「私達、もう、これで終わりにしたいの」 冷たく固い声で、自分に向かってそう告げられたその言葉と共に、テーブルの上に差し出された小さな箱を、俺は、何とも云えない気持ちで見つめていた。 「もう、あなたと会うのはこれっきり――街で偶然私の姿を見かけても、絶対に声をかけてきたりしないでね」 そう云いざま、席を立った彼女を、俺は引き止める事すら出来ない。 「あなたって、いつもそう、常に他人事みたいな目で周りを見て、誰に対しても本気になれない――一度は結婚を誓い合った私にさえ、最後まで心を許してくれる事はなかった」 それが原因で、彼女の心は今、こうして俺から離れていこうとしている。彼女だけではない。同じ理由で俺は、これまで何人もの女にふられてきた。 「さよなら、悠(ゆう)。短い間だったけれども、それなりに楽しかったわ」 「・・・・・・・・・・・・・・・」 テーブルの上に置かれた小さな箱は、俺が彼女に贈った婚約指輪だ。手タレのように細く美しい彼女の指に、毎日それが当たり前のように嵌められていた頃は、俺自身、まさか、自分の身の上に、こんな日が来ようとは、夢にも思っていなかった。 婚約2ヶ月目にしての破局。半ば政略じみた関係ではあったが、相手は、俺が世話になっている会社の上司の紹介という事もあって、今度こそ、絶対大丈夫と踏んでいたのに、式を半年後に控えた今日、俺はその彼女にあっさりとふられてしまった。 「別段、人より特別顔や性格が悪い訳でもないのに、俺ってば、どうして、いつもこんな風になってしまうのだろう・・・」 加えて、セックスが人より特別下手と云う訳でもない。彼女が帰って、一人むなしく取り残されたサテンのボックス席で、今更、そんな事をぼやいてみたところで、覆水盆に返らず――彼女はもう二度と俺の元に戻ってこないであろう。 結婚を所謂一つの契約として考えていた自分が、やはり、いけなかったのであろうか。おそらく、彼女は、俺と恋人として親しく付き合っているうちに、そんな俺の考えをしっかりと見抜いてしまっていたのだ。 「・・・誰に対しても、本気になれない、か・・・」 否、本当はそんな事ない。ただ、俺の場合、その興味の対象が人とは違っているだけだ――すなわち、その対象とは 「もしかして、悠か?」 「!?」 「何やっているんだよ、こんな所で」 「・・・柾樹(まさき)っ!?」 約束されていたバラ色の未来を失い、半分泣きそうになってしまっている今の自分を、誰にも見られたくないと、そう思っている時に限って、人間、とんでもない相手に会ってしまう。 彼女に一方的に振られ、不幸モード全開となっていた俺に、そう云って、とびきりの笑顔を向けてきた相手は、俺の高校時代の親友、柾樹だった。 「なあ、今、店から出て行った女って、もしかして、悠の彼女か?」 「!?」 高校を卒業して以来、数年ぶりとなる偶然の再会の場面で、出会ってすぐ、そんな無神経な事を聞いてくる図太さは、あの頃と全く変わっていない。板に付いたような、そのウェイター姿も、かつて、俺がつるんでいた頃の奴の姿と寸分変わらぬように見受けられるが、あれから、もう何年経った・・・?5年?6年?お互い別々の大学に進学して、付き合いが自然と切れてしまってから、それだけの月日が過ぎてしまっているというのに、そんな事は微塵も感じさせず、柾樹は気軽に俺に声をかけてきた。 「そう云うお前こそ、こんな所で一体何やっているんだよ」 「俺か?俺は見てのとおり、この店でウェイターやっているんだけど」 逆にそう問い返した俺に対して、屈託のない笑顔で、そう答えた奴であるが、確か、こいつ、都内の某有名大学に校内の推薦枠で進学したんじゃなかったっけ・・・?そのままうまくいけば、俺なんか足元にも及ばないほどの高収入が得られる有名企業に就職して、今頃は出世の為の足場作りに励んでいそうなものを、それが、学生のアルバイトじゃあるまいし、今頃こんなところでウェイターをやっているなんて、一体どうしたと云うのだ? そんな思いを込めて、俺がじっとその相手の顔を見つめていたら 「・・・悠は、あの頃と全く変わっていないな」 「え・・・?」 「こんな所で、女に振られているなんて、あの頃と全く同じ――相変らず、無茶苦茶要領悪そうだ」 「なっ――」 なんて、こいつ・・・もしかして、さっきの俺達のやり取りをしっかりと聞いていやがったのかよっ!! 