口説くなんて真似は、できないけれど。
―――君に話しかける、勇気があるのなら。
暗く設定された淡いライトの下。 流れるピアノの旋律は、独特なジャズミュージック。 酒と煙草と香水の香りが交じり合うバーの一角。
そこが、世界のすべてだった。
ここには、ピアノがある。 ここには、居場所がある。 ここには。
―――あなたがいる。
「あ、ピアノさん。ここで飲んでてもいい?」 人懐っこい笑顔を浮かべた少年が、オレンジジュースのグラスを片手に問いかけてくる。 「どうぞ。いらっしゃい、弟くん」 指は止めずに笑顔で応えると。 はにかむような笑顔を見せた少年が、鍵盤がよく見える位置にある椅子にふわりと座る。
ピアノとオレンジジュースと、僕とあなた。
そこには。 ―――誰にも言えない恋心があった。
出会いというものは、なんとなくやっぱりかというほど、突然で。 「おや…」 ダンディ、真摯、執事、などの言葉を具現化したような、立派なちょび髭にどえらく似合う黒いスーツを着込んだバーのマスターが、携帯の着信メールを見るなりびっくりした声をあげた。 人生経験豊富な初老という風貌のこの人が携帯なるものを所持していたのにもいささか驚きだが、そういえば実年齢は意外と若かったはずだと思い出し、それよりも、驚きの感情を露わにしていることのほうに改めて驚く。 自分がピアノ弾きとしてこのバーに雇われてから初めて見る、マスターの穏やかな顔以外の顔なのではなかろうか。 「……どうか、したんですか?」 和音をアドリブで重ねながら、せめて空気を乱さない程度の音を奏でて尋ねると。 「いや…まぁ、なんて言ったらいいのか……」 ポーカーフェイスというのか、穏やかな顔を絶対に崩さないこの人が、苦笑のような。 そんな、はにかんだ表情でありながら、複雑そうな困った表情を見せるから。 「…あ、マスター、もしかして…」 失礼のない程度に、そっとカウンターの一席に視線を送ると。 「…そうだよ。私の、―――大事な人だ」 マスターは、柔らかで穏やかな表情をして微笑んでいた。
カウンター席の一番右端。 そこは常に予約席とされている、特別な席だった。 作業場、よくマスターは右端の席の前にいるが。 そうでなくても、マスターはよくそこにいる。 そして、愛しそうな表情でその席を見つめていることも。
それがあまりにも不思議すぎて、雇ってもらってから数日後には質問していた。 ―――その予約席にはどんな意味があるのか、と。 マスターの答えは簡単で、それでいてあっさりとしたものだった。
―――大事な人の、大事な席だよ、と。
それ以上は言わなかったし、問おうともしなかった。
大事な人以外を許さない場所、というのは理解ができたから。
一時間後に、その大事な人はやってきた。 マスターの大事な人、というのにも、少なからず興味があって。 なんとはなしに、開いたドアへと目が向いていて。
大事な人、というだけで女性だと勘違いした自分は、なんだったんだろう。
「こんばんわー」
とてつもなく、明るい声が店内に響いた。
「え」
軽く、いや、かなりびっくりした自分なんかは置いてけぼりで。 入り口に突っ立っている人物は、おおよそバーには不似合いな、小柄で可愛らしい少年で。 その元気なテンションも、すべてがなんだか薄暗い店からは異質な存在だった。 「おお、いらっしゃい」 「お久しぶりっ、おじさん」 「大きくなったね。今、いくつくらいだったかな」 「ん。高1だよ。これからも大きくなるつもりだから、よろしく!」 「そうか…もう十六かぁ…。そのうち身長もぐんぐん伸びるよ」 「そうだよ!まだまだ希望はあるから!」
…この子が、大事な人…? いや、息子とか…でも、妻帯していないって言ってたような……まさか隠し子!?そんなサプライズなのか…?待て待て、おじさんって言ったぞ…なんだ、親戚の子か…? 呆気に取られて、思いがけず指を間違ってどえらい不協和音を弾いてしまうと。
不意に、その少年がこちらを向いた。 大きな丸い瞳と、視線がかち合う。
「……!」 心臓が、軽く跳ねた。
