カンテラの火が消えた。油が切れたのだろう。 流暢な文字が半ばまで埋まった羊皮紙の上、羽根ペンを置くと、トゥーエはきつく目を閉じ両腕を天に伸ばした。目頭が熱くなり背骨が小気味の良い音を立てる。閉ざされた窓の向こうには晴れた夜空が広がり、屋敷は驚く程に静まり返っていた。 ゆっくりと瞼を開き、切れ長の双眸に意志の強い翠の瞳が覗く。トゥーエのその目は、強烈なまでの意志の強さを表しており、常々、他者に畏怖と恐怖‥そして反感と劣等感を抱かせていた。今は寝不足の為か、幾分鋭さも和らいではいるが。 鈍った体で椅子から立ち上がると、テラスに続く窓へ歩み寄り星の位置を確認する。つい最近まで星空を見て時間を確認する生活だったのだ。一瞬そらを見ただけで時間は確認できた。夜明けが近い。 トゥーエはエストーニャ軍と名乗る自治軍の長である。特権階級による腐敗政治が続き、荒れ果てた国々の間で旗を起こした。発起した国では皇族を中心とした貴族達が軍を編成し、国内の不穏因子を徹底撲滅しようとしていた。トゥーエは破壊の手を逃れながらも有志を集め、規律を作り信念を掲げて一つの組織を作り上げた。そして国軍と戦い、勝利したのである。 皇族を地方へと隠居させ、逆らう者は冷酷なまでに容赦なく殺し、反対に有能で己に従う意を持つ者は種族や身分を問わず受け入れた。皇帝の住んでいた城は自治軍の本拠とし、軍の再編成を行い治安の平定に努めている。そして、優秀な仲間の助言を得て、今まさに新国家の樹立宣言の草案を作りかけていたのだ。 やらなければならない事はたくさんあるから、つい後回しにしてしまいがちだったが、ようやっと今晩着手し始めた。夜が明け、女中が扉をノックするまでに草案を書き上げなければならない。でなければ、自分についてきてくれた仲間達がいい加減不安がることだろう。 草案は仲間達に目を通してもらい、清書をし、内外に向けて発せられる。
* * *
窓から離れ、再び執務机に向かい草案を思案していると、涼やかな風が頬を撫でた。閉められていた筈の窓が開いており、カーテンが霧の様に柔らかく揺れている。 カーペットには人影が一つ、落ちていた。人影は足音も無く室内へと入り、その姿を表す。 「モルニエ」 名前を呼ぶと、相手は白皙の美貌に淡い微笑みを浮かべる。地に引き摺る程、長い布を何枚も重ね着たエルフは190cmと、すらりと背が長く、188cmあるトゥーエよりも高い。されどその儚気な雰囲気は、強烈な雰囲気を纏い筋肉の鎧で覆われたトゥーエよりも低く見られがちであった。 再度ペンを置き、エルフの男を迎えるべく立ち上がり歩み寄る。滅多に人前には現れず、伝説となりつつあったエルフは月明かりの下、神々しく存在を静かに主張している。 「‥じきに月が沈み陽が上る‥」 腹底に響く、美しいバスの声が優雅に言葉を紡ぐ。正確な発音で、一字一字の間さえ計算された様、湖に葉が落ちたが如く緩やかな抑揚は仕事で疲れたトゥーエの神経を宥めさせる。 モルニエが喋っているのは人間の言葉、エルフ語は音楽の様に美しいのだが生憎トゥーエは未だ会話が出来る程、エルフ語が話せない。エルフは独特の言い回しによって意志を伝える癖があった。モルニエは恐らく、「こんな夜明け近くに起きているのは何故か」と言ったのだろう。 「あぁ。今、国家樹立の宣言を考えていたところだ」 執務机を横目で示せば、深い水色の瞳が後を追う。 「ひとは儚い。多くの人間は我々の一晩の間に、生まれて消え行く。ぬしは夜明けを見よ‥」 「…大丈夫だ」 エルフの繊細な指先が、トゥーエの顎を捉え上を向かせる。翠色と水色の瞳がかち合う。 モルニエはトゥーエの、排他的なまでの強烈な瞳が好きだった。その瞳と視線が交わった時、一目で心を捕らわれた。エルフには絶対に無い、強過ぎる目だ。故に、この男に協力をした。 トゥーエが国軍に勝てた大きな一因は、モルニエの力もある。エルフ一人いれば千人力に値する。彼は戦場において、また軍を編成する際において圧倒的な力と存在感だった。そのモルニエがトゥーエを愛しているなど、ましてやトゥーエもまたモルニエを愛しているなどと長い付き合いの仲間でさえも知らぬことだろう。 二人は何気なく首を傾げ、静かに唇を重ねる。愛おしい。想いが募る。募って密やかに高みへと向かい、穏やかに酷く混じり合う。傷に覆われた体がカーペットに倒れ、その上を細身の体が覆い被さる。 「お前も…、宣言の草案を聞いてくれ……」 本当は、モルニエが訪れるのは分っていた。エルフの男も、この人間の男が築き上げる最初の言葉を、聞きに来た。 「『神と我が民とローランドの地において宣言す』」 細い指の巧みな愛撫で、トゥーエの息が上がる。体が熱くなる。カーペット下の石畳さえ、体温が移りそうだ。 「『ローランドの災禍は払われた。かつて民を苦しめた為政者達はもういない』――…ッア‥」 山々の向こうに、夜明けが訪れようとしている。
* * *
「だがローランドの民と地に、今までの歴史が穿った傷は深い。精霊の加護をもってしても、癒えることはないだろう。 我々は戦わなければならない。貧困や侵略者や不正、そして己自身の弱さと。民は己の手足でもって畑を耕せ。民は己の手足でもって己の尊厳を侵すものと対峙せよ。民は己の手足でもって国を創れ。 今までの歴史は礎とし、新たな土を被せよ。明日を耕し、今日という糧を得よ。昨日という土をまた新たに重ねよ。
新たなる国を、新たなる歴史を。 あらゆる人種、あらゆる身分の者も戦う民である――‥グランド・イストの建国を、神と我が民とあらゆる国々に表明する。」
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