―――ずるい、ということには、なんとなく気が付いていた。
だけど。
口に出すほど、素直でもなくて。
「はい」 情事の後に、ベッドで身動きもできずに横になっていると、いつものように無関心さと安穏な雰囲気とをごちゃまぜにした声音と共に、万札がいくらか降ってくる。 はらはらと裸身の上に落ちる万札は、ありがたいお金でありながらさっぱり虚しくて。 正直言ってまだ色々濡れているから、身体の上に降らすのはやめてほしい、とかじゃなくて。 万札越しに見える相手の瞳は、最中のそれが幻であったように温度を感じられなくて。
―――あ、すっごく嫌だ。
そう思ったところで所詮この人は『客』なので、言えたものではないのはわかりきっていることで。 「……どうも」 せめてぶっきらぼうに返事したらいいのに、掠れた喉から出てくるのは弱々しくてなよっとした―――自分の一番嫌いな声だった。 サイフをしまいこんだ相手は、札を取ってため息をついた自分に何を勘違いしたのか。 「気持ちよかったですよ?……何を悩んでいるのかな……?」 自分の顔の傍に手をついて、覆いかぶさるようにして再びベッドに乗り込んできて、低い声音で耳元でささやくようにして問いかけてくるこの人だから。 ベッドの軽い軋み、耳に掛かる吐息、それだけで顔を熱くして動けなくなってしまう自分だから。
―――どっちが『その道の人間』だか、わかったものじゃない。
電話が掛かってきたのが、コンビニのバイトが終わってすぐで。 言われたままにこの人の自宅に入っていったら、相手はすでに準備万端で。 何回戦までヤったとかいうのは数えるのも億劫で。
―――家帰って、俺寝る時間あるのかなぁ。
そんなことをぼんやり考え込んでいると。 「なに、どうしたんです?本当に具合でも……悪いんですか?」 心配気な声と共に、相手の広い掌が自分のおでこを捉える。
この人に触れられたその部分だけが、温度を持っているような感覚―――。
「っ…!いや、なんでもないからっ……」 顔を離すために、慌てて上半身を起こしてしまって。 「……!」 冗談にならない腰の悲鳴に、無理矢理耐え忍んでいると。 「うーん……でも、オフの日に駆けつけてもらった身分だし……」 ベッドの端に座っている相手は、どうにものんびりとした口調で返してきた。
『そういうお店』の名刺を持つ『そういう職業』の自分に、オフの日もあるものだろうか、とも思うが。 たしかに、『そういう仕事』をしない日、ではあった。 ただ―――。
プライベートの電話番号を知っている、その意味を、どうしてわかってくれないのだろうか。
再び出そうになるため息を、気持ちだけ我慢していると。
「じゃあ……今日は家まで送りますよ」
相手は、とんでもないことを提案してきたのだった。
「……あの……和泉さん?」 こちらがぽかんとしていてもお構いなくこの人―――和泉の中では、どんどん話が進んでいるらしく。 「三科(みしな)君の家はたしか……うん、大丈夫。あの周辺は多少心得てるから迷いませんよ。一旦車出してくるから、ちょっと待っていてくださいね」 とか言って、キーケースをしまっている棚まですたすた歩き出し。
―――あぁ、もうこの人の家のどこに何があるとか、わかっている自分がいるんだなぁ。
とか思いながら相手のひょろっと長い姿を見つめていて。
―――沸点を越えた。
我ながら情けないくらい顔が真っ赤になってしまい。 我ながら他人に言えないくらい鼓動を高めてしまい。
……いつから、意識しなくてもこの人を目で追いかけるようになったんだろう。
いつから、意識しなくてもこの人を知ろうとする自分がいたんだろう。
キーケースをポケットに突っ込んだ相手は、こちらの視線に気付いたらしく。 一瞬びっくりしたかと思うと、すぐさまふわりと表情をゆるめて。
―――大抵こんな表情をするときのこの人は。
「……三科君?大丈夫?無理しなくても、横になってていいんだよ……それとも……」
―――こちらの揚げ足を取りに来やがるのだ。
「物欲しそうな顔しちゃって……誘ってます?」
そんな台詞を柔和な一面の裏に隠している表情で言うから。 すでに顎を細い指で捉えられているから。 耳まで熱いのが、自分でもはっきりとわかる。 「……っ!」 せめて赤くなった顔を見られないように俯けて、体格差のまるで違う相手の肩を力一杯押し返す。 「……もう帰る」 つぶやいた声は―――情けないくらい泣きそうな音を含んでいて。 「送るとか、別に、いい、いらないから……」 相手の顔をまったく見ずに、そこらへんに散らかっていた自分の服を引っ付かんでそそくさと袖を通してゆく。 シャワーを浴びさせて欲しかったが、そうもわがままは言っていられないし。 ―――そもそも、俺ら二人は。
「あ、そっか……恋人、いるんでしたね」
沈黙を破るように言った相手の声音は軽く、まるで独り言のようで。
―――自分のことなのに、あまりに他人事のように聞こえた。
恋人がいるのだ。 この人にも。
―――俺にも。
自分の恋人というのは、大学の初めに付き合いだしてそろそろ一年になる男だった。 身体の関係から始まった、というのは否めない。 会う度に重ねていたし、重ねるために会っていたようなものだった。 我ながら淡泊な関係だとは苦笑したが。