「わ、グランドピアノ!やっと弾ける人見つかったんだぁ」 「最近ね。ようやくアンティークから抜け出せたんだよ。若いけれど、彼はプロだよ」 「え!すっごい!おじさん、繁盛してるねぇ」 明るい声。 少し高い、心地よい音。 笑顔を伴った、楽しそうな声。
少年の声に、必死になって耳を傾けている自分。
―――何をしているんだ、僕は。
ふるふると頭を振って、指先に集中する。 あんなミスをするなんてらしくない、と自らを叱って指先に力を込めて再び弾き出そうとした、その時に。
「……あぁ、いらっしゃい」
どこか、もう一言言うような言わないような、そんなマスターの声とともに。 「……どうも、お久しぶりです」 少年の後ろから、自分とそうも年齢の変わらない長身細身の人物が店へと入ってきた。
たまげた、なんて古い言葉を使ってしまいそうになるほどの美人さんだった。 そして、明らかに、男だった。
その美青年は、入って少しすると立ち止まってマスターを見つめ。 マスターもまた、言葉もなく青年を見て立ち尽くしていた。
少年は、入り口で立ち止まったままじっと二人を見ていて。 その姿が。 あまりにも、健気だった。 あまりにも、切なげだった。 あまりにも。
―――哀しそうだった。 そして、そんな少年に。
―――自分は目を離せないでいた。
それが、少年との出会い。
「……こちらへ」 マスターが、一番右端の席へと招いて、彼は遠慮気味に微笑むとゆっくりとそこへ腰を下ろした。 青年が座ったのを確認すると、いまだ入り口で突っ立っていた少年へと目を向けるが。 「……」 青年の隣りを示した手を、しかし少年は笑顔で首を振って見せた。 「オレンジジュース、一つちょうだい」 とことこと歩くと、お客のいなかったカウンターの一番左端へと腰を下ろす。 ちょうど、ピアノから姿がよく見える席で。 近いところにいるとなると、少し緊張してしまった。
―――何を緊張しているんだ、僕は。
ほんのり体温が上がった頬を、ぺちりと叩いて集中する。 指先に集中していないと、マスターたちの会話を聞いてしまいそうだったからだ。 指先を見ていないと、少年の後姿を見てしまいそうだったからだ。
「元気……だった?」 「はい……っ、あの…」 「コーヒー?それとも、なにか、飲むかい?」 「え……あ、……ブレンド、お願いして、いいですか」 「砂糖を大めに、だったかな?」 「……はい」
少年は、ずっと二人に背を向けてこちらに横顔を見せ、じっと店の壁一点を見つめていた。
……集中するんだ、集中っ。
「…このソーサー…懐かしいです」 「うん…それだけは、捨てられなかったから……」 「……」 「……」 「…っ、あの……」 「弟くんも、もう高校生だってね……時が経つのは早いもんだ」
不意に少年の肩がピクリと動き、目と首だけでわずかに振り返る。 それでも、弟くんと呼ばれた彼は、背中を二人に向けたままだった。
…いや、耳でも目でもなく指先に集中だってば…!
「もう、三年が経った……んですよね…」 「ああ…」 「学生だから、ダメだって言ったの、覚えてますか……」 「……」 「学生だから、将来のこととかって……大学も卒業して、就職、しましたよ…俺……」 「……へぇ、就職か…君が仕事かぁ……想像がつかな―――」 「茶化さないでくださいっ…!ちゃんと、俺は、約束を……」 「……」 「……」
集中集中集中集中……え、なに、この沈黙。
「おじさーん。オレンジジュース、…もらっていい?」
少年が、二人のいるカウンターの反対側の席から声を上げる。 カウンター席に肘をついて、プラプラと手を振っていた。 「…っ、あ、あぁ…、ごめんよ。今すぐ」 オレンジジュースのグラスを持ってきたマスターのその手を。 少年は人差し指でちょんと押さえて。 マスターに顔を寄せて、小声で。 かろうじてピアノの音の隅で聞こえた言葉は。 「ねぇ、おじさん。もう、はぐらかさないで……本当のこと言って…。どんな結果でもいいんだ。兄さんは覚悟して来てるから。だから、聞いて、答えてほしい」 マスターは。 困ったように笑った。 何に困っているのか、自分にはさっぱりわからなかったけど。
ただ、少年が一瞬青年を見たその背中を、見逃さずに見ていた。
途中、二人が何を話したとか、自分は何を奏でていたとか、あまり覚えていない。
