※Aviator(アビエイター)・・・航空士のこと。「パイロット」という言葉には様々な意味があるため、特に航空(Aviation)に関わるものであることを強調する際に、この呼称を用いる。(Frontpage-航空用語辞典より抜粋) 本来は海軍所属のパイロットまたは飛行搭乗員を指し、さらには航空母艦の艦載機群飛行隊に属する者たちを指す言葉らしいが、ここでは単純に、日本の航空自衛隊に属する飛行士という意味で使用する。
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さわやかに晴れ渡る蒼空を、煌く機体が瞬時に駆け抜けたあと、あまりにも早すぎたその軌跡を辿るように、白い雲が細長くたなびく。眼下に遥か広がる海を眺めながら、機体は、更に上にある空の高みを目指して、ぐんぐん舞い上がっていく。 気圧の上昇と共に、操縦桿を握る自分の腕ごと、空に吸い尽くされそうになるこの危なげな感覚に、じっと自分の身を委ねていると、まるで、今の自分が、ギリシア神話に出てくる英雄イカロスになってしまったかのような生々しい錯覚に陥る。 重い鉄くずで造られた小型戦闘機を、国の意のままに操る職業軍人の立場にある自分に、己の自由は一切認められていない。己の本分を押し殺してまで、国に尽くす事が第一とされるこの堅苦しい職業を、自分の生業として選んだその一番大きな理由は、現在の科学の粋を結集して造られたこのハイテク戦闘機のパイロットに、自分がなりたかったからだ。その為に、わざわざ防衛大学に入り、敷かれたレールの上を順調に歩んで、無事、その要職に就く事が出来た自分のこれまでの人生に、下村(しもむら)は、大変満足していた。 ただ、唯一の不満は、狭いコクピットの中、自分と十数センチしか離れていない後ろの席に、副操縦士として乗り込んでいる不快な男の存在であって・・・
「気象レーダーに雲が出ているな・・・この分じゃ、今日の訓練もあと数分ってとこか」 「は?何か云ったか?安曇(あずみ)」 お互い、メットを被っての会話なので、その声は自然と怒鳴りあう形となってしまう。尤も、下村の場合、そこに個人的感情が大きく絡んでいた事も否定はしないが・・・ 「別に――いいから、お前はちゃんと前を向いて操縦しろよ」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
自分と歳もそんなに変わらない同期のくせして、やたらと鼻息荒く、いつも自分に命令してくる。職階こそ、自分の方がワンランク上ではあるが、それも、次の昇格試験があるこの春までの事である。
やがて、前方のスピーカーを通して、管制塔から、先程、安曇が予測していたのと全く同じ内容の連絡が入ってきた。
『WECOM(気象)レーダーに強いエコーが見られる。天候の悪化が予想されるので、今日の訓練は中止して直ちに帰投せよ』 「了解、スピリット01、直ちに訓練を中止して、基地に帰投します」
自分の目で見ている限り、ガラス越しに見える空は隅々まで広く晴れ渡って見える。これから悪天候となる兆しなど、全く見えやしないのであるが、ほんの数分で目視不可能になるほど雲量が増えてしまう事は、季節柄、この海域ではよくある事だ。下村が、飛行訓練をつんだ如何に優秀なパイロットであったとしても、そうなる事だけは、出来るだけ避けたい。 「あーあ、お前とせっかく二人きりになれる、空のランデブーも、残念ながら、今日もここまでかよ」
嘘か本気か知れない安曇の言葉に、下村は、思いっきり顔を顰めて応じた。
「訓練中に気色の悪い事抜かすんじゃねぇよ。その手の冗談はやめろって、いつも云ってんだろ?」 「冗談じゃなくて、俺、結構本気なんだけど」 「だからーっ」
女っけのない男ばかりの集団生活において、安曇のような特殊な志向を持つ輩も決して珍しくはない。この広い世の中、いろんなタイプの人間がいるのだから、別にそれはそれでいいと思っている。ただ、どうして、その安曇が興味を抱く相手が自分なのか。安曇とは違って、全くその志向を持たない下村は、その点において、ひどく辟易していた。 「なあ、お前、この間までつきあっていた女と、やっぱり別れたんだって?」 「やっぱりって云うのは何だよ、おいっ、てめぇ、俺に喧嘩売っているのか?」 「別に――その女、見る目がなかったんだなと思って」 「・・・ふられたんだよ、俺が」 「は?」 ふてくされた口調で、小声でそう答えた下村に、安曇がわざとらしく訊き返した。
「だからっ、ふられたんだよ、俺の方が、その女にっ――俺みたいに、戦闘機の操縦桿握るしか能のないくだらない男は、こっちからごめんだってさ」 「何、それ~、お前、飛行機乗りのくせして、女の操縦、無茶苦茶下手っ!!」 「うるさいっ」 んな事、ホモのお前に云われたかねぇよっと、下村は、窮屈なメットの中で、こめかみをヒクヒクと痙攣させた。殺す・・・この男、いつか必ず自分の手で絞め殺してやると、下村は、自分の心の中で、密かにそう誓った。