更に、柾樹は、彼女につきかえされた後、テーブルの上に置きざりとなってしまっていた箱に手を伸ばしてくると 「なあ、もしかして、これが、噂に聞く婚約指輪って奴か?これがここにあるって事は、彼女との仲はそこまで行ったんだ。婚約指輪って、給料の3か月分が基本だって云うけど、悠もやっぱそれぐらい値のはるモノを買ったのか?そこまで金をつぎ込んだ女に土壇場になって逃げられちまうなんて、お前って、本当についていないよな」 「あっ、こらっ」 数年前と全く変わらぬ口調でそう云った奴は、それから、俺に何の断りもなくその中身を勝手に取り出した。 「うわあ、綺麗~、これってもちろんダイヤだよな?」 「!?」 指先でつまみあげた指輪を自分の目の前にかざして、それを熱心に見つめる奴の横顔に、俺は、不覚にも自分の胸を激しくときめかせてしまっていた。 思えば、こいつは、俺の・・・ 「なあ」 「?」 「どうせだからさ、これ、俺がもらっちゃってもいい?」 「!?」 ああ、いいよと、いつものノリで、ついうっかりそう頷きそうになってしまったものの、危ない、危ない・・・こんな高価なモノをこいつに気前良くぽんとくれてやれるほど、俺は羽振りの良い生活をしてはいない。それに、これは彼女の―― 「駄目っ、絶対、駄目に決まっているじゃないかっ」 「駄目?何で?」 「何でって、それは・・・」 第一に、これは彼女の指に合わせて買ったものだし、こいつの指に絶対合う訳がない。第二に、俺がこいつにこんなモノをくれてやる理由は、俺には全くないはずだ。 なのに、こいつときたら 「あのさ、悠、俺、今更、こんな事云う気はないんだけれど、俺、あの時の慰謝料、まだ悠にもらっていないんだよね」 (!?) 「い、慰謝料って・・・」 「忘れたとは云わせないぜ。高校の時、お前がこの俺に対して、一体何をしたか――」 「わ~っ、わ~っ」 と、俺は自ら咄嗟に叫んで、奴のその言葉を遮った。 「おい、柾樹っ――てめえ、こんな所で突然何を云い出しやがるっ」 「――って、ここで云われてまずいような事を、あの時、俺に仕掛けてきたのは、悠の方じゃないか」 「!?」 確かに――酒に酔った勢いで、こいつによからぬちょっかいを最初にかけたのは俺だが、その俺の求めにこいつだって自ら進んで応じたくせして・・・あの時は、お互いが初めての相手で、酒の席の上での事とは云え、まるで何かにとりつかれてしまったかのように、自然とそうなってしまった。あれは、いわば、互いの了解の上に成り立った合意の行為であると、俺はそう解釈していたのに・・・それを、こいつは、今になって、何を―― 「お前さ、もしかして、金に困っているのか?」 「別に」 「だったら、今頃は大企業で働いているはずのお前が、どうしてこんな所でウェイターなんか、やっているんだよっ」 俺の事を何とも思っていないこいつにしてみたら、大きなお世話かもしれないが、もし、そうだとしたらこのまま放ってはおけない。その相手が、自分が高校時代に密かな想いを寄せていた相手ともなれば、それも尚更である。 「俺が、ここでウェイターをしていたら、悪いか?」 「別に悪くはないが、けど、何かあったのかなって、やっぱりそう思うのが自然だろう?」 「・・・自然、ね・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・・・」 含みのあるその云い方が、自分の心にわずかに引っ掛かったものの、その言葉をそれ以上突っ込んで、目の前の相手に聞く勇気が、今の俺にはなかった。 これ以上こいつの中に踏みこんでしまうと、藪から蛇をつつき出してしまいそうな気がして・・・彼女に振られ、傷心モードでいる今の自分に、これ以上の余計な精神的負担は勘弁願いたい。こいつの事も気になるが、今はそれ以上に俺自身の事で自分がいっぱいだった。 返す言葉をなくして、そこで言葉に詰まってしまった俺に、奴は 「じゃあ、聞くが」 「?」 「そもそも、お前が云う『自然』って何だ?」 「は?」 「お前が云う『自然』っていうのは、元来、女に興味の持てないお前が、それを偽って女と結婚して、世間並みの幸せを得る事か?普通の男のフリをして、女と付き合う事なのか?お前さあ、自分では全く気付いていないかもしれないが、今のお前、全く辛そうな顔していないんだぜ。むしろ、せいせいしたとでも云いたげな、実にすっきりとした顔をしている。」 (!?) 「そ、そんな事は・・・」 自分の性癖を偽ってまで、一度は手に入れようとした幸せではあるが、こうしてふられて、正直ホッとした部分もある。