「え、嘘っ・・・!」 「狭いですね」 そんなことないよ!と、僕は勢い良く振り返って出入り口でちょっと 残念そうな顔をした京介を見た。 「凄い!窓が大きい。うわ~、贅沢だね!」 僕はあたふたと靴を脱いでベッドの上に飛び乗った。大きく頑丈な窓からは、慌しく人が行き来するのがよく見える。 「本当にここに泊まれるの?」 「しかもベッドがダブルじゃない。有り得ないですね。内装も指示すれば良かった。痛恨のミスです」 浮かれる僕とは裏腹に、京介はうんざりしたような顔をして、はあ、と大きなため息をついた。 だいたい、こんなところにベッドがダブルであるなんて、僕にはちょっと想像が出来ないぐらいだ。
挨拶が遅くなってごめんね。僕は、秋葉優。あきは・すぐる。って 読むのだけど、親兄弟合わせて、生まれてこのかた、ずーっと「ユウ」 って呼ばれているから、そう覚えてくれていいよ。 身長は163センチ。体重は・・・まあ、いいか。 僕をバレンタインの旅行に連れ出そうとしているのは、伊集院京介。 僕の同居人であり、大家であもある。大学時代からの付き合いで、今で、ええと・・・何年目だ。世界で一番見目麗しい脳外科医で、今は僕と彼の母校で助教授をいる。国籍はイギリス。完全に外国人!ってヤツで。ビターなチョコレート色の、ちょっと天然パーマが入った髪と、茶色の瞳、真珠のような肌の色で、たまにモデルもしている。 まあ、そのつまり彼と「そういう」関係な僕らの、これは今年のバレンタインの話だ。
「え?車で行かないの?」 ええ。と、京介は呼び出したタクシーを目の前にして言った。 「バレンタインには是非一泊で旅行を」と、提案してくれた京介の案に僕が乗ったものなんだけど。 一泊だって言うから、荷物も手軽なものだったし、車で行ける(さすがに一泊じゃ海外 じゃないと踏んだ。京介はこういう時に当日まで「何処に行くのか」教えてくれないんだ。 さすがに拉致されるみたいで怖いから、海外だったら教えてくれ。とは言ってあるのだけど、それだって 「パスポートさえあれば、あとの荷物は現地で調達しますから問題ありません。ユウさんとゆっくりショッピング、しかも上から下まで全て買い揃えることが出来るなんて、 こんな素敵なこと外すわけに行かないですね」 なんて、しゃあしゃあと言うものだから、もう反論しても無駄ってヤツで。本当に実行しちゃうだけの行動力も財力もあるんだから、僕は・・・もう、手ぶらで行って、帰りにスーツケースを購入する なんてハメになったのは初めてで!) まあ、ともかく車で行けるような近場を想像していたわけだ。 それが、タクシーに乗った途端、びっくりすることに京介からは 「東京駅まで」なんて言葉が飛び出して二度びっくり。 「もしかして新幹線?」 「残念ながら違います。これ以上は内緒です。到着までのお楽しみと いうことにさせてください」 なんていうからさ。在来線で何処に行くんだろう。って、 僕は道々彼に質問をぶつけ、その都度、やんわりと交わされながら考えていたわけだ。
それが、まさか特別寝台列車での旅だなんて想像もしていなくて! 列車に一つしかないという「特別室」に通された僕の言葉が最初の感嘆符つきのものになってしまったというわけだ。 「さすがにホテルのスィートのようには行かないですね」 「でも!これ電車の中なんだよ。電車の中に部屋があって、その中に ベッドがあって、お手洗いとシャワーまであるなんて信じられない!」 「シャワーは25分と決められているようですが」 「その制限か電車っぽくていいじゃないか」 「短い時間を有効に使って二人で使用するというのはいかがでしょう」 「きみの身体が入るもんか」 そうですよね。と、京介は、僕の真隣のベッドに腰掛けて、またもや大きくため息をついた。 どうやら色々と目論見が外れているらしい。 「オリエント急行並を期待していたのですがね。そうすれば少なくとも ベッドはダブルでした」 「変なところでこだわるなあ」 うちは毎日キングサイズのベッドで寝ているじゃないか。と、僕は突っ込みたかったけど、よくよく考えれば「ベッドは同じでも枕も布団も別」(だって京介の寝相が悪いから)の僕と京介は、厳密に 言えば「別々に寝ている」が正しいわけで。 