ご指摘を頂きましたので、注意書きとして追記させて頂きます。 続編と勘違いするような表記をして、申し訳ございませんでした。
※こちらは前作『指先』のシリーズものですが、 続編として書いたわけではございませんので、単独でお読み頂いても内容は解ります。
乗車率200%もあるような、慣れない通勤ラッシュの電車に押し込まれる。 そう考えただけで駅への足取りが重くなる遼だった。
3月に大学を卒業し、父親のコネで入った大手保険会社。 覚えることが目白押しの2ヶ月間の新人研修を、 どうにか済ませたのはいいけれど、 今度は毎朝ギュウギュウ詰めの電車に押し込まれる嵌めになった。
ウンザリとしながらも背中を押されるに任せ、今日も電車に乗り込む。 身動き1つ出来ない状態で、やっと降りる駅のホームが見え始めた時だった。 車体が大きく揺れ、乗車中の人間が皆揃って進行方向とは逆へ傾いた。
「チッ、今日の運転手は新人か? ヘッタクソ!」
後ろから誰かの声が聞こえる。 とりあえず無事にホームで停めてもらうことが出来て、 流れに押し出されるようにしてホームに降りた。
「痛いっ!」
突然、前に居た女の頭が自分の胸の位置に張り付いた。
「あっ?」 「あ・・・すみません! 髪の毛が絡んでませんか?」
そう言われ胸元を見ると背広の第一ボタンに女の髪が巻きついていた。 さっきの急ブレーキの時に擦れたせいか、 しっかりと巻きついていて、引っ張っても離れないらしい。
「ちょっと待って、今取るから」
そっと女の髪に手を伸ばし、ボタンに絡まった髪の毛をどうにか解いてやると、 女は振り向き「ありがとうございます」と頭を下げ去っていった。
(・・・)
ゆるくウエーブの掛かった明るい栗色の髪の毛。 触れた柔らかな髪の感触が、思い出したくない過去をまた思い出させる。
長い間、恋焦がれ過ごした日々に、 やっと終止符を打つことが出来たというのに、
あの時、たった一度抱いてしまったばっかりに、 今度は、恋焦がれるよりもずっと辛い日々を過ごすことになった。
今でも、その影は拭い去ることなど出来ずにいて、 こうして、ホンの些細な日常がその姿を鮮明に呼び戻す。
会いたいと思う気持ちは夢に現れ、体を貫き、 声を聞きたいと願う想いが幻聴を聞き、心を砕く。
幾度夜を重ねても、 何1つ変わりはしない千夜一夜の夢物語。
もうすぐ、5年目の夏が来るというのに、
少しも変らない俺は、
あの日のまま取り残されていて・・・。
2.
窓から見える風景は、絵の具ような綺麗な水色をしていて、 いくつもの擦れた白い線が描かれている。 眼下は白い雲に覆われ、水色と白のコントラストしか見えない。
揺れも殆どない快適な空の旅もそろそろ終わる。
ボンヤリと見下ろす白い雲の、その下に広がる景色を空想する。 その大きな都市の一角に居る、恋焦がれたあの姿を想う。
「遼、帰ってきたよ」
目を閉じるとあの日のままの遼の姿が鮮明に浮かび上がる。
どんなに思っていても、会いない時間とこの距離が、 この想いを消し去ってくれるものだとタカを括っていた。 しかし、そんなことは見当外れもいいところで、 忘れるどころか日増しに想いは募るばかりで・・・。
本当は、 繋いだ指先を離したその瞬間から、ずっと後悔し続けた。 自分の気持を告げたばっかりに・・・ その場凌ぎで求めてしまったばっかりに・・・ 自分の首に梳けない縄を巻きつけた。
縄は目には見えないほど、ほんの少しずつ、 ジリジリと首を締め上げていく。 息苦しくて掻き毟っても、 息が出来なくて爪を食い込ませても、 解けることなどなくて・・・
ずっと、ずっと、その痛みとその苦しみに堪え続けてきた。
書いたエアメールも、出すことさえも出来なくて、 涙で滲んだ文字を隠しきれずに、何度も破り捨てた。
声を聞きたくて掛けた電話も、話すことさえ出来ずに、 受話器の向こうで声を殺しすすり泣く、かすかな嗚咽に耳を塞いだ。
そして、俺は解った。 自分にとって、今、何が一番必要なのかということが。 だから、帰ってきた。 父を捨て、保証された未来を捨て、 それでも必要だと思えるものの元へ・・・
長い千夜を過ごしても 尚、忘れることの出来なかった あの一夜の為に・・・。
「帰ってきたよ・・・俺」
3.
