俺は無駄な事はしない。 これがエーデンツ・リリート・ルーの決まり文句だ。初めてその台詞を言われた時、ザナファは随分と顔が引き攣ったのを覚えている。 あれは八年前の満月の夜だった。大きなオアシスを中心に栄えた国、アーニャへの道案内をして欲しいと知り合いから連絡があった。知り合いとは、砂漠に接する農業国ボナの公爵家次男坊だ。砂漠の右寄りど真ん中にあるアーニャへ向かうには、三日間の道のりを駱駝に乗って進まなければならない。 ザナファの一族は、ガドゥンと呼ばれる砂漠の民だ。褐色の肌と金色の髪に瞳を持つ。ガドゥンは砂漠を闊歩する盗賊であり、アーニャを中心に世界を渡り歩く放浪商人でもある。アーニャの民はガドゥンの一部がオアシスに定住した事から始まる。故にアーニャはガドゥンの盗賊行為を止めはしない。むしろ、ガドゥンが旅人の身ぐるみを剥ぐ事によってアーニャの民は丸裸の旅人に商品を押し付けるのだ。 代金は後で良いから契約書にサインして、と愛想と愛嬌の良い笑顔でごり押しする。旅人は背に腹は代えられぬ、或は踏み倒せば良いかと容易にサインをすると世界中に散らばっているガドゥンが各地各地で借金を取りにやってくる。期日までに金を返さなければ、今度は自分の身が売られるのだ。盗賊を演じたガドゥンはその分け前をアーニャに与え、皆が程よく満足する結果が得られるシステムだ。 同じ光景が続く砂漠の上は目印が無い。だから金とツテの有る者はガドゥンに案内を依頼する。盗む側も、同族が道案内をしていると分かれば手を出さないから、魔物だけに警戒をしていれば良かった。 そういう訳で、ザナファは友人である公爵次男坊がいる一行をアーニャに案内する事になった。次男坊を筆頭に、剣を腰から下げた男の子供が一人、騎士らしき女が一人、僧兵の男が一人。 「おかしなメンツだな」 そう言うと、マントのフードを目深に被った子供が顔を上げ、 「おかしな事だ。お前みたいな子供が案内人で大丈夫なのか?」 と生意気な口をきいてきた。更に憎くも、歌えば天使が舞い降りてきそうな澄き通った声だ。当時ザナファは19歳で、相手は明らかに16歳以下にしか見えなかった。 「子供に子供と言われる筋合いは無ぇな」 エーデンツ・リリート・ルーと名乗った子供は、ガドゥンの少年と公爵家の次男坊を見比べて、ぷいと他所を向いた。思わず、「何とか言えよ」とすごんだら、奴は紫の瞳を細め、 「俺は無駄な事はしない」 と言った。 己より遥か低い位置にある頭を殴り、次男坊にどうどうと抑えられた。 アーニャに辿り着いて、その子供が予言の勇者だと知る。
あの出会いから成り行きでエーデンツと旅を始めて二年、奴をエリィと呼んで一年、エリィのパーティと離れて五年の月日が流れた。エリィは旅の途中、目に見える程に体も心も成長をしていた。ザナファ自身も彼等と世界を渡り歩き、様々な問題に巻き込まれ色々な事を学んだ。そして不意に自分のやりたい事は違うと気付き、ガドゥンとしての己を試したくなり、勇者ご一行から脱退した。 その時エリィの身長はザナファの肩に届く程で、紫の目を見開き珍しく感情を露にして「勝手にしろ」と言った。 ザナファは言われるまでもなく、勝手にした。とにかく我が道を進み、勝手に勝手を上重ねしたら、五年の間で世界屈指の商人となったのだ。
