間違いなく愛していたのに
それは、少しずつ少しずつ俺たちの間に溝を深めて、 あいまいながら確かに冷めていく思い。
「ねぇ、仁(じん)。今日はいつ帰ってくるの?」 「・・・遅くなる。」
学生の立場と勤める者の立場は見事なほどすれ違い、 同じ家に住みながら共に寝ることは勿論、会話どころか顔を会わすことさえままならない生活の中で、
「もう行くの?」 「朝から会議だからな。」 「そっか。」 「・・・ねぇ仁?」 「なんだ。」
「仁のこと、愛してるよ。」
酷くキレイに微笑みながら繰り返されるその言葉だけが滑稽だった。
その日、会社から家へ帰ると居るはずの人物は居なかった。 焦ることもなく安堵に似た息を吐き、「とうとう、か。」と暗い部屋で呟く。 朝までは居たはずの部屋は綺麗に片付けてあり、残されたのは渡した合い鍵と、一枚の紙。
「ありがとう。」と一言かかれたその紙をクシャリと握りしめる。
何もかも、今更だ。 いつからこうなったのかなど、思い返すのも馬鹿らしい。 ただ容姿が綺麗だったのと人に干渉しないその態度が気に入っていた、そう、ただそれだけだ。 「愛してる」だなんてそんなこと、
嗚呼、一度も言ってやることすら無かった。
朝起きて、隣には当たり前ながら誰も居なかった。 台所にも、風呂にも、トイレにも、どこにも居やしない。 もともと一人で住むために買った部屋なのだからたいして広くはない、そのくせ一人居なくなっただけで随分と広くなったもんだ。
そう思い始めてることが何よりの危険信号だった。
玄関に立ってドアに手をかけた瞬間、何かを忘れた気がしてドアノブから手を離した。 重要な書類も、財布も、携帯も、しっかり持っていた。 忘れ物は家の中にある気がして一度履いた靴を脱ぎかけて、忘れた物の正体に気づいて冷や汗がでた。 そのまま走り込むように車に乗り込み、逃げるように発進させた。
『愛してるよ。』の言葉が無かっただなんて、そんなこと。
残業しなければならない日が増えた。 (家で待つ者が居なくなったから) 煙草の一日の本数が倍近くになった。 (煙で咳き込む者がいなくなったから) 何かが少しずつ、そして追いつめるように崩れていった。
何も食べる気がしなく、いつも倦怠感が残る。 今まで気にすることのなかった凡ミスが癪に障る。 暴れ出したくなる衝動を抑えるように飲む酒は何も入ってない胃にキリキリと染みた。
挙げ句の果てに何かを求めるように、貪るように、その日限りの相手を抱いてその度に「誰か」と比べては吐き気がした。
「誰か」なんて、白々しい。 すでに分かり切った自分の腹の底にある黒いモヤに名を付けるとしたら
『仁のこと、愛してるよ。』
【後悔】、それだけだ。
認めてしまえば後はもう容易かった。 手を伸ばしては消える残像のように、捕まえられそうなところで消えてしまった。 質の悪いことにそれを望んだのは、何より俺自身だった。 「愛してる」だなんてそんなこと、
当たり前すぎて気づけなかった。
もし、このドアを開けた向こうにあの時と変わらない時間が待っていたら、と願う。 ソファに座ってテレビを見ていた目をこちらに向けて「おかえり」と酷くキレイに微笑むのなら。
何もかも、今更だ。 ドアの向こうは暗く誰も居ない部屋があるだけ。 おそらくそれがこの先変わること無い事実。
「愛していた」という事実に無くしてから気づくなど余りにも愚かすぎて笑えてくる。 電気だけ付けるとソファまで辿り着くことなく床に座り込む。 いつ落としたのか、返されて役目の無くした合い鍵がポツリと横たわっていた。 そして、初めて気づいた。
残された合い鍵に付けられた小さな鈴。 赤いリボンが巻かれたその鈴を「可愛すぎる」と馬鹿にしたことがあった。
『いいんだよ。鈴付けときゃ、落としたときすぐ気づきそうじゃん。絶対無くしたくないからさ。』 そう言ってやはり酷くキレイに微笑んでいた。
噛みしめた唇からは血の味がしたが、構わなかった。 下手すれば名前を呼んでしまいそうだった。 もう、戻ることのない、その名前を。 「愛していた」と、もう過去にせざるおえない。 「愛してる」と一度も伝えられないまま無くした。
上り募った愛しさは下がることを知らず、 自分から無くしたくせに今すぐにでも家を飛び出して探したかった。 否、探そうと本気で思えば探せたのだ。 それをしなかった、出来なかったのは「自分から捨てたくせに」と攻める俺自身が居たから。
間違いなく愛していたのに
今できるのは確かに「此処に居た」ことを証明する小さな鈴に口付けることだけだった。
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