「そんなことでヘコたれるんだったら、都内のホテルの部屋でも取れば良かったじゃないか」 「それですとユウさんの驚く顔が見られませんから」 「じゃあ、目的は達しているわけだ」 ニヤッと僕が笑ってしまうと、京介はようやく機嫌を少し直したのか、 「大事なのはベッドの大きさではないということですね」 なんて、ちゃっかり付け加えていたから、僕はわざと窓の外に視線を逸らして、とりあえすそのことには言及しなかった。 コンコン、という音がして、ルームサービス!の女性がアテンドで、 お茶とコーヒーと、なんとワインまで持ってきてくれて、もう僕は子供みたいにはしゃいじゃって。 「乾杯しましょうか」 「うんっ!・・・って、まだ発車していないから、外から丸見えなんだけど」 「心配は無用です。この部屋だけ、窓をマジックミラーにしてありますから。事実、ホームにいる人はこの部屋を覗かないでしょう?」 「そう・・・なんだ。さっきか不思議だと思っていたんだよね」 京介が注いでくれたワイングラスを合わせながら、また僕は窓の外を見た。大勢のカメラマンが発車と電車の写真を撮ろうとウロウロしているけれど、確かに、誰も僕と京介がいるこの部屋を無粋にも覗き込む人がいないんだ。 「王侯や貴族が乗るオリエント急行では当たり前のサービスなのですがね。日本では頼まないとやってくれないらしい。乗客は旅をするために乗るのであって、興味本位の立場に晒されるべきではないですからね」 「へえ・・・」 「ユウさん、そちらに行ってもよろしいですか」 「え、うん」 窓際のベッドに座っている僕に、京介が言った。なにも聞かずに窓辺のいい方のベッドを取ってしまったのは申し訳なかったかな、と、僕は座る位置をちょっとズラして京介の場所を空けた。 「窓の外を展望するためのイスも一脚しかないですからね。並んでグラスを合わせることも、口付けすることも出来ない」 「え?」 ふんわりと京介の唇が重なってきて、僕は驚いて飛びのいてしまった。 「誰かに見られたら!」 「見られないのです。見られないためのミラーですから。私がそのようなヘマをするとでもお思いですか。ユウさんと二人きりでいられることしか考えていないのに。他に何も、ですよ」 ニッコリと自信満々に微笑まれて、僕は脱力してしまった。その瞬間に グイッと軽く身体が引っ張られて、電車が動く振動が軽く伝わってた。 「明日の朝までユウさんを独占できるなんて、ああ、なんて素晴らしいんでしょう」 「・・・まだ昼間なんだけど」 「ええ、たっぷり12時間あります。どこにいても息遣いさえ聞こえてきそうなほど小さい部屋で二人きりですよ。逃げる場所も行く場所も他にないのです」 「さっきは狭いって文句言っていたクセに」 「前向きに考えることにしたのです」 もうっ・・・!と、僕は笑ってしまった。全く、京介らしいったらないだろ。普通はもっと、寝台列車の情緒とか、旅の醍醐味だとか、そういうものを満喫する贅沢な旅が、この長い時間の電車の旅の魅力だっていうのにさ。 「そういう邪なこと考えているの、たぶん、電車の中でもきみ一人だと思うよ」 「バレンタインをそういう日にしたのは日本人です。私ではありまん。 ホテルなどいつでも宿泊することが出来ますが、本当に愛する人を独占したいと考えるならば、オリジナリティを出すべきでは?」 京介は空になったワイングラスを小さな応接セットのテーブルに置き、再び、僕が体育座りをしているベッドまで戻ってくると、僕の肩をそっと抱いた。 「ユウさんは、車窓を、そして車内を、そして列車での長旅をお楽しみください」 「え?きみは」 「今日は同じものではなく、ユウさんの目に映るもの、感じたものを、 ユウさんを通して感じたいのです」 「それって・・・」 「独占させてください。ユウさんだけを。到着するまでの時間」 「の、望みが低いヤツだな」 「愛が勝っている証拠です」 京介は嬉しそうに笑うと、抱いた肩をほんの少し引き寄せて、また僕にキスをした。目の端っこでは車窓の景色が目まぐるしく変わっていく。昼間から夜へ。