会話の最中は決して二人を見ない少年を、じっと見ていたから。 祈るような、ひたすらじっとしているその姿に、目を奪われてしまっていたから。
それから、マスターの苦笑、というものをよく見かけるようになった。
あの日、マスターは青年に帰ってほしいと告げた。 ショックのような表情の後、泣きそうな顔で、じゃあやっぱり、と青年がぽつりと言いそうになると。 ―――俺にも、覚悟をさせてほしいと。 マスターが、マスターじゃない顔をして、そう言った。 それをどう受け取ったのか、青年は少年に目配せをして帰っていった。 どうやら、というか、やはり。 マスターは昔、今のようにわざと年老いた格好をせず、実年齢通りの若い格好をしていた頃、あの美青年と恋人関係にあったそうな。 美青年の年齢からその当時の過去を振り返ると、美青年のほうは相当若い気もするのだが。 ―――学生だった彼を思って、あえて別れを選んだ。 そういったことをぽつりとこぼしたマスターは、マスターに悩みを打ち明ける常連さんと同じ背中をしていた。 学生の彼には広がっている未来があって。 それを、自分の恋人にすることで色々と潰してしまうんじゃないかと。 彼には幸せになってほしかったから、だから―――。
「別れを選んだことは、後悔していないんだ……」 閉店して、グラス磨きをしているマスターは、床のモップがけをする僕に語りかけていた。 「だけど、……ヨリを戻してくれって言われるとは……思ってなかったなぁ…」 グラスに息を吹きかける動作はほとんどため息に近い。 「約束って……そういう意味じゃ…なかったのになぁ…」 「…マスター」
マスターが大事な人だと言った、あのときの表情。 マスターの。
「後悔してないって言ってる人間の、表情じゃあないですよ、それ」
その、顔が。 あまりにも、切なそうで。
「僕は、詳しいこと何も知らないですけどね……ただ、幸せでもなんでもない人間に、幸せになれって言われても、どうしろっつー話ですよ。……マスター。あの人は、願ってほしいわけじゃないんじゃないですか?」
―――幸せになれと願うことは。
誰のための幸せだというのだろうか。
マスターが妙に時計を気にしている。 今日、どうやらあの兄弟がやってくるらしい。 マスターの表情は相変わらず伺い知れないが、緊張していることは空気で伝わってくる。 接客態度的にそれどうよ、とか思うが。 緊張しているマスター同様、僕も少なからず緊張していた。
あの弟くんに会えることに、そうとう嬉しがっている自分に、もう気が付いていたから。
だから。
「ここで…見ていてもいい?」 少年に話しかけられたのは、いきなりでびっくりした。
この前と似たような時間帯に来た二人は、相変わらずカウンターの右と左の両極端に座り、ブレンドとオレンジジュースをそれぞれ受け取った。 イスに青年が座ったっきり。
マスターは何も言わない。 青年も、何も言わない。
そうこう沈黙が続いているうちに一曲弾き終わり、次はどんな曲を弾こうか考えながら、適当な和音をさりげなく弾きながら休憩している最中で。
それをチャンスに、鍵盤がよく見える位置へと移動した少年が、そっと話しかけてきたのだった。
オレンジジュースが半分くらい入ったグラスを持って、許可などいらないはずなのに、椅子の背もたれを触るだけで立ったまま、こちらに回答を求めてくる。 茶色がかった大きな瞳に、くるりと見つめられて。
明らかに狼狽した自分がいた。
「え…っと、…う、うん…、…どうぞ…」
どもんなよ、僕ってば! 「ありがとう。ピアノさん」 にっこりと少年は笑って、ふわりと椅子に座った。
―――名前。 そうそう、名前! 今名乗れば、自然と相手の名前も聞けるじゃん! 言えよ、今! 言うんだ、僕!
「……」
言えよ!!
「っ…あー…」
ちらり、と小さく振り返ると。 少年の目は。 鍵盤を見つめていて。 じっと、自分を見つめていて。 ―――なにかが破裂しそうだった。 漫画みたいに、鼻血ってこういうときに出るんだっけ、とか真剣に考えてしまった。
「……おっ、オレンジジュース…ぬるくない?氷っ、足そうか…?」
名前は!?どうしたよ、名前は!!!!
