「まさみ~、昨日のは何なのさ」 ケケケッと奇妙な笑い方をしながらキナシが近づいてきた。 「ずいぶん粘ってたじゃないの」 「うるせえよ」 ぷいっと顔を背けて俺はデスクに顔を埋めた。 昨日の会話をこいつに聞かれていたかと思うと、自分が情けなくなる。 周りに気を配る余裕などなかった自分にも腹が立つ。 あれだけみっともない醜態をさらしておいて、結局は意味がないものに終わった。 キナシだけじゃない。 あのおんぼろアパートのことだ。 俺たちの会話なんてアパートの住民全員に筒抜けだろう。 はああ。俺は最大級のため息を付いた。
「まあ、そんなに気を落としなさんな。いざとなれば俺がいるしね」 耳元でこそっと囁くと、ケケケッと奇妙な笑い方をしながら彼は去っていった。 …どういう意味だよ。 いつもは突っ込むけど、今はそんな余裕もない。 構ってくるキナシに対して、俺は時々すごく身構えてしまう。 「安心して。俺は同性愛者しか相手にしないからさ。 マサミは大船に乗ったつもりでいてよ。」 いつだったかキナシが俺にそう言ったが、彼が口にする冗談は俺には少し荷が重すぎる。 もちろん、同性愛者というものに偏見はあまり持ちたくはない。 しかし、染まるつもりはない。 第一俺は女が好きだ。
ああ、力が抜ける。眠い。 昨日なんて一睡もしてない。 あの、女のせいで。
「本日欠伸20回目。寝不足は良くないな」 まあ、事情は分かるから何も言わないけど。 休憩時間にキナシが俺のデスクにきた。 「ほら、差し入れ」 差し出されたものを見ると、見たことのないキャッチフレーズの書かれた栄養ドリンクだった。 気分爽快!シャキッと元気! 「ああ、サンキュな」 受け取った俺を見て、キナシがにやりと笑う。 「俺の愛情たっぷり入ってるからさ。いくら失恋したばっかりだってすぐ立ち直れるよ。なんなら今すぐにでも俺の愛情を確かめてみる?」 ケケケッと笑いながら俺の顔を見る。 「遠慮しとくよ」 ため息をつきながら、キナシを睨むと、「残念」とつぶやいて彼は去っていった。
見るからに怪しそうな瓶だけど、栄養ドリンクだ。 キナシのやつ少しは俺のことを心配していたということか。 彼なりの親切なのかもしれない。 案外、いい奴だな。 そう思って俺はふたを開けた。
ピンポーンピンポーン。 ピンポーンピンポーンピンポーン! 誰だよ! 時は花の金曜日だ。 サラリーマンは居酒屋を梯子し、女たちはデートにいそしむ頃合だろう。 俺を潔く振ってくれたミチコなはずはないし、思い当たる人もいない。 鳴り止みそうもないチャイムに根負けして、俺はガチャリと鍵を開けた。 「ああ、良かった。いたんだマサミ」 これお土産ね、ビールとつまみの入った袋を押し付けられる。 呆気にとられる俺をよそに、彼は靴を脱ぐとすたすたと部屋に入っていってしまった。 「へえ、結構いいところ住んでるじゃん」 どさりとソファに座って勝手にくつろぎだす。 ……。 まあ、誰が来るわけでもないしいいけどさ。
「それにしても、お前よく俺の家が分かったな」 「それは、調べたからね」 プルトップを開けて、キナシはビールを俺に差し出した。 「それにしてもマサミは無用心。こんな俺を家の中に入れちゃっていいの?」 「え?」 一瞬絶句した俺の顔を見て、キナシはケケケと笑った。 「俺は男が好きな同性愛者だぜ、何が起こるかわからない。ましてや酒が入ってはね」 ビールを飲みながらにやりと笑う。 というより、お前が図々しく部屋に上がりこんできたんだろう。 じろりとキナシを睨むと、彼は一瞬黙った。 「いや、俺が言いたいのはそんなことじゃないんだけどね」 どういう意味だと、アルコールで火照った顔に手をやりながら彼を見る。 酒のせいか少し顔が熱かった。 「正式な宣戦布告だよ」 「宣戦布告?」 顔をしかめる俺をじっと見ながらキナシはこう続けた。 「俺木梨孝雄は、斉藤雅巳を手に入れてみせます」 「はい?!」 ぎょっとして彼を見やると、にっこりと笑顔を向けられる。 こういうのって思い立ったが吉日って言うじゃん。だから俺それをマサミに言いにきた。 …おいおい、勝手すぎるぞキナシ。 俺は女に振られたばかりで気持ちの整理もついていないんだぞ。
「でもお前前に、同性愛者意外には興味ないって言ってただろう。大船に乗ったつもりでいろとも言ったぞ」 「鈍いな~、同性愛者なんて男を好きになった時点でそう言われるの。だから、マサミが俺のことを好きになったらマサミは同性愛者ということになるの」 頭を抱え込んだ俺に向かってキナシが教え諭すように言う。 「まあ、難しいことはおいといて言葉よりも気持ちの問題って言うじゃない?ボディーラングウェッジいってみる?」 いつもならケケケと笑うキナシ。 今は笑ってはいるけれど、目が笑っていない。 本気モード全開じゃないか!! 「な、何する気だよ!」 距離をとろうとする俺の身体をがっちり押さえ込んで、彼の顔が近づいてくる。 この細い身体のどこにそんな力があるのか。 ぎゅっと目を瞑った俺の頬にやわらかいものが触れた。 恐る恐る目を開けると、困ったような彼の顔が目に入った。 「お前のせいでもあるんだぞ、マサミ。お前が俺を狂わせたんだから」 少し泣きそうなキナシの顔。 おもわず手を伸ばしそうになった。 俺、今日は帰る!そう言ってキナシは部屋を出て行った。 残された俺は、あたたかさの残る頬を触ってみた。 ぐちゃぐちゃの頭の中。 それでもこれだけは分かった。 何かが始まろうとしているということ。 相当の覚悟が要りそうだということ。
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