きっと、まだまだ飽きるまでその景色は見られるんだ、と思う想いが、僕の唇を自然に緩めた。 「ユウさん?」 「な、なんだよ」 僕が、つまりその、その気になったら悪いか!と、僕は自分でもわかるぐらい潤んだ目で京介をギロリと睨みつけた。 「私が入りますと、シングルより狭く小さなベッドが、もっと狭苦しく感じられますよ」 「そ、そんなことわかっているよっ!」 「ユウさんを限界まで抱き寄せて、邪魔だと思われないようにしますから」 「そんなこと思ったことないよっ!」 僕はムッと唇を尖らせて、僕に体重をかけないように、頭の両端で腕を突っ張る京介の項を引き寄せた。 「き、きっとこのベッドじゃ・・・きみの、足なんて飛び出すだろうからね、その・・・僕に抱きついてっ、小さくなっていた方が、いいだろ、その、落ちないし」 「明日の朝まで、ですよ?」 「こ、ここじゃ、落ちたら怪我しそうだから・・・」 「ああ!ユウさんっ!」 京介は僕の耳の横に肘をつくと、まるで霰のようなキスを顔中に降らせてきた。腰を巧みに利用して、僕をベッドの上にあげ、硬い枕まで誘導するなんてことはお手の物で! 「い、言って置くけどっ!カーテンは閉めるからなっ。いくら見えないからって言っても」 「ええ。より私が独占してもいいという迂遠なお申し出ですね」 「調子乗りすぎ」 「浮かれて当然でしょう。愛しています、愛しい人」 ああ・・・!もう京介ってば、本当に嬉しそうで!もうこうなったら、早く流されてしまいたい、という希望が先立つもので。僕にしては積極的に、服を脱ぐのを手伝ってしまったりして、 また京介を喜ばせてしまった。電車の振動がベッドの下から聞こえてるのも、なんだか、その、声をかき消してくれるような気がしたし、ぴったりとは閉まらないカーテンの ほんの少しの隙間から、飛ぶように流れていく景色なんていうのも、また気持ちの速さに拍車をかけるばかりで・・・! 「きょうっ・・・すけっ、ま、たっ・・・!」 「ええ、ユウさん、いらっしゃい」 汗で身体が滑るのが厭わしいほど近づいて、必死になって乾いた部分を少しでも探して強く抱きしめて、狭すぎるベッドで全然、身動きが出来ないのが逆に僕の劣情を誘って! 結局、まるでホタルみたいに時々、街灯の灯りがポツリと高速で通り過ぎる時間まで抱き合ってしまって。
「お腹減った・・・」 気を失っていただけなのか、単に眠ってしまっていただけなのか、僕にしては本当に珍しく、目が覚めたときは京介に抱かれたまま全裸だった。 抱きしめられた腕の中から、身体を起こして腕を目一杯伸ばして、パジャマと出発駅で買った駅弁を取り上げると、行儀が悪いとわかっていながら、それをベッドの上に広げて食べ始めた。 即物的だなあ、と思わずにはいられないけれど、規則正しい電車の音と、気持ち良さそうな京介の寝息と。ホタル火を翳したような真っ暗な夜景が、僕の気持ちを穏やかにしてくれた。 「んっ・・・ユ、う、さん」 「起きた?きみもなんか食べる?」 「愛して・・・いま、いえ、私は・・・」 寝ぼけた京介が、またスーッと寝息をたてた。僕はフッと微笑んでしまい、暖かな気持ちのまま、濡れて乾いて膨らんだ京介の髪に手を差し入れた。しばらく撫でて、車窓を楽しんで、それから僕はスィート備え付けの糊の効いたパジャマに袖を通した。 「見つけたものの特権だもんね」 新しいパジャマはゴワゴワとして落ち着かない。僕は、早々にベッドに戻り京介の腕の中に舞い戻った。 カーテンを開けて、文庫本を取り出して、全身に安心しきった京介の温もりを感じて。 「最高のバレンタインかも」 呟いて、そして笑った。
到着した先は、なんと京都で。ただお昼を過ぎていたから、鴨川近くで 京懐石を食べて、新幹線に飛び乗って帰ってきた。京介は明日も仕事だからね。 新幹線の中では、僕も京介も前後不覚で眠ってしまって、何の会話もしなかった。
けど。多分・・・こういうことを言うのは面映いけれど、その日の乗客の中で 一番満ち足りていたのは、僕と京介だと思う。
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