「……君はあまり笑わないんだな」
中佐の手が僕の髪の毛をなでた。 僕はあまり自分の髪が好きではない。なぜなら中佐のような綺麗な金髪ではなく、黒みがかった茶色だからだ。 中佐はずっと僕の顔や髪の毛をなでては、兵舎の中では見たことがないような優しい顔をする。
「中佐こそ、そんな顔をするとは思いませんでした」 「……そうだな。兵舎にいる時に笑顔など見せては、下士官にしめしがつかないからな」
僕らはベッドの中にいた。
今日、僕は兵舎内の中佐の私室に入った。 それは中佐宛の通信文を持っていったからだったが、それを机の上に置き、壁に中佐の上着がかけてあるのを見た。そしてそれを何気なく手にとって匂いをかいでみた。 そして-------そこに中佐が現われたのだ。
ひどく怒られると思った。 隊内で同性愛行為は極刑に値する。 僕のような下級兵士がそんなことをしているのが知られれば、軍法会議に掛けられるまでもない、即銃殺だ。
ところが。 リヒャルト・ユリウス・フォン・ゲッヘルハイマー中佐はその鋭いブルーの瞳----隊内では冷たい荒鷲と呼ばれる-----を少し細めて僕を見ると、ドアの鍵をかけた。 そして、驚いている僕の方に大股で近づくと、僕の顎に手をかけて顔をしげしげと眺めた。 そして、脅える僕を抱きしめたのだった。
まさか彼が落ちてくるとは思っていなかった。 名門家庭に生まれ、総統の覚えもめでたく親衛隊で一番の堅物の彼が。 その光り輝く金髪と、透き通るようなブルーの瞳は下士官の間でも人気だったが、彼はほかの親衛隊員の中でも群を抜いて厳しかったのだから。
僕らは中佐の家で愛しあった。 彼は僕の唇を吸い、軍服を脱がせ、僕の肌を愛してくれた。 意外だった。 冷たい荒鷲と呼ばれた彼の唇や肌が、こんなに熱いなんて。 そうしてひとしきり愛しあい、行為が終わった後も裸のまま抱きあっていた。
「君の田舎はどこだ、ライナー」 「僕はベルリン出身です」 「そう。私はマインツ近くのエルトヴィレという町の出身だ」 それは知っている。 ターゲットの情報は事前にすべて目を通すように言われているからだ。しかし、僕ははじめて聞いたようなフリをする。
「意外です。中佐はもっと都会の出身かと思ってました」 「いや、私は田舎ものだよ。子供の頃は川で小魚を釣ったり、岩場で虫を捕まえたりしていた。夏の暑い盛りには川沿いの楡の木の下で読書をしたりしてね」
そんな子供の頃の記憶は僕にはない。 あるのは灰色の空と灰色の建物の壁だけ。そして来る日も来る日も訓練の日々。 母はすでに亡く、事故死した父親が軍の出だったため、血筋をみこまれた僕は幼少時から軍の下部組織で育てられた。 そして組織から親衛隊へ入隊した時、ある任務を任された。
彼の宝石のような瞳の中に僕の顔が映っていた。 そして彼は、再び僕の髪の毛をかき上げると、小さく溜め息を吐く。 目の下の濃い翳り。彼は少し疲れているのかもしれない。
「……こんな世の中になるとは誰が予想しただろうね。誰もが争い、裏切り、疑心暗鬼になって隣人を見張るような世の中にね。昔は私にも高い理想があったはずなのに、今はそのかけらすら残っていない」 「中佐は立派な方です。……あこがれる者も多いし……」 「しかし、私のやっていることといえば、上におべっかを使い、何の罪もない人を収容所送りにすることだ」 「……そんなことを言っては……」 どこに誰の耳があるかわからない。 何が災いして罪を負うかわからない時代だ。隣人にあらぬことを告げ口されやしないかと、皆そればかり心配している。 しかも、軍紀を厳格に守っていたはずの彼は、近頃軍を批判するような言動が目立ち、上層部から疑いの目を向けられていた。 しかし、中佐はそんなことは承知とばかりに、話しつづける。 「君のような子供が人を殺すのが、正しい世の中だなんて思えない。こんな世の中でさえなければ、楡の木の下で笑う君が見れただろうに」
僕は笑顔を作ろうとして失敗した。 ただ、困ったような顔をしていたにちがいない。 父がいて母がいた昔なら、大きな声ではしゃいで走り回っていたような記憶があるが、今はもう忘れてしまった。 俯いてしまった僕の頭を、彼の大きな手がなでてくれる。
僕はこの人のことをもう少し知りたいと思った。 ドアが開くのが少しでも先にならないだろうか、とそればかり祈っていた。 しかし、無情にもその時はやってきた。
「……リヒャルト・ユリウス・フォン・ゲッヘルハイマー中佐。同性愛行為の禁を犯した罪で逮捕します」 一分の隙もなく制服を着込んだ親衛隊員が、土足で寝室に踏み込んできても、中佐は驚きもしなかった。 自らの運命を悟った彼は、振り返って僕を見た。
「……君か…………」 「はい。僕の任務は親衛隊の上官に誘いをかけ、隊内にいる同性愛者をあぶり出すことです」 「…………そうか…………」
彼の透き通った水色の瞳は少しグレーがかって見えた。 彼はベッドから降りると、黙って衣服を整えはじめ、僕もそれにつづいた。間抜けな光景だった。
「任務……ね。それで君は何人の将校と寝たの?」 「いえ。中佐がはじめてです」 「そうか。ひっかかったのは私だけということか」 その言葉を聞き、心の奥で何かがチリリと疼いたような気がした。
親衛隊が中佐の腕に手錠をかけ、外へ出るようにと促す。 彼の髪の毛が一筋、額にかかっていた。僕はその髪の毛をはらってやりたかった。 しかし、彼は手錠で繋がれた両腕を上げて、それをかき上げてしまった。そして僕の方を見て「何か?」というような顔をした。僕は二歩ほど彼に近寄ってしまっていたらしい。
「私は死刑かな?」 「いえ、中佐の階級のこともありますから、まずは軍法会議にかけられることになります」 「中佐が軍紀を破ったんだ。ガス室か銃殺か、といったところだろう。気を使わないで構わないよ」 親衛隊員の抑揚のない言葉にも、中佐はそれほど悲愴な顔は見せなかった。
「連行しろ」 彼は背中を押されたが、扉の前で振り返って僕を見た。 「ライナーという名は本名か?」 「……はい」 彼の形のよい口から開き、僕はうっとりとそれを眺めていた。そして、冷たくととのった彼の相貌がゆっくりと緩められるのが見えた。 「……では、ライナー。楡の木の下で待ってる」 「!」 僕の言葉を待たず、彼は扉の向こうに消えてしまった。閉じられた後も僕はしばらく扉を見つめていた。
「……どうした。ライナー・ヴィルツ上等兵」 「え?」 その場に残った上官の声で、僕はハッとする。 気付くと頬が濡れているのがわかった。目から水分が流れ出し、顎のあたりまで伝っている。僕は泣いているのだった。
楡の木の下で待ってる。 彼の静かな声が耳にこだまする。 天国に楡の木はあるのだろうか。 そして、その下で僕は笑うことができるのだろうか。
Ende
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