4. 満ちる潮
翌朝、伊崎は病院に向かった。響に一番に会いたい気持ちはあるものの、これも仕事。 私情ばかり優先させるわけにもいかなかった。 だが、響とて入院患者の1人だ。 もしかしたら、まだ病棟にいるかもしれないと、一縷の望みを抱き病棟のドアを叩く。 入院病棟は「閉鎖病棟」と「開放病棟」にわかれていて、その2つの間に中央フロアーがある。 看護師に鍵をあけてもらい、中央フロアーにはいった。5人の患者が、それぞれ好きな場所に座り TVを見たり、雑誌を読んでいたり…。この中央フロアーに来れるのは、比較的、病状の軽い開放病棟の患者ばかりだ。 ぱっと見には、健常者となんら変わっている様にはみえない。しかし… 何人かと、それぞれ雑談のような会話をしてみたが、やはり通常の人間とは異質な印象があった。 病状も様々…。会話が成立しないものもいる。 (これは…取材は難しいか…) 響の様子があまりにも普通だったので、伊崎も油断していたのかもしれない。 ここが心療内科だということを失念していた。 暫くホールにいた伊崎だったが、響の姿を見かけることがなかった。もう、病院内にはいないのかもしれない。 病院に留まる事に見切りをつけると、伊崎はあの海岸へと向かった。
「伊崎さんっ!」 伊崎が海岸沿いの防波堤に姿を現すと、待ち焦がれたかのように響がこちらへと駆けてきた。 「来て、くれたんですね」 少し息があがっている。砂地を走ってきたのだから、仕方がない。 「あ、ああ…。」 響の嬉しそうな様子に、面食らって…だが、嬉しそうに微笑みかけた。 考えてみれば、こんなに人に喜んで迎えてもらったことなど、あったのだろうか? ゆっくりと階段を下りると、すぐ傍まで響はやってきた。 小首を傾げながら、静かな声で響が話し出した。 「今朝、もう凪があって…写真は撮ってしまったんです。でも…あなたと話をしていたい。 駄目…ですか?」 伺うように。なんだか怯えて見えた。 「そうか。もう、良い写真は撮れたんだね。俺は君に聞きたいこともあるし、構わないが。病院は?」 「いいんです。薬も持ってきているし…。」 そして、クスリと笑う。 「医院長、僕には甘いから」 いたずらっ子のような笑顔。こんな顔もするんだ…と伊崎は思う。 出会いから、まだ数時間。そうそう人間の性格など、把握できるものではないが、響は実に様々な表情を見せる。 儚げだったり、熱っぽく語ったり、いたずらっ子の様だったり。 「じゃぁ、しばらく話そう。君さえよければ。病院の取材は、もう済ませたからね。 もう、オフみたいなもんさ」 「嬉しい。…伊崎さん、お兄さんみたいで一緒にいると安心できるんです。それに…」 視線を足もとに落とす。 「それに?」 「いえ、あの…一緒に、いたいから」 「森園君…」 耳を朱に染める横顔。 思わず、抱きしめたくなる。愛しいと、感じた。 今まで付き合った女性達には、感じなかった感情。守って、慈しんで…。 「響、って呼んでください」 「ああ…じゃぁ、響、少し話そうか?」 伊崎は響を防波堤そばの防風林へと促した。もう写真は撮れたのだから、海から離れていても支障はないだろう、と。 低い松の樹の根元に腰掛ける。 もうすぐ夏だ。日差しも強くなってきている。まだ10時を回ったくらいだが、直射日光は少しきつい。 「そうか、つらい思いをしてきたんだね。今は、安定しているのか?」 「ええ…、この海で過ごしていると、何もかも忘れられる。自分の気持ちも、コントロールできるんです」 2人はつらつらと身の上話をして、過ごした。身の上話といっても、これは伊崎の取材の一環であるから 自然と響の事ばかりになるが…。