おずおずと、情けなくもそんなことしか言い出せなかった自分に。 「え?あ、ううんっ。氷でちょっと薄まったくらいが好きだから」 少年はにこやかに応じてくれた。 その笑顔の眩しさに。 素直に名前を言えない自分が、余計情けなくなる。
ため息が出そうになるのをなんとか我慢して、何を弾こうか全然考えていない頭で、どうにか鍵盤に向かう。 ジャズは即興が多いけれど、それはジャズバンドならではのよさがあるからこそで、ピアノソロだとどうにもうまくいかない。 上手い人は上手いのだろうが、自分は性格的にもその場で曲を作り出すのには向いていなかった。 だから、何を弾くか、決めてからでしか弾き出す事ができない。 何を弾こう。 ―――今は、少年が後ろにいるんだ。 集中力が、なんとなくぶれる。 何を弾けばいいのか、さっぱり浮かばない。 近いところで見たい、と言い出したのは、近くで弾いてるのが見たい、ということだろう。
格好よくキメろよ、自分…!
そうなると、情けなくもパニックになるのが自分で。
もう何度も適当に選んで弾いているはずの和音を、すっかりループさせてしまっている。 そろそろタイミング的にも弾き出さなくては、店の空気も退屈なものになってしまう。 それはピアニストとして最低というものだ。 だけど。 何を弾けばいいのか…。
「…な…なにか、リクエスト、…とかって、ある?」
え、なに聞いてんの、僕。 いやいや、いきなりそれはないでしょ…! なんでもいい、とか言われたらどうすんの、墓穴!?自滅!? パニックに助長をかけるように、自らの言に後悔しつつ焦っていると。
「じゃあ、バッハのG線上のアリア」
少年はさらっとリクエスト曲を言ってのけた。
「え」 自分から言い出しておいて予想外なことに戸惑っていると。 「あ…ヴァイオリン曲なんて…すいません。ええっと…じゃあ…―――」 どうやら少年は勘違いしたらしく、思案気な表情を浮かべてしまう。 ころころ動く表情につい見とれてしまいそうだったが。 ふるふると頭を振ると、そっと和音を止める。 「いや、弾けるよ。…では、ジャズアレンジで、G線上のアリア」 ジャズアレンジというか、そもそもピアノアレンジでもあるけれど、と付け足して。
指先に、想いを込める。
少年は知ってか知らないでか。
G線上のアリアは。 ―――悲しみと喜びが凝縮したバッハの青春時代を象徴する曲なのだ。
悲しみと、喜びと。 それでいて、バッハの最も幸せな時期と呼ばれる、その時代の曲を。
少年はきっと。 鍵盤ではなく。 自分でもなく。
―――二人を、見ているのだろう。
おもしろくない、とか、ちょっと勝手に妬いている自分には気が付いていたけれど。
必死な少年に、ふざけた態度で返す自分を、許せないと思ったからで。
そういうことに必死になっている自分に、ちょっと笑えてしまった。 ―――どうやら夢中なようだなぁって。
弾き終えると、小さな拍手が耳に響いて驚いた。 少年が、オレンジジュースを持った手の甲を片手で叩いて。
「ありがとう」
そう言って笑ってくれたから。
ここに、自分がいるんだって思えた。
何か、力になれるわけではないけれど。 賞賛を送られる、程度には。 ここに、存在しているんだって。 あなたが、僕を見ているんだって。
わかったから。
それから、兄の美青年のほうが、ときたま仕事帰りに店に寄るようになった。 たまに、彼の仕事が早めに終わる日は、学校帰りの弟くん(未だ名前は聞けていないし、名乗れてもいない。マスターに聞けばいいのだが、その勇気すらない…な、情けない…)も一緒になってやってくる。
マスターは、よく笑うようになった。 そして、青年も、美しい顔で綺麗に笑う。 幸せそうだなぁって、よく思うようになった。
そして、気を遣っているのか、兄と同伴する弟くんは相変わらずピアノの近くに腰掛けて。
「ね、ピアノさんはさ―――」
よく話しかけてくれるようになった。
とっても嬉しいなぁって、よく思うようになった。 だけどちょっと残念なのは、必ず青年と一緒にやってくるから、青年がいないと来ない、または青年が来ないかと言い出さなければ来ない、青年と帰宅する時間が合わなければ来ないというこの状況だった。
欲張りだなぁ、と自分でも思う。 もっと、会いたい。 なんて、思ってる。
もっと、なんて。 いったいいくつ年が離れている思っているんだ、僕は…!