「基地までの飛行時間は?」 「うーん、あと数分ってとこかな?」
飛行訓練の折、たびたびコンビを組まされる安曇のこういういい加減な物云いが、完璧主義者である下村には我慢ならなかった。それでは、質問の答えになっていないと、下村は一人、心の中でごちる。 自分にこの男は全く合っていないと思うのに、どうして、この男がいつも自分の後ろにいるのか・・・飛行機の性能上、二人乗りなのは仕方がないとしても、自分のパートナーが、何故、いつもこの男なのか・・・それが、下村には、不思議でしようがない。同じ機に配置する人員を選ぶ方式が、まさか、アミダという訳はなかろうが、それにしても、こう毎回毎回、この訳の分からない男と、小型機内という密室で、二人きりで過ごさなければならない時間は、下村にとって、苦痛以外の何物でもなかった。
だが、そんな拷問のような時間も、あと数分で終わる。
このまま、この戦闘機が、管制塔の指示通りに無事基地内に帰り着く事が出来れば、それで、この男ともようやくおさらば出来るのだ。 「あ~、腹減った、今日の夕飯は何だろうな」
前を向く下村の背中相手に、相変わらず一人、くだらない事をぼやいている安曇の言葉を、下村は徹底的に無視した。着陸に向け、操縦桿を再びしっかりと握り直して、機内の計器に目を遣る。いつも正常値を示しているはずのそれらの数値に、どこか一箇所でも異常があれば、それは、即、己の身の危険を意味する。いくら、この機が、自動操縦装置がついた最新戦闘機ではあっても、結局、最後に信じられるのは、己の腕しかない。 呼吸を整えて、ゆっくり飛行高度を下げていく。それに伴って、周りの空の色が少しずつ変化していった。すっきりと澄み渡る蒼穹の色の濃度が、下に行くに伴ってだんだん薄くなっていくのだ。一気に変化した気圧の影響か、密のある重苦しい空気が機体にまとわりついてくる。それを振り切るように、スピードを上げた途端、自分の目の前に見えているはずの景色が大きく揺らいだ。 「うわっと」 「おいっ、何、やっているんだよ、下村っ」
急いで操縦桿を引き上げて体勢を立て直したものの、冷や汗は拭えなかった。今のは・・・?一体、何だ?先程チェックした計器類は、何一つとして異常を指し示していなかったはずなのに、機体が大きく右に傾いてしまっていたのだ。 「珍しいな、お前がこんなヘマやらかすなんて」 「・・・いや」 おかしくなってしまったのは、計器ではなく、自分の感覚の方か?その瞬間、自分の足元の方から、云い知れようのない不安がむくむくと湧き起ってきて
「おい、下村、大丈夫か、お前っ」 「ああ・・・」 自分に必死に声をかけてくれている安曇の声が、ひどく霞んで聞こえる。しっかりしなければ、落ち着かなければと、そう思えば思うほど、自分の意識がますます白くなっていくのだ。これまで、数年ずっと飛行機に乗ってきて、下村は、今までに一度もこんな状況を体験した事はなかった。 バーティゴ、空間識失調――飛行機に乗りたての新米パイロットではあるまいし、自分が、何故、今、こんな状況へと陥ってしまっているのか、その原因さえ定かではない。 あるいは、自分はこのまま、自分の後ろに乗っているこの男と、この飛行機に乗ったまま、心中してしまうのではなかろうか・・・飛行機乗りである自分が、空の上で死ねるのは本望だが、あの世に行ってまでこの男と一緒にいるなんて、そんなのまっぴらごめんだ――そう思ったら、このままここで絶対に死ぬ訳にはいかない。
バーティゴに陥ってしまった時の対処法、まず計器類の再確認、それから、自分の今の状況を早めに自覚して、同乗者に救助を求める事、自分の感覚が信用出来ない以上、相棒の感覚を信じるしかない。だが、しかし―― (・・・まてよ、おい・・・) 同乗者・・・同乗者って、もしかして、あれか・・・?この世界一、一番いい加減なこの男に、自分の命を委ねろと・・・
「わっ」 「下村っ」
うまくバランスをとったと思った機体が、次の瞬間には、もう左に傾いてしまっている。このままでは、本当に洒落にならないと思った下村は、そこで初めて声をあげて叫んだ。
「バーティゴだっ、頼む、安曇――俺に代わって、この機体をコントロールしてくれっ」 「よしきたっ」 その言葉に従って、安曇が代わって、サブの操縦桿を握る。風に舞う木の葉の如く、くるくると回りながら失速していた機体に、その瞬間、再び、命が宿った。
重い操縦桿を引き上げて、機体を何とか水平の体勢に戻した安曇は、ひどく得意げで、まるで親から褒められた子供のように無邪気な顔をして笑っている。 「どうだ」 正直、下村も、その桁外れに素晴らしいテクニックには驚嘆した。こいつ、本当は、こんなにも機体の操縦がうまいくせして、どうして自分の後ろになんか乗っているのだろうと思った。 「・・・なあ、安曇」 「あ?」 「お前、本当は、飛行機の操縦、無茶苦茶うまいんじゃ・・・」
そう問い質した下村に、安曇は