「響は、本当に海が好きなんだな…」 しばらく響は思いに沈んだ。伊崎は、はっとなって彼の横顔を見つめる。 「…海は…好きという訳じゃない」 苦しいものを吐き出すように、呻くように。 「伊崎さんは、海の声が聞こえますか?」 「声…?」 「ええ。声です。例えば、ほら…」 響が指さす方向には、波の逆巻く海。遠くで、白い飛沫が上がるのが見える。 「あんな海はね『来るな!来てはいけない!』って警告して、拒絶する声をあげてるんです」 遠い目をして、響がつぶやく。 「でも、凪は…『おいで、私のもとへ…』って誘うんだ。…僕を呼ぶ声」 先程までの会話で、響が何度も自殺未遂をしてきた事がわかっている。手首には、リストカットの消えない傷跡が無数に ついている。この、誘う声というのは、入水自殺のことだろうか…。 そう思うと、無意識に、伊崎は傍らの響の肩を抱きしめた。 「だからね…その声に負けないように、カメラで『凪』を封じ込めているんです…」 肩を抱く手に、さらに力がこもった。 「時々、負けそうになる…恐ろしいんです、自分が。でも…」 響の目が、すがるような色を浮かべて、伊崎を見上げた。 「あなたに会えたから…もう…」 伊崎は、知らず響の顔を両手で包んでいた。 もどかしい、切ない気持ちが伊崎の胸を満たす。 「響…キス…してもいいか?」 思わず言ってしまった。そうせずには、いられなかった。 響は返事をする代わりに、そっと目を閉じた。微かに睫毛が震えている。 伊崎は、そっと顔を近づけると触れるだけのキスをした。 響の柔らかい唇の感触…。いつまでも、こうしていたいと思った。 愛しくて、響の何もかもが知りたくて。守りたい。離したくない。支えてやりたい。…すべてが、欲しい。
そっと唇が離れる。名残惜しい気持ちで、伊崎は眉根を寄せる。 「…どうし…て?」 「響…君が…君を好きになってしまったらしい。男同士なのに…嫌だよね?」 ゆっくりとかぶりをふりながら、頬を赤らめて響は消え入りそうな声で言った。 「僕も、伊崎さんが好き。だから…嬉しい」 伊崎はまるで、恋愛初心者のような、初々しい気持ちになっていた。 響の言葉も、反応も、伊崎の胸をかき乱した。
しばらく2人は、無言のまま、時を過ごした。 静寂は苦痛ではなく、時間の流れが心地よかった。伊崎の手が、響の手にそっと重ねられて…。 それだけで、心が通い合っている気がしていた。
先に口を開いたのは、響だった。 「僕、そろそろ行かないと…」 「え?時間か?」 「ん…昼食の時間だから。時間、決まっているんです」 どうやら昼食は、ホールでみんな一緒に摂るらしい。もう、昼近かったのだ。 「あ、でも、また午後に会えますか?」 「それは…ぜひ、会いたいよ」 「…見せたいものが、あるんです」 午後の約束をすると、響は名残惜しそうに病院へと戻っていった。 後姿を見送りながら、甘酸っぱい気持ちになる。 (俺は…いいのか?相手は男だぞ。なのにキスするなんて…) (でも、正直な気持ちなんだから…) (後悔ではない。罪悪感か…) 熱い気持ちとは裏腹に、頭では、自問自答してしまう。 しかし… (考えても仕方ないな。…自分に嘘はつけない…) 意を決したように立ち上がる。そして、自分も昼食を摂ろうと、街道沿いのレストハウスへと向かった。
5. 切り取られた青空
