ミッションスクールの少女たちの小さな手が、硝子のハンドベルを振って聖歌を奏でる。 黒に一しずく藍色を落とした空から、白い欠片が舞い落ちる。 街路樹の電飾が明滅して行きかう人々の歩みを止め、その頬を輝かせる。 空気はキンと冷えて、白い欠片はその密度を増し、ベルの音色は澄んでいく。 少女たちの桜色の唇から、仕事帰りの大人たちの疲れた唇から、クリスマス商戦のラストイニングを戦う店員たちの休むことなく動く唇から、白い呼気が漏れる。 雪の積もった縁石の上にぽつんと、子猫のように小さな雪だるまが佇んでいる。
俺の隣りで、歩(あゆむ)の横顔が仄かに笑んでいた。 笑んだままの唇で、「クリスマスイブなんだな」と呟いた。 歩の傍にいるのは今は俺だけだ。だから、その言葉は俺に向けて紡がれたのに違いないのだけれど、俺は返す言葉を探しあぐねていた。探しあぐねている間にまた、歩が口を開いた。
「ここまで、来れたんだな」
つくん、と心臓が収縮した。きゅ、と胸骨がきしんだ。心が竦んで舌が強張った。
「どこまででも行けるさ」
ようやく押出した声は掠れて、それが俺の内心を伺わせてしまうのではないかと焦った。歩を傷つけたくなかった。「ここまで」生きていてくれた歩を。 ほどけて歩の薄い肩から落ちそうになっているマフラーを巻き直してやり、「そのためには、もっと大事にしろ」と続けた。救いがたく病んだ身体を、それでも永らえようと足掻く命を、諦めない真っ直ぐな心を、大切に大切に護って、ずっと隣りにいさせてくれ。 内心で願う俺を振り向き、「外出許可を申請してよかった」と歩が笑みを深くした。 「特別な夜に、清らかな音色を聴いて、綺麗なツリーを見て、楽しそうな人たちと行き交わして、おれも楽しくて、隣りに和哉(かずや)がいてくれて」 人生で二番目に幸せな日だ、なんて歩が言うから、一番目はいつだったんだ、そう訊いた。 「まだ、来てない」 23歳になったのにいたずらっ子の眼差しで、男なのに恋人のように甘い声で、歩は答えた。 「おれ、一番好きなものは最後に食べるタイプなんだ」 「俺、逆」 「知ってるよ。焼肉弁当の肉だけ真っ先に食べつくして、おれの肉を掠め取るタイプだ、おまえ」 どういうタイプだよ、苦笑まじりにツッコんで腕時計を覗くと、歩の担当医と約束した時刻が近づいていた。 「もう、時間だ」 つい硬くなる声で告げると、歩の笑みがすっと退いた。そっか、と俯いた。
歩の入院している病院までは徒歩5分。クリスマスイブに半ば強引にもぎとった外出許可は、そんな短い距離を幼馴染の俺と歩くために費やされた。 もし健康なら、整った顔立ちと均整の取れた中背、頭が良くて誰よりも優しい歩のことだから、きっと極めつけの美女とイブのデートを楽しんでいただろうに、こんな背の高さだけが取り柄の平凡な男と歩くために。 そう思うと、小学校で机を並べて以来の付き合いだというだけで、自分が「特別な日」に歩の隣にいることが申し訳なくなってくる。
5分間を無言で歩いて病院に着いた。個室のベッドに歩を押し込んで、痩せた身体に布団を掛けた。 「先生、10分もしたら診察に来るってよ」 歩がパジャマに着替えている間部屋の外に出ていた俺に、看護師が言伝たことを告げる。そのついでのように、布団を歩の肩まで上げながら、悪りぃな、と零した。歩の耳に届くほどの声ではなかった筈なのに、歩はその言葉に弾かれて顔を上げた。
「何が?」
黒蜜を流したような瞳を瞠って、無心な声音で問いかけてくる。いや…と数瞬口ごもってから、「イブに俺なんかがお供でさ」と返した。 なんかなんて言うな、歩は拗ねたように眉を寄せ口を尖らせた。 「おれ、楽しかったのに。人生で二番目に幸せな日だって、さっき言ったじゃん」 「ごめん。でも…」 次の言葉を待っているらしい澄んだ目を見ていられなくて、視線を外した。「先生が来るから、俺、帰るな」 自分で自分を卑怯者と罵った。俺だって楽しかったのに。歩の体調が心配だったけれど、それでも誰にも邪魔されずに、男の俺がクリスマスイブを歩と過ごせることが、ほんとうに嬉しかったのに。 その喜びの動機は、歩への恋情だから。それは、認めることも、告げることも許されない想いだから。
だから、突然鼓膜を振るわせたその言葉を、俺は瞬時には理解できなかった。
オレ、和哉ガ好キダカラ。
「え…?」 「おれ、和哉が好きだからさ。恋愛感情で」 「あ…?」 「和哉が『クリスマスイブにグラスベルの音色を聴かせてやりたい』って言ったから、絶対イブまで生き延びるぞって思ったんだ」 「う…」 「あーあ、言っちゃった。ほんとは最期に告白して、一生おまえの記憶に居座ってやるつもりだったのに」 「お…」 「母音しか喋れなくなったのか、和哉。重病人が文字通り決死の告白してんだ、なんか答えろ」 品の良い顔を意地悪そうに顰めて、歩が睨み上げる。俺は、思いもかけない告白に打ち砕かれバラバラと散った理性を、必死でかき集めた。 「…答えは、来年のクリスマスイブに聞かせてやる」 は?と、今度は歩が理性を落っことした表情になった。
「だから、また1年生き延びて見せろよ歩」
こみ上げそうになった涙を喉に流してどうにか微笑んだ。くしゃりと歩の顔が歪んで、眦から涙が溢れる。声もなく、泣き笑いの顔で、歩は泣いた。 泣きながら、うん、と頷くその姿があまりに愛しくて、俺は思わず、嗚咽を堪えて震える唇に啄ばむようなキスを落とした。しまった、これって答えちまってんじゃん。そうと気づいたのは唇を離したあとで。
「今の…何?」
真っ赤に染まった小さな顔に訊かれて、「これは、ヒントだ」と、かなり無理のある返答をした。来年のイブに与える回答の、このキスはヒントなのだと。 それを歩がどう思ったかは判らないうちにノックの音が響いた。拙い告白大会は終幕となり、俺は病室を辞した。
さっき歩と辿った道に立ち、歩の部屋の明かりを見上げて、大丈夫、と自分に言い聞かせる。来年の今日も、再来年の今日も、そしてもっとさきも、二人で硝子のハンドベルが奏でる聖歌を聴けるさ。一年間いい子にしていれば、聖ニクラウスは靴下にプレゼントを入れてくれるんだ。
だから、歩には未来を。俺には歩と生きる未来を。人生で一番幸せな日は、爺さんになってから来れば良いから。
お願い、と聖ニコラウスに祈った。
白い欠片は、約束のように降り積もった。
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