「だったら、どうした?」 「だったら、何で、メインのパイロットにならずに俺の後ろになんか・・・」 「んなの、決まってるじゃないか」 「?」 「俺はここが好きなの、お前の後ろにいたいの――こうして、俺がお前の後ろを守っている限り、お前は前だけ見て、安心して操縦桿を握っていられるだろう?ほら、いざという時にお前を助けてやれるのは、やっぱこの俺しかいないと思って」
聞きようによっては、愛の告白ともとれる安曇の言葉に、下村は耳まで真っ赤になった。こんな男、今まで何とも思っていなかったはずなのに、ピンチを救ってもらった途端、その相手を意識してしまうなんて、そんなの、あまりにも馬鹿げている。第一、こいつは――
「なあ、俺の事、見直した?」 「はあ?」 「もしかして、今ので、俺の事、少しは好きになってくれた?」 「馬鹿云うなっ」 そう云って相手を詰る下村の声が微妙に震えてしまっている事に、安曇も気付いてしまっていて 「図星突かれたからって、んな、照れなくったっていいじゃん、下村」 「別に俺は照れてなんか・・・」 そうして、飛行機の中で、二人してじゃれあっているうちに、視界の正面に捉えた基地が、ぐんぐんと自分達の方に近付いてくる。 「スピリット01、予定通り、間もなく帰投します。着陸の準備を」
『了解(ラジャー)』
着陸に向けて、前傾姿勢となった機体の中で、下村は、つかの間の幸せを噛み締めていた。こうして生きている喜びを、生きて再び大地を踏ませてくれた相棒の機転に、心底感謝していた。これまで何度となく同じ機に乗っていながら、今日、初めて、自分の相棒がこの男で良かったと思った。 自分に邪な気持ちを抱いているというその理由から、今まで毛嫌いしてきた男ではあるが、根はそんなに悪い男ではないのかもしれない。偏見を取り除いて、じっくりと付き合ってみれば、案外良い奴だったなんて事も大いにありうる。今回の事で、その相手に対するガードをすっかりと緩めてしまっていた下村が、そんな感傷にしみじみと浸っていたら 「おい、今のは、お前に一つ貸しな」 「・・・は?」 「ピンチに助けてやったんだから、一つくらい、俺の云う事を聞け」
いつもの如く、さもそれが当然と云った横柄な態度でそう主張してくる安曇の態度に、かなりのムカつきを感じながら、下村は、たった今まで自分の心の中に思い描いていたその幻想を慌てて打ち消した。やっぱり、こいつ最低!! 安曇は、どこまでいっても安曇だ。 「で?」 「・・・で?」 「お前の望みは何だ?」
助けてもらったという事実がある以上、その言葉には逆らえない・・・それに、こういう借りは早めに返しておく事に限る。そう観念して言葉を返した下村に、安曇は 「分かっているくせに」 「は?だから、何が?」 「だから、俺の気持ち」
(!?) その言葉を聞いてしまった瞬間、下村の前方は、またもや視界不良となって
「てめぇなあ、いい加減、その手の冗談はやめろって――」 「冗談なんかじゃねぇ」 「あ?」 「俺、本気で、お前の事、かなり気に入っているから、だから、俺――」 「・・・・・・・・・・・・・・・・」
いつもやたらと自信満々の男の声が、飛行機の爆音と共に、自分の後ろ側で、次第にフェードアウトしていく。前方に大きく傾いた機体は、今や、地面すれすれの位置にいて
「却下」
下村がそう答えたのと同時に、機体の腹から出た車輪が、滑走路を捉える。その衝撃が、激しい揺れとなって、二人の体に生々しく伝わってきた。 「え?今、何か云ったか?下村」 「だから、却下」 「・・・気のせいか、何にも聞こえねぇなあ・・・」 「あのなあ、お前っ――」
格納庫を目指して、滑るように地面を走る機体のスピードが徐々に弱まっていく。目的地まであと数十メートル、十数メートルの距離を残して、飛行機は、瞬く間にその場所に辿り着いた。
「お疲れ」
コクピットが開いて、周りに機体整備のクルー達がわらわらと集まってくる。その混雑に紛れて、一足先に操縦席を離れようとした下村に安曇の声がかかった。 「逃げても無駄だぞ」 「!?」 「俺はいつもお前の後ろに居るから」 「・・・・・・・・・・・・・・・・」 「後ろから俺に寝首を掻かれる事のないよう、せいぜい注意しておけよ」 不真面目な口調とは全く裏腹に、やけに真摯な目で自分の顔を見つめてくる安曇に対して、下村は不敵に微笑んでみせた。
「上等じゃん」
追い詰められるものなら、追い詰められるところまで、自分をとことん追い詰めてみればいい。この男がどこまで本気かは知らないが、自分だって、早々簡単にこの男になびきはしない。俺がこの男に食われるか、それとも、俺がこの男を食うか―― 「・・・・・・・・・・・・・・・・」
メットを取って、ふと見上げた青空に、細く白い雲が漂う。たった今、自分が作り上げてきたばかりの空の軌跡を、下村は目を細めて、いつまでも見つめていた。
Fin
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