伊崎が昼食から戻ると、響はすでに海岸に来ていた。風に髪をそよがせるにまかせて、じっと海の方を見つめ、佇んでいる。 そっと響の方へと近づいていった。手に持ったコンビニの袋が、ガサリと音をたて、響に気づかれてしまった。 「早いんだな…」 「ええ…僕、いつも沢山は食べないから…」 本当は、早く伊崎に会いたくて…とも言えず、そうは言ったものの…。自然と顔がほころんでしまう。 「それ、何を…?」 伊崎の手の袋に目をやる。白いコンビニの袋だ。 「これ?ああ…いっしょにお茶でも、どう?」 ふざけたように、袋を持ち上げてみせた。食事をすませた伊崎は、ここへ来る途中、コンビニに寄ってお茶やコーヒーを仕入れてきた。 午後も、なるべく一緒に…長く一緒にいたいから。 「ちょうどいいです。これから、ちょっとした遠足ですからね」 「遠足?」 「見せたいものがあるって、いったでしょう?」 そういいながら、響は海岸の端のほうを指差した。 海岸を断ち切るように、崖が聳え立っている。遠くはないが、確かに遠足気分は味わえそうだ。 「あそこを…登るのか?」 「ふふふ…まさか。でも、着いてからのお楽しみですよ」 行きましょう、と伊崎を促し、響が歩き始める。伊崎もあわてて響に追いすがり、並んで歩いた。 砂を踏む、足が軽い。 普段なら、砂浜を歩くのはかなり疲れるものなのだが、不思議と伊崎は苦にならなかった。 (デート…みたいだな。一緒に歩いてるだけで、いいなんて) 響も楽しげだ。コンビニ袋をガサガサいわせながら、崖まで歩く。 なんだか、デートのようでもあるし、少年のちょっとした探検のようでもあった。 「響のご両親は亡くなっているんだよね?…家とかお墓とか、どうしたんだ?」 かなり立ち入った話も出来るようになっていた。昨日からの会話で、だいぶ打ち解けたこともあるが、何より響自信が 伊崎に心を許していて、何でも話してくれた。 「お墓は八王子のほうに…。家は町田なんですが、処分しました。医院長が手配してくれたんです。僕の事は、すべて… 医院長は、僕の身元引受人なんです。…本当に親切な人で。親がわりなんです」 なるほど、合点がいった。医院長の響に対する感情表現は、ただの患者に対するものではなかった。 「でも、20歳になったら…僕も身の振り方を考えなくっちゃいけない。いつまでも、ここに甘えてはいられません」 「しかし…そうなると、退院ってことだろう?1人でやっていけるのか?」 「ええ、それは…」 足元の砂がきゅっきゅっと音をたてる。目の細かい、白い砂…。 「貯金もあるし、保護法も…。いろいろ調べてはいるんです。…ただ、仕事ができるか、わからないけど」 「…そう、か」 伊崎の目には、なんら健常者とかわらなく映る。学歴の問題さえクリアできれば、就職も難しくはないだろうに。 双極性感情障害、不安障害…。それが、一般社会にでた時に、どのように問題化するのだろうか。 伊崎には、想像すらできなかった。 「あ…あそこっ!あそこです」 響が指差すところには、崖の下に生い茂る草むらがあった。身の丈ほどの草が、崖の下を縁取るように生えている。 「?」 「あそこにあるんです、秘密の入り口…」 楽しそうな声音。また、あのいたずらっ子の顔だ。伊崎の好きな、響の表情…。 草むらをまえに伊崎が立ち尽くしていると、不意に響が手を握り、そちらへと引っ張っていった。 手が、熱い。響は無意識の所作らしかったが、伊崎にしてみれば、その手へと意識が集中してしまう。 ぐいぐいと引っ張られ、とたんにおかしくなった。 「はははっ…わかったから、そんなに急がなくても」 「え?あっ!…ごめんなさい、僕…」 真っ赤になって、手を離す響。 「ごめんなさい。僕、夢中で…早く、伊崎さんにあれを見てもらいたかったから」 「謝る事じゃないよ。ただ…そんな響が…」 「え…?」 「響が、かわいかったから…」 照れまくる響の手を、今度は伊崎から握って 「さぁ、連れていってくれるかな?」 響のの瞳を真っ直ぐに見つめながら、静かに言った。 「…はい」 揺らめく響の瞳。その瞳に動揺の色は、ない。伊崎だけを映す。愛しい人だけを…
