分、かな。読書の時や作文の時、何かを感じてもそれを上手く表現することが出来ないもどかしい気持ちや、今まで誰に言っても共感して貰える事が出来なかった寂寥感。誰ともこの気持ちは共有出来ないのかな、って、そんな全てが、一晩で吹き飛んだんだ、あの時。 そうだよ、それ、それ!僕もずっとそう思ってたんだ! 心の中はエクスクラメーションマークを盛大に飛ばしながら浮き立っていたけれど、トロい私にはとてもそれを言葉に表すスピードは持ち合わさず(そもそも、それが出来ていたのならそこまで感動しなかったに違いないが)、ただ懸命に、「あの作品は?こっちの作品についてはどう思いますか?」なんて、同級生や先輩方が一人二人と沈没していっても、飽きることなく質問を繰り返していた。おもちゃを強請る子供の頑是無さで、やっと望んだ同胞、いや、先達を手に入れた修行者の真摯さで。しつこく食い下がる私にはぐらかすこともなく、結局八尋先生は払暁まで付き合ってくれた。 あの時からずっと、今日に至るまで変わることなく、八尋先生は私の心の中で一番大事で綺麗な、「尊敬」とか「憧れ」とかって名前を冠した椅子を独占し続けている。特にデビューの少し後、出版社主催のイベントで起きたとある事件の後には、そこに「恩人」までが加わって、それで、だから。 もう、今となっては自分の中ですら、この気持ちに付ける名前はあやふやになって久しい。まして他人には、相手には。 机の隅に置いた自分の新刊を手に取って、未だ開かれざるその独特の密着した紙から新しいインクの匂いを嗅ぎとった。ピンと立った角に指先を当てながら、もう一度思い出の写真に目を遣る。写真の中の人は、私を見ない、笑わない、話さない、当たり前のことだけれど。私を傷付ける容赦ない棘も与えない代わり、同時にやるせない痛みをもたらす表情や仕草、気配すらもくれない。だけど、私の職業は小説家で、現実が旨く行かないなら行かない程、それは却って私の創作活動に力を与えるもので。嘆くだけでなく、空想や紙の上ではどんな自分も他人も息吹を込めることができるのだから。だけれど。 「傍若無人の専制君主、畳の上では死ねないと来たもんだよ。自分で自分の悪口言ってやんの」 勿論、八尋先生にはまったく与り知らないことでしょうけれど。 謎物語の中、快刀乱麻に真相を解明して見せる名探偵は、私にとって一番のヒーローだ。それが、その物語が私の創作である以上、そこで活躍する人物が私個人の現実に輝くヒーローに影響されたとして、何が可笑しいというのか。事件を語ってみせる、お話の中の「私」が、書いている「私」の投影であって何の不都合があるというのか。 「活字の上でだけくらい、いつも一緒にいさせてやっても良いでしょう?それしかないんだ、他には何も―――」 誰とも共有することのない遊びなら、心の奥底に鍵を掛けて仕舞い込め。自分にすらも見えなくなって、その場所を忘却の彼方に運び去るくらい厳重に。どんなに堅牢を誇る城壁の、監視の目であろうと潜り抜け、歴史に名だたる名探偵にも解き明かすことの出来ない史上最高のトリックで、隠し果せ。
それこそは、世界に一つの宝物、私だけの、独遊。
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