「わーぉ…。」
大好きな人の浮気現場を見た僕の第一声はこれだった。
僕は子供だ。
そして彼は大人だ。
僕は生徒だ。
そして彼は先生だ。
最初に声をかけてくれたのは先生だった。
「数学、好きなんだね。」
そう優しく微笑む先生に僕は惚れた。
前から好きだった数学はもっと好きになった。
良い点数をとって、先生に褒めてもらいたくて、
嗚呼、なんて幼稚なんだろう。
先生にとって僕は一人の生徒でしかなくて、それが嫌でたまらなかった。
言ってしまったのは「好き」の一言。
困ったように眉を寄せる先生に僕は泣きそうになったけど、
「…うん。」困った顔のまま微笑んだ先生のそれが答えだった。
「拓也!どうしてっ…ここに…。」
焦った先生の声に僕は現実へと引き戻された。
確かにここは先生の家で、僕が居るのはおかしな話だ。
ましてや今は夜中の一時を回ったところ。
いくら合鍵を渡されて「いつでも来て良いよ」と言われていたとしても非常識だった。
そうか、悪いのは僕のほうなんだ。
「ん、ねぇ…誰?」
先生に絡み付くように体を寄せたその人はとてもキレイだった。
男の人だったけれど、僕より年上で、先生よりは若そうだった。
「あ、いや…。」
言い辛そうにする、先生の困った顔。
僕は先生のその顔が苦手だった。
「ごめんなさい。」
僕はぺこりと頭を下げ、その部屋を出た。
先生のマンションを出て、ふいにジワリと目頭が熱くなって鼻がツンとした。
涙目になりながら僕はとぼとぼと家へ戻る。
先生は追いかけてきたりはしない。
家に戻って布団にもぐった瞬間ボロボロ涙がこぼれて止まらなくなった。
先生が好き。
本当はわかっていたんだ。
先生は僕を好きじゃない。
先生は優しい人だから僕を傷つけたくなかった、
ただそれだけなんだ。
重荷でしかない僕を背負ってくれた。
それだけで十分じゃないか。
そう思っても後悔してしまう。
先生に会いたいなんて思わなきゃ良かった。
冬休みに入って一週間近く会えなくて、寂しかった。
でも、寂しかったのは僕のほうだけだった。
先生は僕から解放されてきっと清々してたんだろう。
そう考えると、また悲しくなった。
次の日、死んだように眠ってるとお母さんにたたき起こされた。
「拓也!電話、よくわからないけどあんたに代わって欲しいって。」
受話器の向こうからは先生の声がした。
『拓也!、拓也…あぁ良かった。携帯が通じなくて…』
携帯は電源が切れたままだった。
「どうしたの?」
『今日会えるかな?時間、ある?』
本音を言うと会いたくない。
でも顔が見たい。
こんなに好きなままで、僕はこれからどうしたらいいんだろう?
別れを切り出されて、平気でいられるのか怖い。
『・・・だめ?』
ああ、先生はこの電話の向こう側でまた僕の苦手なあの困った顔をしてるんだろうな。
「・・・いいよ。」
僕は大人にならなきゃいけないんだ。
先生との待ち合わせの喫茶店に僕は待ち合わせの時間より30分も早く着いた。
いつも僕はギリギリに来て、先生はここでコーヒーを飲んで待ってる。
僕はコーヒーは飲む気がしなくて紅茶を頼んだ。
でも紅茶が来るよりも早く先生が来て、驚いた顔で僕を見た。
「今日は早いんだね。」
ふわりと微笑む先生。
やっぱり僕はこの人が好きなんだ。
「拓也、昨日のことなんだけどね…」
先生は向かいの席に着くなりおもむろに話し始めた。
僕は体を硬直させて俯くほかなかった。
「でも何もなかったんだ、その、俺も男で…」
先生、好き。
「拓也にも昨日の人にも悪いことしたと思ってる。」
好き。
「でもそのおかげでちゃんとわかったんだ、俺は、」
好き、だから、
「もういいよ。」
「え?」
「もういいんだ、先生。」
「拓也?」
「ごめんなさい、僕が悪かったんだ。」
「ちょ、」
「先生の優しさに付け込んで、甘えて、迷惑かけてほんと最低だよね。」
「何言って」
「今まで、ありがとうございました。」
テーブルにコツンと音をたてて頭を下げて、僕は少しだけスッキリした。
これで全て終わったんだ。
「・・・・・・な、んで・・・怒ってるのか?拓也・・・。」
僕が顔をあげると先生は呆然としていた。
「嘘だろ?それじゃ・・・まるで別れるみたいだ。」
先生は自分で言ってることが信じられないようだった。
「そうだよ。僕と先生は別れたんだ。」
僕は苦笑した。
「どうして・・・たくや・・・嫌だ。」
「?」
「嫌だ、なんでっ?怒ってるんだな?そうだろ?」