「なかなか…これは…」 「気をつけてくださいね。身体を曲げてないと、頭、ぶつけちゃいますよ」 クスクス笑いながら、響に先導されて進むのは、洞穴のようなところだ。崖の下に、草に隠れるようにしてポッカリと空いた入り口。 中に入ると、大人では、腰を曲げなければならない程に狭い通路。岩肌が時折、服をかすめる。 しばらく進むと、前方に光が見えてきた。 「あそこです」 響の足が速まる。伊崎は、響に比べてだいぶ背が高い。響に追いつくことはできなかった。 一足先に、その光源の場所に辿りついた響は、静かに微笑み、伊崎を待っていた。 「…こりゃぁ…すごいな」 そこは、不思議な場所だった。 洞窟の突き当たりにこんな場所があるとは、想像してもみなかった。 5m四方ほどの、円形に近い空間がある。足元は、芝生のような柔らかな下草が生えている。 見上げると、ぽっかりと円形に空いた穴から、真っ青に澄み切った青空が見える。 光は、そこから差しているものだった。この下草も、上の穴から落ちてきた種子が根付いたのだろう。 「ね?すごく、綺麗でしょう?」 響は、宝物を自慢する子供のように、瞳を輝かせて笑った。 「ここは、前に偶然見つけたんです。僕しか知らない。僕はここを『空のファインダー』って呼んでるんです」 「空の…ファインダーか…。確かに、空を切り取ったみたいだな…」 見上げているうち、何故だか、崇高な気分になる。確かにここなら、いろんな表情の空を切り取って、独占した気分に浸れそうだ。 しばらく、伊崎は遠くの空を見上げていた。雲の流れ…風の音… 「君は、いい秘密基地をもっているな」 そんな形容があてはまりそうな、秘密のファインダー。 しかし、響の返事がない。 「…響?」 みると、響はしゃがみこんでいる。 「どうした?響?」 肩に手を置くと、微かに震えている。顔を覗き込むようにしゃがむと、響が苦しそうに喘いでいる。 「おい、大丈夫か?…どうした?」 伊崎は下草に座ると、響の身体を横抱きにして、抱きしめた。身体の震えが伝わって、とても苦しそうだ。 「…ごめんな…さい…薬が…」 「薬が?持ってきているか?」 響は、震える手で、ポケットから薬のシートを2種類取り出した。しかし、手が震えてしまって、上手く薬を取り出せない。 なんとか錠数を響から聞きだすと、伊崎は薬を取り出した。「リーマス」「コンスタン」とシートに書いてある。 「飲めるか?」 「…うん」 息を乱しながら、震える手でなんとか口に放り込む。しかし、伊崎の差し出したペットボトルのお茶が、どうしても上手く口にはこべない…。 伊崎はためらうことなく、お茶を口に含んだ。 響の唇に、自分のそれを重ねる。ゆっくりと流し込まれたお茶を、響が薬ごと嚥下するのを確認すると、伊崎はようやく安堵した。 「もう、これでいいのか?」 「ありが…とう…」 「少し、休んで…ゆっくり」 響はゆっくりと、顔を横に振る。いやいやをするように。 「伊崎さん…ちゃんと、見て…。コレが、僕の病気…だから…」 「だけど、響…」 「取材なんでしょう?…これが…不安発作だよ…」 「響、もしかして…」 「う…ん、貴方に知ってもらいたくて…薬を一回…抜いた…」 「…馬鹿っ!」 伊崎に病気の症状を見せる為、4時間に1度の投薬を、1回分抜いてきたのだった。 