“加那”とは奄美の言葉で“愛しい人”という意味らしい。 ウチの母親はそれを甚く気に入り「いつか娘が出来たら“加那”にするわ」と思ったという。 そして結婚し、子供が出来た。 残念ながら長男だったけれど。 次は女の子、と思いながら4人も男を産んだ母は、末子のときに女の子は諦めたらしい。 そして四男に“加那”と名づけた。 母親どころか父親だって奄美出身ではないのに、だ。
そう、俺の名前は桜井加那。性別は男だ。
俺が名前の由来を聞いたとき、どれほどショックだったか。 例えば俺が、身長が女の子並で顔だって美少年で女の子と間違えられるようなアイドルみたいな奴だったらよかったよ? そりゃ、それはそれでコンプレックスだったかもしれないけど。 でもさ? 中学2年で伸びはじめた身長は今では180を超え、顔だってとてもじゃないけど美少年とは言えない。 それでも女の子にキャーキャー騒がれるような男前だったら、この名前だって「可愛い」で済んでいただろう。 しかし残念ながら男前でもなく、目つきが悪い口下手な俺にわざわざ名前のことで話しかける奴なんかいない。 そしてムカツクことに兄貴達は俺とは違い美形だから遣り切れない。 いつでも兄貴達と比べられる俺。それだけでも嫌なのにこの名前。 高校に上がる頃にはとうに諦めていたけれど。 よくグレなかったもんだと自分を誉めてやりたいよ。
「はじめまして。桐沢篤志です。よろしく」 少女漫画なら花を背負ってそうな美少年がそう言って微笑んだ。 転校生が来るんだと騒いでいたクラスメイトは更に騒ぎ出す。 「席は町田の隣なー」 空いてる席はそこしかないのだから当たり前だ、と思いながらも羨ましがるクラスメイト。 「よろしくね」 そう言って転校生は町田に微笑みかけ、席に着いた。 俺の前の席へ。 後ろの席に座ってるからって話しかける言葉もあるわけじゃない。 転校生にも興味はない。 当たり前のように無視をしていた俺を転校生は急に振り返り微笑う。
「加那ちゃん、相変わらずだね。そんなとこも好きだけど」
この発言にクラス中がギョッとして俺を見る。 ギョッとしたのは俺も同じだ。 見も知らぬ相手に“加那ちゃん”などと呼ばれ、好きだと言われているのだ。 しかもシャレにならないのが男子校の恐ろしさ…… 「誰?」 不機嫌な声で聞くとさっき自己紹介したのに、と唇を尖らす。 そんなことを訊いているんじゃない。 桐沢篤志。 自己紹介は俺だって聞いていた。 しかし桐沢篤志なんて名前に聞き覚えは…… そこまで考えて俺は頭を抱えた。 聞き覚えがないわけがない。 「思い出してくれた?」 俺のその姿を見ながら奴が嬉々として言う。 思い出したさ。 あっくんだ。
「ねえ、かなちゃん。おっきくなったらぼくとけっこんしてね」 あっくんが言う。 その頃俺は男同士が結婚できないなんて知らなくて、母親が言っていたように“結婚”は“好きな人”とするものだと思っていた。 もちろんその頃いちばん好きだったのは、あっくんだ。 俺は嬉しそうに答えたはず。 「うん! ぼく、あっくんとけっこんするー」
悪夢だ……。 忘れたはずの悪夢が笑顔でやってきたんだ……。
その日から俺の闘いがはじまった。 頭ん中に花が咲いてようが、見た目美少年の篤志はすぐに男子校のアイドルとなった。 そしてそのアイドルと仲のいい――決してそのつもりはないが、奴が近づいてくるのだからしょうがない――俺は嫉みの対象ってわけだ。 そりゃ俺が兄貴みたいに男前だったら嫉みどころか羨望の眼差しでお似合いカップルとされていただろうが。 そして篤志を邪険に扱うのが気に入らないらしい彼らに更なる嫌がらせを受けるのだ。 ……くっついたらくっついたで嫌がらせされるのだろうに。
「加那ちゃん。一緒に帰ろうよ」 篤志がそう言いながら振り返る。 「なんで」 そう冷たく言い放っても篤志は気にした様子もなくいつも通り微笑う。 「だってウチ近いじゃない」 そういうことじゃない。 俺は、おまえと、一緒には、いたくないんだ。 俺のこの態度を見て、どうしておまえは気づかない。 「あっ、加那ちゃん。待ってよ」 無視して立ち上がった俺の後についてくる篤志。 昔は逆だった。 そう考えて頭を抱える。 忘れたいと思っていたって篤志がここにいるんじゃどうしようもない。 「おまえなー…いい加減にしろよ?」 人通りの少ないところまで来てやっと篤志が俺の横に並ぶ。 「なにが?」 首を傾げて俺を見上げる姿は確かにアイドルだ…… 「迷惑なの、わかんねー?」 「加那ちゃん、俺のこと嫌い?」 「嫌いじゃなくて迷惑。俺が散々嫌がらせされてるのわかんねぇの?」 嫌がらせ自体は大したものじゃないんだ。 それを日々受けていることが鬱陶しいだけで。 「嫌いじゃない? じゃあ好き?」 ……どうしてそう思う? こいつの頭ん中、マジで一遍見てみてーよ。 俺はこれ見よがしに大きな溜め息をついてみせた。 「嬉しいなー」 俺の答えも聞かぬまま、スキップでもしそうな勢いの篤志。 誰か止めてくれ…… 「残念。ここまでだ。じゃあまた明日ね」 やっとのことで着いた分かれ道で篤志は手を振る。 明日……明日もあるのだ。 これからも続く、受難の日々……。