どうしようもなく彼の身体に溺れてしまったことには、うまく笑えなかった。
愛情なんかない、そんな関係。
どちらからともなく付き合いだした間柄だけに、これほど淡泊な身体だけの関係もないのではないかというのも相まって、もはや惚れたはれたの弱みはないと思っていたのだが。
―――暴力を振るわれたとき、それでも離れたくないと一心に願った自分が、いたのだった。
いきなりの暴力は手加減がなく、病院に無理な言い訳をして治療しに行くこともある。 顔にも容赦がなかったし、脚や腕、腹などに痣が消えない日はなかった。 とても怖かった。 殴られる度、子どもみたいに泣き出してしまうくらい、いつも、どんなときも怖い。
だけど、なんでもなく暴力をする人じゃなかった。 酒が主で、あとはイライラしていたり、不機嫌にさせたときだったり。 そういうときはほとんど無理矢理ベッドに連れて行かれて、殴られながら貫かれるから、冗談じゃなく意識が飛ぶのだけど。 朝目覚めると必ず食べやすいメニューの朝食と、次会える予定の書かれたメモと。
―――ごめん、の置き手紙がある。
それだけで許せる訳じゃない。
だけど、離れたくなかった。
だけど、助かりたかった。
男相手に身体を売る仕事をし出したのは、それからだった。 幸い、人の需要というのはわからないもので。 大学生ながら、高校生やときに中学生にさえタメ口使われるくらい童顔な自分の、怪我を負った姿、というのは指名客を軒並み増やしてくれた要因だった。 怪我を作ってくれているのは本当の恋人で、それを喜ぶセフレ関係の客、というのも妙に嫌味なことだと思える。
好きでもない男に抱かれるのは虚しかった。 殊更、そうして受け取る金はいっそう虚しかった。
だけど。
会えない間は、助かりたかった。 恋人のことを忘れたかった。
―――逃げだし、たかった。
そんなときに店で出会ったのが『和泉』という男だった。
よくわからない男というのが第一印象で、結局掴めない性格をしているなぁと思う。
殴られた痣を見て、『客が殴ったんじゃないよね?』とか尋ねてきたのは、この人が初めてだった。 だから何?とか適当に返して。 「癒してあげたいなぁと、思いまして」 とか言ってくるのも、もちろん和泉が初めてだった。
和泉が一番の常連客になるのに、そう時間はかからなかった。
恋人に会えないときは和泉に会いたかった。
恋人がいなければ和泉に会いたかった。
会いたかったのは。
―――和泉だった。
「シャワーまで借りちゃって……どうもお邪魔しました」 清々しい石鹸の香りを髪から感じながら、和泉の表札のある家の玄関口を開ける。 手元を見なくてもはずせる、玄関の鍵だとか。 玄関を開ける力の入れ具合だとか。 安心する、この家の香りだとか。
背後に立って見送る、この人だとか。
―――いつから夢中になってしまったんだろう。
いつからこんなにも和泉のことが……。
「じゃ……また」
夜を照らす、街灯の光がまぶしい。 恋人が先週作ったすねの痣は、いまだ歩く度に痛むけれど。
この心に比べれば。
―――ずるい、ということには、なんとなく気が付いている。
恋人の存在が、いまだ自分の中では大きく占めている。
だけど。
俺はたぶん……。
和泉の家から出るときは決して振り返らない。
―――俺には、見送りにずっと立っている『彼』を、もらえる金越しでしか見ることができないから。
今日も、逃してしまったらしい三科の背中をため息混じりに見送る。 夜闇に小さく照らす街灯の下、怪我だらけの身体を衣服で覆い隠す小さな体は、それこそ闇に掻き消えてしまいそうだけれど。
そうやって自分のもとを離れるのも、三科らしいといえば三科らしい。
大胆に傷を見せるくせして、肝心なところは見せない。
三科の―――心ともいうべきもの。
きっかけはただの同情だった。 神秘的なまでに魅惑的な、痛ましい傷を讃えた三科。 傷ついて、癒されたがっているのに、なかなかそれを許さない。 それを許さないのは、三科自身なのか、相手に心を開くことそのものなのか。
―――どっちにしろ。
はまって、しまっていた。
異性の恋人に見向きもできなくなるほど、三科に。
恋人と離縁を持ち出してしまうほど派手に喧嘩して、その憂さ晴らし、なんて刹那的なもののはずだったのに。
気付けば、こんなにも三科のことが……。
―――ずるい、ということには、なんとなく気が付いている。
言わなければ、きっと三科は気付いてくれない。
どれほど一途に頑固勝負する気なんだか、と自分でも苦笑がこぼれる。
店やホテルじゃなくて自宅に呼んで会っている、その意味を、どうしてわかってくれないんだろうか。
自分の家を離れる三科を決して呼び止めない。
―――俺は『彼』が自分でこちらに来てくれる日をずっと待ってるから。
与えるものは、全部与えるよ。
だから、おいで。
―――ずるいなぁ。
自分も。
『彼』も。
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