取材なのだから、いろいろ知ってもらいたい、そんな気持ちからだったのだが。響の予想以上に、発作が強くでてしまったらしい。 伊崎は、たまらなくなって、響を強く抱きしめた。 「響…もう、わかったから…だから、こんな事はもうしないと誓ってくれ」 怒りを押し殺すような声が、伊崎の口から漏れる。だが、それは怒りではなく、悲しみと愛しさだったのだが。 「…はい。ごめんなさい…」 響の声は、微かに震えていた。怖がらせてしまったのかと、伊崎は内心すまなく思ったのだが、しかし、響を想う気持ちの方が暴走した。 伊崎は、再び響の唇を奪う。気持ちが、態度が、全てが愛おしかった。 だが、こんな事で、苦しげに喘ぐ響…。壊れそうで、危うくて。こんな事なら、いっそ自分の手で壊してしまいたい。 激情が、口付けをさらに深いものにしていった。 午前中の『凪』の様なやさしい口付けではない。荒々しい、嵐の前の波のような、激しい口付けだった。 息をするのも忘れて…。 時折、響が切なげに眉を寄せ、甘い声を漏らす。 このまま、壊したい。奪いたい。全てを。 伊崎は自分が狂ってしまったのかと思っていた。いっそ、狂ってしまいたいと。 優しさなんかじゃない。1人の男として、この「響」という存在を自分だけのものにしたかった。
「…伊崎さん、心配かけてすみません」 「いや…いいんだ。…俺こそ、ごめん」 伊崎の中の嵐が過ぎ去り、静かに響を抱きしめていた。響の様態も安定した。薬が、効いたようだ。 「ごめん、って…。僕は、嬉しかった…」 まだ、力のない声。 「貴方が好きだから…」 響の手が、そっと伊崎の頬に触れ、移動して唇をなぞる。キスを許したのだと、その指先が雄弁に語っていた。 「俺は、キスだけじゃない。それ以上の事までしてしまいそうになった。自分に歯止めがきかなくなりそうだよ。 こんな男、怖いだろ?」 唇をなぞる、響の手の感触にゾクリと疼いた。 「怖くない…好き…」 響が目を閉じる。誘われるように、再び唇を重ねた。 静かに、時が流れていく。切り取られた青空だけが、2人を見守っていた。
6. その扉、開いて
伊崎が平塚の愛誠病院の取材を始めてから、6日が過ぎようとしていた。 朝、病院に顔を出して、その後の時間は響と海岸で過ごす。それが、伊崎の日課になっていた。 あの日以来「今日はちゃんと薬を飲んできたか?」と響に尋ねるのが口癖のようになり、響の身体の 変化には敏感になった。 幸い、あれから発作はでていない。 人間というものは、良い事でも悪い事でも、それがストレスとなるのだという。 響の場合、あの日、妙にはしゃいでテンションが上がってしまったのが原因らしい。 伊崎は、極力、ストレスになるような行動は慎んだ。驚かすような行動は…。 今日も良い天気だった。雲ひとつない青空。こちらへ来てからというもの、晴天に恵まれている。 海も、穏やかだ。 海水浴には、まだ早い。人影もまばらだった。 「今日は、どうする?」 いつものように、防風林の木陰に腰掛ける2人。日陰にはいると、浜風が心地よい。 「秘密基地に、行く?」 「…はい」 心なし、元気のない響の返事に、伊崎は戸惑った。 「どうした?具合でも?」 あの日以来、秘密基地---崖下の洞窟へ通い、寄り添って過ごすのが日課になっていた。 誰にも邪魔されず、人目も気にせず、お互いの気持ちの赴くままにキスをして… キスから先に進むことはない2人であったが、それでも幸せだった。切り取った青空を仰ぎ見て、語り合う。 ファインダーが黄昏に染まる頃、それが今日の逢瀬の終わり…。 