5年前、泣き出しそうな自分を必死で抑え離れたこの地へ戻ってきた。 きっと、嬉しくて、早く会いたくて、走り出してしまうだろうと思っていた。
けれど、今、ここに立つ自分は、 嬉しさも、走り出す勇気も無くて、 会いたいと思う気持だけは残していても、 今更と言う気持ちの方が強くて、足を踏み出すことが出来ずにいる。
結局、手紙も電話も辛い想いを増すばかりで、 時が経つにつれ回数が減り、1年以上何の連絡も取っていない。 もちろん、帰ることなど知らせてもいない。
こんな状態で、突然、目の前に姿を現して、 本当に遼が喜んでくれるという保障などないのだ。
1年の歳月が遼の気持ちを変えていて、 自分のことなどすっかり忘れているのかもしれない。
自分の気持ちだけ優先して、 夢に見続けた遼に会えるということだけが嬉しくて、 遼の気持ちを考える暇が無かった。
この場所に立って、遼を近くに感じた途端、 遼という存在が現実に近づき、足を鈍らせた。
(もしも・・・ もしも、遼の気持が変っていたとしても、 久しぶりに会うんだ。 だから、きっと喜んでくれる・・・)
そう自分に言い聞かせ、 ポツリポツリと点り始めた外灯の中、 あの頃と少しも変らない小さな商店街を歩き出す。
満員の電車に乗るのがイヤで、 いつの間にか同僚と連れ立て時間を潰すことが日課になった。
営業で一日中外を歩き回り、やっと事務処理に会社へ戻っても、 うるさいオバチャン連中に良いようにからかわれ、別の意味で疲れを増す。 そんなつまらない毎日に慣れ始めた自分が、 唯一の楽しみにしているのは、 同僚たちと愚痴を言い合う束の間の時間だけだった。
一日の鬱憤を晴らし、ほろ酔い気分でラッシュを過ぎた電車に乗り込む。 隅の席を選び腰を下ろすと、早々に瞼を閉じる。 ガタンガタンという規則正しい音が眠気を誘い、 ふと今朝の電車での出来事が頭を過ぎる。
満員の電車、急ブレーキ、そして、 背広の第一ボタンに絡んだ女の髪・・・ 次から次へとリンクしていく。
そして、思い出してしまった匠の顔。
些細な事を考えるたびに、 なぜかそのすべてが、驚くほど匠にリンクしてしまう。
(もうずっと声も聞いていない・・・ 元気で居るんだろうか?)
「声が聞きてーな・・・」
眠りに堕ちる刹那、無意識に口に出た。
生まれたときからこの町に居て、 目を瞑っても歩ける街並を、 半分眠った状態で家を目指す。
一本路地に入り込めば、灯りなど殆ど無くて、 月明かりだけが遼の足元を照らす。 そんな中、家の錆び付いた音を立てる門扉に手を掛けた。
「遼」 「?」
聞こえるはずのない声が聞こえた気がする。
(飲みすぎたか・・・)
「・・・遼・・・だよね?」 「えっ?」
ゆっくりと振り返ると、月の灯りに映し出された黒い影があった。
「やっぱり遼だ・・・」 「・・・誰?」 「俺だよ・・・ 匠」 「・・・ウソだ。匠がココに居るはずないじゃないかっ!」
黒い影は遼を目指し、足を踏み出す。
「でも、居るんだ」
遼の3歩ほど前に近づいた黒い影は、徐々にその本来の姿を現す。
「な、なんで・・・ 匠・・・ うそ・・・だろ?」 「帰ってきたんだ。 ココへ」
ハッキリしたその影は、少しだけ大人びた匠の姿をしていた。
「遼・・・ただいま」
手にしていたカバンが足元に落ちる鈍い音と同時に、 その姿を抱き締めていた。
「・・・匠・・・ホントに匠だ・・・」 「喜んでくれるの? 俺が帰ってきたこと・・・」 「もう、何処にも行くな。 ココに居ろよ!」 「そのつもりで帰ってきた」 「・・・ずっと・・・」
もう、言葉など要らない。 どうせ言いたいことの半分も伝えることなど出来ないのだから。 今、腕に感じるこの温もりだけで。
たった一夜の想いを引き摺って、千夜を過ごしてきたのだから・・・。
ならば、 その一夜一夜を繋げたら、 一体どれ程の夜を過ごせるのだろう?
一夜をそっと重ねて、 一夜を優しく繋いで、 決して梳けぬようにしっかりと結んで、 千夜でも万夜でも、 何処までも紡いで・・・。
― 完 ―
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