「かなちゃん。ぼく、おひっこしするんだ」 そう言ってあっくんが泣きそうな表情をする。 それを聞いて俺は泣いたはず。 「あっくん、いかないで」 たかだか隣県へ行くだけだ。 しかしその頃の俺にしてみれば外国へ行くのと同じ。 二度と会えないんだろうと思っていた。 「なかないで、かなちゃん。きっとかえってくるから」 「ぜったい? やくそくだよ?」 「うん。やくそく」 そう言って指切りをしてあっくんは名残惜しそうに背を向ける。 そして去り際にこう言ったのだ。 「かなちゃん、ぜったいぼくのおよめさんになってね」
そこで俺は飛び起きた。 ……嫌な夢を見た。 篤志のせいだ。アイツが今更現れるから。
あのとき俺は子供ながらに驚いた。 いくら俺が“結婚”は“好きな人”とするものだと思っていたといっても、自分が“お嫁さん”になる気などなかったのだから。 そして気づいたのだ。 俺は男だとか女だとかそんなこと関係なく“あっくん”が好きだったけど、彼は違ったのだと。 その頃の俺はまだ小さくて、か弱くて、泣き虫で。 名前のせいでいっつも女の子に間違われていた。 多分彼もだろう。 それに気づいたとき、俺の初恋は終わったのだ。 なのに今更……。
いつまでも続くと思われた受難の日々はどうやら俺の思ってもみない方向に進み出していたらしい。
昨日言った“迷惑”の言葉の意味がわからなかったらしい篤志の爆弾発言でその一日は始まった。 「もう加那ちゃんをいじめないでね」 アイドル顔で篤志が言う。 「俺の恋人なんだから」 ……はぁ? 恋人ってなんだっけ……? 呆けてる俺を無視しての質問責め。 「いつから?」 「なんで?」 「ホントに?」 その答え、ぜひ俺にも教えてくれ。 「だって両想いだもん」 何食わぬ顔でそう言い、ねえ? と俺の同意を求める篤志。 いつ俺がおまえを好きだと言った? 思わず溜め息が出る。 これで幸せが逃げるなら、ここ数日俺の幸せはかなりの数逃げていることになる。 質問責めの篤志を横目に俺は何も言わず鞄を引っ掴み教室を出た。 この場はこのアホに任せて早退することにしよう。 これ以上の迷惑は勘弁してもらいたい。 ……なのに、なぜ追いかけてくるんだコイツは。 「なんで先に帰っちゃうのー?」 「迷惑だから」 昨日何度も言ったセリフをもう一度言う。 わかってんの? おまえのことだけど。 「ああ、アレね。さすがの俺でもちょっと迷惑だった」 篤志はそう言って顔を顰める。 多分さっきの質問責めのことを思い出しているんだろう。 「違うだろ。おまえが俺と恋人だなんて嘘つくからじゃねーか」 「嘘じゃないじゃん。昨日俺のこと好きって言ったのにー」 どうしておまえの頭はそう都合よく出来てるんだ? 「忘れたのー? 結婚するって約束したじゃん」 「そんな約束忘れた」 素っ気無く言って睨んでやった。 俺は忘れた。おまえも忘れろ。 俺はあの頃の可愛いかなちゃんではないし、おまえもあの頃のあっくんじゃないんだから。 「えぇー! 加那ちゃんをお嫁さんにする為にここに戻ってきたのに」 「俺は嫁になる気はない」 「えぇー! 加那ちゃんのために強い男になったんだよ? 剣道、柔道、空手にボクシングまで習ったのにぃ~」 篤志はそう言ってしょぼんと肩を落とす。 いくら武道を嗜もうがこの体格…… いや、そういうことではなくて。 「強くなられても困る」 俺は優しくて可愛い女が好みなんだ。 「加那ちゃんを守る為に強くなったのに……」 おまえになんぞ守ってもらわずとも俺はやっていけるんだ。 もういい加減、俺のことは諦めろ。そう言おうとした瞬間、篤志が急に笑顔になった。 「じゃあさ、俺がお嫁さんになればいいんじゃん?」 なんで気づかなかったんだろー。 そんなことを言いつつ俺の腕にぶら下がる。 「今度は加那ちゃんの為に、料理習うからさ」 名案とばかりに喜ぶ篤志。 ……誰か、助けてくれ……。
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