そんな日々が、伊崎は好きだった。 「伊崎さん…」 「ん?」 「明日、帰っちゃうんですよね…」 「あ…うん。朝にはチェックアウトして、東京へ戻るよ」 「…」 それきり、沈黙がおりた。 伊崎は、響の横顔をそっと盗みみた。怒っているでもなく、泣くでもなく…全くの無表情。 (なんとも…思ってないのか?) そう、伊崎に感じさせる響の表情であった。 伊崎は急に不安になる。自分達の数日間は、なんだったのか? 「響にとって…俺は何なんだ?」 努めて静かに尋ねる。が、応えはない。 「俺が1人で舞い上がっていただけなのかな?…滑稽だ」 ゆっくりと、響が顔を向ける。目に、涙を溜めて。今にも零れ落ちそうに。 「僕の気持ち、わかってくれてると…思ってました。言葉になんかしなくたって…」 「響…」 「泣きたい、叫びたい!…本当は、行かないでって言いたい。ずっと、傍にいてって…」 堪えていたものを一気に吐き出すように、珍しく激しい想いをぶつけた。 「…でも、そんなこと…僕の我が儘です。わかってるから…」 そのまま、響は膝をかかえて俯いてしまった。肩が震えている。 微かな嗚咽をどうしてやる事もできず、肩を抱いて、やさしくさすった。 どれくらいそうしていたのか…。 「僕、戻ります。…これ以上あなたといると、辛くなるだけだから…」 そういい残すと、響は病院へと戻っていった。 「こんなさよならなんてーーーーーあるのかよっ!」 どうしようもない気持ちのまま、拳を砂に打ち付けた。何度も、何度も…。
病院へ出向き、医院長や看護師に挨拶を済ませると、伊崎はひとり、宿へと戻った。 潮風でべたつく身体をシャワーで洗い流すと、備え付けの浴衣ではなく、持参したTシャツとジーンズに着替える。 ベッドにごろりと横になると、煙草に火をつけた。 病院や響の前ではひかえていたが、伊崎はかなりのヘビースモーカーである。 天井に立ち上る紫煙を、無意識に目で追う。 もう、外は薄闇に支配され、この室内も外の夜景の明かりが差し込むだけ。 室内のライトをつける気にもならず、ただ、響の事だけを考えていた。 (これで、いいんだろうか) (俺にとって、あいつは…) (響、お前は俺をどう思ってる…) とりとめのない思考が、伊崎の頭を支配して放さない。 甘かった一週間の最後は、ほろ苦い、後味の悪いものになるのか。
「コンコン…」
ノックの音。気のせいかと思うほど、小さく、遠慮がちな音。 「響!」 間違いない。このノックは、響に違いない。伊崎には確信があった。 奥ゆかしい響なら、こんなノックをする。そんな確信が。 あわててベッドから飛び起きると、吸いかけの煙草を灰皿にねじ込みドアに走りよる。 「…響、だな?」 「あの…ごめんなさい、僕…」 響の声を聞いたとたん、響が最後まで言い終わらないうちにドアを勢い良く開けていた。 廊下に、響が立っている。いつもと変わらず、ひっそりと。 「最後に、もう一度、会いたくて…」 「っ!」 何も言わず、伊崎は響の身体を抱き寄せた。折れるかと思うほど、力をこめて抱きしめた。 がむしゃらに、唇を重ねる。応える様に、響の両の腕が、伊崎の首にまわされた。 背後でドアの閉まる音が聞こえる。ガチャリと、オートロックの閉まる音が響き、その音に伊崎は我に帰った。 ゆっくりと唇を離す。 「響…おまえ、病院は…」 「…抜け出してきました」 「そんなことして…平気なのか?」 薄闇の中、白く浮かび上がる響の顔。表情まで、読み取る事はできなかった。 だが、震える声が、涙を堪えているのを感じさせた。 