「九つは大き―――」 「それ、なんて曲?」 いきなりこぼした独り言に、思いがけず弟くんの声がかぶる。
―――しまった。 弟くんが、いたのに。 なんだか、悶々としたまま弾いてしまっていた。 しかも、独り言とか、僕なにしてんのぉ!
「あ、ごめん。なんて?」 かぶったことをわびて、斜め後ろの、鍵盤がよく見える位置に座る弟くんが尋ねてくるが。 「う、ううん!?なにも?それよりも、弟くんは?」 聞かないでほしかったなぁ。 だから、弟くんのほうを促すと、きょとんとしたあとに気を取り直して再び問いかける。 「ん、だから、それなんて曲なのかなぁって。知らない曲だったから」 曲? 質問の意味を掴みかねてぽかんとしていると。 「んっと?だから、今、弾いてたの」 今、弾いてたの?
「!」
今、弾いていたことを忘れるぐらい、考え事に没頭する自分がいたことを思い出す。
僕は何を考えていた? 何を奏でていた?
狼狽していると、弟くんは小さく笑って。
「なんだか、迷ってる?みたいなかんじに聞こえた曲で……おじさんが、乙女の恋っていう曲だよっていうんだけど、知らなくて……誰の曲?有名?」
顔が、真っ赤になった。
そうだ。 何を隠そう、この愛くるしい弟くんのことを考えていたのであって。 感情がよく出るのが、この楽器というものの真理で。
くすっと、カウンターの向こう、青年の前に張り付いて立っているマスターから笑い声がもれて聞こえる。 ついでに、いつもマスターしか見えていない、という様子の青年も今日は何故かこちらを見て、穏やかに微笑んでいる。
なんだこの状況。
「ええと、ええと…」 「ん?あ、もしかして、即興だったの?すっごい!」 「え?ええ…!?うん、うん…まぁ…」 この気持ちを、口で言えない自分がもどかしい。 音にするしかできないなんて。 うまく伝えることができないなんて。
「心に響いたよー!ピアノさん、やっぱすごいね!」
弟くんは笑顔で絶賛してくれて。
「え、う、…うん、いや、…あ、ありがとう…」 そこでどもんなよ、僕!
情けない自分に泣きそうになりながらも。 弟くんの笑顔が嬉しくって。 頬は、いつのまにか緩んでいた。
「ピアノさんのピアノ、本当スキだなぁー。また前みたいにリクエストとか、していい?」 いつのまにかグランドピアノのすぐ傍までやってきた弟くんが、首を傾げながら問いかける。 「えっ!」 言われた賞賛と短くなったその距離に、思いのほか心臓を跳ねさせる自分がいて。 また顔が真っ赤になって。
パニックになったのと同時に、調子に乗ってしまったのかもしれない。
「いつでもっ…!いつでも、聞きにおいでよ…。嬉しい、から…」
突拍子の無いことを、言い出した口があった。 弟くんは、案の定いきなりの訳のわからないことにぽかんとしていて。 「え、あ、その……聞いてくれるの、すごく嬉しいから。聞いたかったら、別に、いつでも…」 なにをまとめたの、僕は!? 言ってること、わけわかんないままだし!!! いかん、なにを言い出しはじめているんだ、僕は! 焦ってパニックになった頭は、もはや語録もろくに表示させてくれなくて。 もう何も付け加えることもできずに黙ってしまうと。
「いつでも、来て、いい?」
小さな声が、小さく尋ねてくる。
「いつでも、一人でも、来ていい?」
重ねられた問いに。 馬鹿みたいにぶんぶん首を上下運動させている自分がいて。
それを見て笑った弟くんを、愛しいと思った自分がいて。
「ん!絶対来るっ!」
笑う弟くんに。
今度は即興曲で気持ちを露わにするんじゃなくて。
言葉にしようと思う。
あなたの名前を知りたいって。
あなたのことが、知りたいって。 あなたのことが―――。
「「……いつのまに…」」 マスターと青年が声を揃えていたことを知るのは、もう少し後になってのこと。
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