これで俺の今の会社での出世の道は完全に閉ざされてしまったかもしれないが、俺一人だけの事情で、何の罪もない彼女を欺く事を思ったら、これでよかったのかもしれない。 勝手な云い分かもしれないが、俺との事なんか早く忘れて、彼女には一日も早く幸せになってもらいたいとも思う。 「大体、お前が女と結婚出来る訳ないじゃん」 柾樹はそう云って、ケタケタと笑っていたが、そんな事を云っているこいつだって、俺と同じはずだ。 「・・・さっきの質問」 「あ?」 「お前こそ、どうしてこんな所で働いているんだよ?」 「こんな所ってお前は云うが、ここ、時間的融通が結構利いて、俺にとっては最高の職場なんだぜ」 盆を片手に微笑む奴の笑顔に卑屈な部分など全く見受けられない。むしろ、惚れ惚れするほど生き生きとしたその表情から、奴が負け惜しみではなく、本気でそう思っている事が俺にも分かった。 それから、奴は俺に向かって 「・・・俺さ、高校を卒業してから、自分のやりたい夢を見つけたんだ」 「お前のやりたい事って、お前が推薦で受かった大学へ行く事じゃなかったのかよ?」 「違うよ、それはやりたい事ではなく、ただ何となくそうしてみただけ――お前がさっき俺に云っていたように、自分の目の前をたまたま走っていたレールに乗った結果、『自然』とそうなった」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・」 店の仕事をサボって、俺の席に完全に居座ってしまった奴ではあるが、幸い、俺の他に、店に客はいない。さっきまで俺の近くに2、3組居た客も、いつの間にか帰ってしまっている。今、この店の中に居るのは、俺とこいつと、あと、カウンターの中で静かにコーヒーをたてている渋顔のマスターだけだ。 「俺の夢を聞いて、お前は笑わない?」 「笑わない」 「ホントのホントに笑わない?」 「だから、笑わない。て云うか、このマヌケな状況にいる俺が人の事を笑えると思うか?」 数年ぶりの再会で偶然出会った場面が、女から婚約指輪をつき返されている場面だったなんて、俺だって相当かっこ悪いと思うぞ。 「それもそうだ」 その事に納得した奴は、俺が云った言葉に軽く苦笑いして、それから、自分の話を続けた。 「・・・実はさ、俺、俳優を目指して、大学時代からずっと演劇の勉強を続けているんだ」 「え・・・」 そんな風に初めて聞かされた奴の夢に非常に驚きはしたものの、奴が今こんなにも輝いて見える理由が俺にも分かったような気がした。 こいつは、その自分の夢の為に、他人が当たり前と思うような生活を捨てたんだ。 「演劇の世界ってさ、昼間の仕事を持って片手間に出来るような中途半端な世界じゃない。そりゃあ、中にはそう云う人も沢山居て、元は、俺もその中の一人だった。大学を卒業した後、昼間は会社に行って、普通のサラリーマンをして、んで、夜は稽古場で舞台の稽古に励む。初めは俺もそれでいいかなって思っていたんだけど、そんな二重の生活をしているうち、自分を偽って生きていく事に疲れちゃって・・・俺という人間はこの世に一人しかいないのに、その俺がこんな生き方をしていてもいいのかなって・・・たった一度きりしかない自分の人生、後悔ばかりしていていいのかなって・・・それでなくても、俺、高校時代、お前に・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・・・」 その先に続く言葉を、柾樹は、俺に聞こえないよう、わざと濁した。 こうして、奴とここで偶然巡り会った事は、神の思し召しであるのか、俺だって、高校時代、こいつに云えなかった言葉を抱えて、これまで生きてきた。 その事を、清算する機会を、神は今、俺に与えてくれているのだろうか? 「ごめんっ」 「!?」 「その・・・あの時は本当にごめんっ」 そう云って、相手の目の前で、いきなり頭を下げた俺を見て、柾樹は、露骨に眉を顰めた。 「・・・どうして、悠が俺に謝るのさ?」 「だって、俺、あの時・・・」 「酒に酔った勢いで、当時のダチであった俺を抱いた事?その事を今になって、俺に謝っている訳?」 「だから、本当にごめんって」 机に額を擦り付けるようにして必死にそう謝ったものの、奴の表情は、ますます不機嫌になっていく。そのうち、奴は一人で怒り出してしまって 「・・・ホント、頭にきた」 「は?」 