誰が発明したのか。 浮き輪というものの存在は素晴らしいと俺は思う。 たとえカナヅチであろうとも、浮き輪があるというその安心感で、海を最高のものに早変わりさせることができるからだ。 寄せては返す波に揺られながら、俺は至福のときを楽しんでいた。 ビバ浮き輪、ビバ海。 完全な夏になりきっていないせいか日差しは穏やかで、閑散としたビーチは、俺に快く浮き輪の使用を許可してくれる。 ああ、最高だ。 最高じゃあないか。
悪友の加賀は、俺の浮き輪を見てブブッと笑っていたがそんなことはお構いなしだ。 だいたい、俺のことを置き去りにして、奴はどこかに行ってしまった。 女好きの彼のこと、どこかで女をナンパしているのかもしれない。 そんなことなどどうでもいいが。
真ん中にぽっかり穴の開いたドーナツに腰を落ち着け、両手両足をそこから投げ出す。 そして全身を弛緩させる。 バランスをとるのが難しいと思ったが、意外に簡単。 浮き輪の居心地はなかなかだ。
空に向かってウウンと腕を伸ばしてみる。 ああ、澄みきった空。 真っ白く立ち上る入道雲。 夏はもう目前だ。
しかし、事態は急展開をみせる。
油断に油断を重ねていた時だった。 ツン、と俺の尻に何かがあたった。 一瞬気のせいかと思ったが、神経が行きわたり敏感になった箇所に、再度ツンとあたるものがある。 魚か?海藻か? きっとそうだ。 そうに違いない。 こんな浅瀬に、サメなんているわけがない。 シャチくんだってクジラくんだって、大抵大海原を泳ぎまわっているものさ。
俺は再度、気分を取り戻そうと、空を見上げる。 どこまでも続く青空。 そして下に広がる青い海。 水平線の先の先がこの目ではっきりと見える。 ああ、やっぱり海はいい。 最高だ!!
次の瞬間だ。 俺の海パンがすごい勢いで、下に引っ張られた。 な、なんだこれは?! ぐぐぐ!!! 俺は必死に耐えた。
その間にも引っ張る勢いは増す。 こいつは、もしかしてサメなのか?! 俺のことを食おうとしているのか? 気持ちばかりが焦って、声が出ない。 しかも、周りにいるやつらときたら、俺のほうを見向きもしない。 人が溺れてしまうかもしれない瀬戸際に。 食われてしまうかもしれない非常時に!
誰か!!神様仏様マリア様キリスト様!!! ああくそ、もう誰でもいいから助けてくれ!!!!
誰も助けてくれない状況に追い込まれ、仕方なく俺は辺りを見回した。 加賀!!! 加賀いないのか?!!
しかし、俺の叫びもむなしくずっぽりと俺は浮き輪の穴から海中に引きずり込まれた。 水中でがむしゃらに手足を動かして、触れたものに必死でしがみつく。 溺れる~~~。 助けてくれ!!!
しがみついたものからは手や足が生えていたらしく、俺は海面にぐいっと引っ張りあげられた。 ばしゃっという活きのいい水音とともに、俺は水上帰還に成功した。 しかし油断はできない。 目の前のものにしがみつきながら、バタ足もどきを繰り返す。
「落ち着け守屋、大丈夫だから」 少し呆れたような声に、俺は正気に返った。 その声は加賀・・・! お前が助けてくれたのか?
一瞬感謝しそうになって、改めてよく考えてみる。 ・・・お前が浮き輪から俺を引きずり降ろしたのか?
ぎろりと睨んで、俺は守屋に問う。 「質問だ、加賀。ちゃんと答えろ。さっき俺の海パンを引っ張って海で殺そうとしたのはお前か?」 イタズラ好きを思わせる瞳が少し丸くなり、次の瞬間ぷぷっと守屋はふき出した。 「やだな、守屋。ちょっとした悪戯じゃないか。可愛いもんだろ。それに俺ってば、お前の命の恩人でもあるじゃない?」 不敵な笑みで、加賀は俺の鼻に唇を落とす。 「な!!」 加賀を突き飛ばした俺の身体は重力に逆らえず、見事ごぼごぼと海中に。 沈むかと思いきや、また浮上。 加賀が俺を抱きかかえたまま浮上したからだ。 まるで魚みたいなやつだ。
海面で、加賀の方にあごを乗せ、俺は荒い息を繰り返した。 苦しい。 大量に海水を飲んでしまった。 げほげほと咳き込む。 そんな俺の耳元で加賀はそっと耳打ちする。 「だめじゃん守屋。あんな可愛いキスされたくらいで俺から離れたら」 精一杯距離をとろうとする俺をぎゅっと抱きしめながら、にっこりと笑ってみせる。 「さ、もう一度キスしよう。ああ、お前にもちろん拒否権はないね」 この無駄に整った顔立ちを持った男。 どうしようもない男。 どうしてくれよう、今の俺の立場。 降りてくる唇を避けることさえできないこの状況。 諦めた俺はせめてもの思いで目を瞑る。 まぶたの向こうで加賀が笑っている。 口づけの前に彼が波の合間にささやく。 ―――守屋愛してるよ
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