僕は首を振る。
「嘘だ!俺が悪かったよ、機嫌を直してくれ。ホラ、拓也の好きなとこへ行こう?どこが良い?」
「先生、もう良いんだよ?」
「良くないっ!・・・許してくれ。頼むから。」
「・・・先生?」
「嘘だろ?なぁ、・・・まさか・・・俺のことが嫌いになったのか・・・?」
先生は頭を抱えて机に突っ伏してしまった。
僕は先生が好きだから慌てて否定した。
「そんなことないっ!」
「じゃぁっ!なんで・・・・・・他に好きなやつが出来たのか・・・そうか、そうなんだな?」
先生が怒ったように顔を上げて僕の肩を掴む。
「痛っ・・・。」
「俺のこと好きだと言ったろ?なのに、なんでっ・・・嫌だ、別れないからな。俺は・・・くそっ!!」
先生がバンッと大きな音をたててテーブルを叩いた。
僕も、言い合いを始めた僕たちに気づいて様子をうかがってた周りの人たちも驚いた。
僕はこんな先生を見たことがない。
どうしていいか分からずに、とりあえず場所だけ変えなければいけないと思った。
僕の家にはお母さんが居る。
「先生、・・・先生の家に行っても良い?」
先生は弾かれたように僕を見て、嬉しそうに頷いた。
「あの、」
「んー、どうした?」
先生の家に着いた途端後ろから抱き締められて、それからずっと僕は先生の両手両足に挟まれたままだ。
「先生、ちょっと離れて・・・。」
僕のその言葉を無視して先生はさらにきつく僕を抱きしめる。
首筋にあたる先生の息に僕はゾクリとした。
「なんで、こんな・・・。」
「・・・別れないからな。」
「え?」
「拓也がなんて言おうと別れない。」
僕は単純にその言葉が嬉しかった。
「大丈夫だよ、寂しいけど先生が居なくても僕は平気・・・平気になってみせるから。」
僕が微笑むと先生は急に泣きそうになった。
「んで、そんなこと言うんだよっ・・・酷すぎる・・・。」
ぎゅうっと体が軋むほど抱き締められて僕は呻いた。
「先生、痛い・・・。」
「俺の心のほうが痛い。」
キッパリ言われて、僕は戸惑った。
今日の先生は変だ。
いつものような余裕がない。
「先生、なんかあったの?昨日の人に何かされた?」
「・・・好きな人に別れを切り出された。」
僕はピンッときた。
昨日のあのキレイな人だ。
あの人はキレイだったけど、気も強そうだった。
先生は優しすぎるところがあるから、もしかしたら遊ばれてしまったのかもしれない。
・・・僕だったらそんな風に悲しませないのに。
「そんなに好きだったんだ・・・。」
「っ当たり前だろ!!こんなに好きなのにっ!」
ぎゅうぎゅうと締め付けられて体が悲鳴をあげたけど、今度は僕も心が痛かった。
こんなに思われてるあのキレイな人が羨ましい。
僕はこんなに先生が好きなのに。
もっとキレイな顔に生まれたかった。
もっと年が近ければ良かった。
そしたら、僕のこと好きになってくれたかなぁ。
「大丈夫、先生は素敵な人だからすぐ良い人が見つかるよ。」
先生は何か言おうとしたみたいだけど、僕を見て目を見開いた。
僕は泣いてしまっていた。
「・・・っう、・・・先生っ僕ね、・・・好き、やっぱりわ、別れたくなぃ・・・。」
先生がなんとも言えない顔で僕を見てる。
きっと呆れてる。
そりゃそうだ、こんな、みっともない。
「せ、せんせっ・・・好き、・・・すきぃ、邪魔、者だっ、けど・・・ご、ごめっ。」
嗚咽が止まらなくて涙をぬぐう僕の頭を先生がポンポンと叩く。
「拓也・・・だから俺は別れないって言ってるだろ?」
「う、でも・・・僕はお、荷物だし・・・。」
「・・・・・・・・・一体何の話をしてるんだ?」
その後、僕は人の話はちゃんと聞くように!と先生に怒られた。
「拓也と別れることになったと思って俺は生きた心地がしなかったよ、全く。」
「・・・・・・ごめんなさい。でも、僕、邪魔じゃない?」
「は?」
「先生、あの人が好きなんでしょう?僕、嫌だけど応援するよ・・・。」
「はい?」
「・・・昨日、別れちゃったんでしょ?」
先生は無言で頭を抱えて溜息をついた。
「確かに言ったことなかったか・・・?でも、いくらなんでも・・・。」
ぶつぶつ言う先生に僕は不安になった。
「やっぱり別れよう。」なんて言われたらどうしよう。
「拓也、俺が好きなのは、」
次の瞬間、僕はその不安が杞憂だったことを知る。
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