「お前って、やっぱ最低っ――人の気持ちと云うものを全く分かっていないっ――久しぶりにこんな所で偶然出会えて、それだけで俺はこんなにも舞い上がってしまっているというのに、その俺に対して、いきなりごめんはないだろうがっ――俺との事、お前にしてみれば、単なる気まぐれだったかもしれないが、俺にしてみれば、天地がひっくり返りそうになるほど衝撃的な事で、あの後、俺の人生はすっかり180度変わってしまったんだぜ。その俺に対して、今更、そんな言葉一つで詫びを入れようなんて、おこがましすぎやしないか?」 そうは云われても、俺には、ただひたすら頭を下げるしかなく 「・・・ごめん」 「だから、違うって云っているだろうがっ」 「!?」 「お前が、今、俺に云うべき言葉は、そんな言葉じゃないだろ? あの時の事を俺に本気で許して欲しいと思っているのなら、ちゃんと誠意ある言葉を俺に聞かせてくれよっ」 つまり、それは―― 「・・・たった一言、お前が俺にそう云ってくれたなら、俺はそれでお前の過去の全てを許せる・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 感情の高ぶりが、柾樹の声をわずかに震わせてしまっている。 たった今、柾樹は、俺に気まぐれと云ったが、神に誓って、あれは気まぐれなんかではなかった・・・あの時、俺は、本気でこいつの事を―― 「あのさ、あの」 この数年間、奴がこの俺に対して、ずっと思い望んでいたその言葉とは、おそらく、あの時の俺がこいつに伝えられずに、今日まで後悔していたその言葉ではなかろうか。 その言葉を、俺が伝えられずにいたから、こいつは、こんなにも・・・ 「あのさ、俺――」 「何?」 「お前は気まぐれだって云ったけど、あれは気まぐれじゃないから――あの時の俺は、本気でお前の事を想っていた」 「!?」 「でも、お前は、きっと俺の事なんか、何とも思っていないだろうなって思ったら、どうしても、その言葉を伝えられずにいた。俺の一方的な気持ちを伝える事で、お前を変に苦しめる事になるのなら、逆に何も云わない方がいいと思った」 覚悟を決めた俺が、一息にそう云いきった瞬間 「そんな事ないっ」 「!?」 「そんな事ある訳ないだろう?第一、俺の気持ちは、お前にも何となく伝わっていたはずだぜ?お前、やっぱ、最低に鈍い――お前に抱かれた時、俺、抵抗したか?あの時、俺、どんな顔してお前に抱かれていた?俺、自分がいくらお人好しでも、嫌いな奴にそのまま自分の身を任せたりなんかしない。特に自分の初めての相手ともなれば、俺だって相手をちゃんと選ぶ」 (!?) それって、つまり・・・ そこで、奴は、呆れたように小さな溜息を一つつくと、額にかかる自分の前髪をさり気なくかきあげた。 「・・・好きだったんだ」 「え・・・」 「俺だって、あの時、悠の事が無茶苦茶好きだったんだっ」 そう云って、突然告白してきた奴に、すかさず、俺は、問い返してしまっていた。 「――今は?」 「え?」 「だから、お前は今でも俺の事が好きか?つぅか――あの、えっと・・・今、お前って、付き合っている奴とかいる?」 真っ赤な顔となって、いきなりそんな事を尋ねた俺に、奴は蕩けるような笑みで応えてくれた。それは、数年前の俺には一度も見せた事がなかった、とても柔らかな表情で 「何、それ、お前、たった今、自分の女に振られたからって、俺で間に合わせようとしている訳?数年ぶりに偶然会った昔のダチに、普通そんな事云うか?」 「別に俺、そんな事全く思っていないし、それに、お前は普通のダチではない」 「?」 そう、こいつは、紛れもなく、俺の初めての・・・ 「なあ」 「?」 「さっきの話――あの時の慰謝料なら、これから俺がたっぷりと利子をつけてお前に返してやるから。まあ、お前が嫌じゃなかったらの話だが・・・」 「・・・今度はもう、絶対俺から逃げたりしないか?」 「そりゃあ、もう」 逃げてもまた結局は元の場所に戻ってきてしまう。どうやら、俺は、こいつが居るこの世界でしか生きられないらしい。 「お前の仕事が終わるまで、ここで待っていてもいいか?」 「ああ」 俺のその言葉に軽く相槌を打った後、小さく手を振ってから、俺から離れていく相手の後姿を、俺はいつまでも飽きる事なくじっと見つめていた。
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