「…後悔したくなかったから」 ふわりと、響の身体が伊崎の胸に飛び込んできた。 その、細い身体を抱きしめる。微かにシャンプーの香り。病院で入浴を済ませてきたのか。 フローラル系の香りが、伊崎の官能を煽る。 「伊崎さん…お願い」 消え入りそうな声が、胸元から聞こえてくる。 「…抱いて、ください」 響は上気させた顔を、伊崎の胸にすりつけた。Tシャツごしに、響の頬が熱い。 頬だけでなく、腕の中の響は、恥辱で身体を熱く火照らせていた。 「いいのか?…本当に…」 「あなたのものに…して…」 奥ゆかしい響の告白に、伊崎の理性は霧散していた。
伊崎は、夢中で響を抱いた。 正直、男の抱き方なんて知らない。メディアからのうろ覚えの情報や、男同士の猥談で話題にしたくらいだ。 そんな自分が、本当に同性とSEXするなんて…。 しかし、その時の伊崎には後悔も躊躇も嫌悪感など、微塵もなかった。 ただ、響を、響の全てを愛したかった。 細く、手折れそうな身体。白く、滑らかな肌。伊崎が加える愛撫に、敏感に反応する。ひかえめな、喘ぎ。 恥辱が、声を堪えさせる。指の背を噛み、漏れる声を必死に抑えようとする。 そんな仕草のひとつひとつが、伊崎をより煽っていく。 伊崎が響の身体を穿つ時、弓なりに反らされた身体が美しかった。 のけぞる白い喉。拒絶の声は、甘く誘う音色…。 異物感と、圧倒的な質量…。熱い伊崎自身が響の中で踊る。 痛みに必死に耐える響は、時折湧き上がる快感に、接合部を締め付けた。 2人は、何度達しても、飽きることなく求め合った。 汗が流れ、シーツが乱れる。 お互いを求める事で、朝が来るのを拒絶するように…。
伊崎は、煙草に火をつける。 響は、気を失ってしまったまま、眠っている。 そんな響の髪を、やさしく指ですきながら、安らかな気持ちで満たされていた。 泣きたくなるほど、愛しい。 恋愛に性別は関係ないのだ。人と人との、交わりなのだから。 「…あ、この匂いだったんだ…」 力なく、響が仰のく。 「起こしちゃったか…。匂いって、これ?」 おどけて、煙草をゆらしてみせる。 「うん…伊崎さん、いつもその匂いがしてた。…好きなんだ、伊崎さんの匂い」 ヘビースモーカーの伊崎は、取材や響と一緒の時は吸わなかったが、匂いは染みついてしまっていたらしい。 「俺の、匂いか。悪い、いやだろ?煙草くさくてさ」 「ううん、好きだったよ」 クスクスと、あの笑みを浮かべる。 ああ、この笑みをいつまでもみていたいと、そう思った。 「なぁ、響。俺、休みには会いにくるよ。いいかな?」 「え…いいの?本当に?」 「ああ…休みのたびに会いにくる。だから、あの海岸で待っていて欲しい。」 煙草をもみ消すと、真剣に響に向かいあう。 「俺、お前を愛している。この先、どうするか、まだ分からないけど…。本気で…」 響の上にのしかかる。上から、響の瞳を真っ直ぐに見つめた。 「本気で考えてるから。信じて欲しい」 響の瞳に、光るものが溢れる。感極まって、言葉にならなかった。 「響…愛している…」 伊崎の唇が、響のそれに重なる。 深く、深く…。
翌朝まで、2人は一緒にすごした。 響がいなくなって、病院は大騒ぎになっているだろうと、伊崎は響を病院まで送っていった。 実際には、響が医院長宛にメモを残しておいたので、たいした騒ぎにはなっていなかったのだが。 響を病院に残し、伊崎は平塚を後にした。 伊崎の心は、充足感に満ちていた。寂しさなど、微塵もない。昨夜の出来事が、伊崎を変えた。 ただ、気に入らないのは、仕事が待っているという現実。 伊崎は車を走らせた。 現実の生活へと、戻るために。
|