「アズルー」 毛足の長い絨毯の上、幾つも敷き詰めたクッションの山の中に、腰に届く程の豪奢な金髪を美女に結わせている男が寝そべっていた。ガドゥンに伝わる古語で『頭』を意味するアズルーと呼ばれた男は、美女の膝を枕に長い睫毛を持ち上げてテントの入り口を見遣る。 切れ長の目に見据えられた男は、「お客人です」と些か興奮した調子で言った。細い指で三つ編みを作られている男、ザナファは鈍りと上体を起こす。 「客人だァ?」 「勇者様がいらっしゃいました」 傍らのゴブレットから果物を摘み上げた女がザナファの口元へ実を運びながら、驚いた様に息を飲んだ。勇者は既に魔王を討伐し、生きた伝説の人物である。 「良いご身分だな」 低く落ち着いた声がテント内に満ちる。ザナファが驚き何かを言う間も無く、勇者本人が入って来たのだ。 白皙に怜悧な容貌に肩甲骨まで流れる銀糸、紫の瞳は変わる事無くザナファを見下ろしていた。が。 「…ハニー・エリィ?」 声を掛けられた方は茫然と相手を見上げる。それもその筈、勇者エリィは五年の間に見た目が急激な変貌を遂げていた。ザナファの身長は189cmと高身長であるにも関わらず、エリィは更に高そうだ。明らかに190cm後半をいっているだろう。 何処で学んだ仕草なのか、優美な笑みを面にたたえ、テント内にいる人々を外に出すとエリィは長剣をベルトから外す。そして流れる動作で上体を起こしたまま寝そべった大商人の上に影を落とした。極自然に二人の唇が重なる。 「おい…」声に出したら咥内に舌が侵入してきた。勇者と呼ばれた男は、その冷たい容貌に違い熱い舌の持ち主の様だ。口付けを受けているザナファは胡乱気に目を細め、すぐに仕方が無いと言わんばかりに瞼を閉ざし、相手の銀髪を褐色の指で撫でる様に梳く。 エリィに恋愛感情を抱いたのは五年前、その時も強引に口付けされ好きだと告白された。ザナファはバイであったから、エリィを意識し始めるのに時間は必要なかった。二人は別れる時にある約束をした。 「お前はガドゥンが誇る大商人に、俺は魔王を討伐し勇者になった。約束は果たした。‥愛してる、傍にいろ」 アズルーと敬われる大商人は、片眉を顰めつつも笑みを滲ませ「はいはい」と勇者を抱き締めた。 「生きたからこそ、勇者だ。お疲れさん、ハニー・エリィ」
未だ柔らかな感触が残る己の唇を片手で抑え、ザナファは小さな勇者を見下ろした。宿屋の裏側にある厩、いつ仲間が向かえに来るか分からない所だ。相手はふてぶてしく「好きだ」と告白しながらも、紫の瞳を幼い感情で揺るがしている。 ザナファは驚きが引いていくのを感じつつ、今の状況を冷静に把握したが、今度は逆に思考が渦の様に回り始めた。エリィに襟を引っ張られた体勢で。 相手は男で、しかも勇者と予言され、いつ死ぬか分からない人間だ。予言されたからには魔王を討伐するのだろうが、討伐したからといって勇者が生きて立っているとは限らない。誰が考えても、決して恋人にはしたくない相手だ。 その考えが顔に出ていたのか、エリィはザナファの襟を離すと小さく俯いた。真っ直ぐな銀髪がさらりと流れて表情を隠す。 「……俺は、無駄な事は‥しない」 弱々しい声だった。 いつ死ぬか、魔王を倒して生きていられるのか、それは本人が最も知る事だ。他人には考えつかぬ覚悟を抱え、地に足を着き一歩一歩を力強く生きている子供が、考えに考え抜いた末にガドゥンの少年に心を告げたのだろう。そして、己が抱えるリスクに対する言い訳が彼自身の決め台詞であったのだ。それしか、無かったのだ。 暫くの沈黙の後、二人はどちらとも無く宿屋に戻り、以降は普段通りの旅が続けられた。ザナファは十分な時間の間、じっくりと考えた末に、ある日エリィを呼び出し「俺も好きだ」と返事を返したのだった。
世界の全てを背負い、仲間と旅を続けた勇者。 多くの仲間と自身の片腕を失う激戦の末、邪悪なる魔王を討伐した。 傷付いた勇者はその後ガドゥンの民と平和の時を過ごし 後世に”片翼の勇者”と語り継がれる事になる。
広大な砂漠のオアシスに、大きな満月が映り落ちる。 「愛してる」 勇者はとても幸せそうに囁いた。
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