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 (薬屋の若旦那×染師 昭和初期 歴史/--)
乃村家の若旦那


          一

「ちょいと、お前」
 乃村家と云えば、九能谷の界隈では名の通った薬問屋である。藩政末期に二間続の書院授かり、裏庭には接待用の茶室まであり、商売人ながら風流とは言い難い簡素な庭だが時が経てば良いように寂れてくるだろう、苔が繁茂すれば侘び寂びは独りでに生まれるのだと笑った先代の人柄は、今もなお色濃く引き継がれている。苔を待つのも宜しいが、素っ気ないから芝を植えましょうと女子供らしい考えで末娘が云い、今の庭が出来たらしい。ささやかながら築山があり、どこか新しい庭を京簾の脇から眺めるのが直弼は好きだった。
 打ち水をしている下男に再び声を掛ける。
「散歩でもしまいか」
 下男は、斬髪を掻き「へぇ」と云ったきり、戯れてはくれない。
 葦戸の開く音がして、振り返ると、冷たい麦茶の入った硝子のコップをお盆の上にのせて女中頭のおすずが入ってきた。
「散歩とは素っ気ねぇ。薮入りの折ぐらい、花街へ足を伸ばしまし」
 おすずは、最近頻りに茶屋遊びを勧めるが、当の直弼は気がのらない。
 妻子の留守に羽をのばせということだろうが、直弼にしてみれば父親の馴染みが多くいる場に遊びに行くなど気が削がれた。青楼郭の主人の黒眼鏡はいけ好かないなどと選り好みしているから、無粋だと言われる有様。されど直弼には無粋者の立場が心地好い。
 蚯蚓の這ったような悪筆な上に、詩歌や俳句も駄目、茶席も倦厭、美術品にはとんと疎い。そんな直弼の未来を案じたであろう乳母の案は素気無く却下された。
 こんな気だるい真夏の午後こそ、一服拭かし、古本屋にでも足を運ぶべきだ。そんなことを考えていると、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、と奥の間から線香の匂いとともにお経が仄か聞こえてくる。
「芸者は好かん」
「いつまでもわらびじいこと云ってはるから、越賀の旦那に笑われはるんがや」
「笑わせとけ」
 外井とは、直弼の妻聡子が懇意にしている三弦屋だ。茶屋街の端に店を構え、四代目の主人は聡子の三弦の様子を見に直々顔を出す。これがなかなかの色男で、当世の背広着せて帽子でも被らせれば名ある活劇の俳優にも見える。
 直弼は地唄に興味はなかったが、外井の事は幾度と心に掛けていた。
 嫁を貰ったものの、若い時分からの悪い癖で、若い男以外、直弼は食指が動かないのだ。外井の息子も凛とした好青年らしい。直弼としては、息子見たさに、花街に赴こうかと思った程だ。
 
 つまりは、結婚したところで、早々には趣味嗜好は変えられないという事だ。
 若い頃のように盛る気は毛頭ないが、通りなどで楚々として上品な若い青年を見掛けると無償に心が騒いで、 どうにかしたくなる気分になるのだ。
「番頭さんが、来てはっとるけぇ」
 手代の声が聞こえる。お盆の間は勿論、店は畳んでいるが、雑雑とした仕事は多い。名目若旦那とはいえ、新年の引退宣言も何処吹く風で、父親が薬箪笥の横の小部屋から離れようとしないのだから、『旦那』では未だないのかもしれない。
「はぁい」
 おえの間からの、昼の焼き魚の匂いが残っている正午の倦怠と女中の声が、直弼の眠気を誘った。
 普段煩い子供の声もなく、家の中はしっとりと静寂に包まれている。妻の聡子と娘の美奈子が郷里に帰っているのだ。
 直弼の隣で、ゆったりと団扇を蒼いで、おすずが風を送ってくれる。
「篠ノ井にいっておいであそばせ」
「くどい」
 直弼は眉を寄せておすずを睨んだ。乳母は半目を閉じ、風鈴の音のする部屋で、暫し黙っていたが、「外井さんとこ、今年は、初孫に初盆で大忙しで」と、あまりに何事も無かったように言葉を次ぐので、直弼は思わず「ふぅん」と相槌を打ってしまった。間の抜けた声に、どこか老婆の策略に嵌ってしまった気がして、直弼は納得いかない顔をする。
 体勢を整えるために欠伸を一つし、仏間に平行に腕を伸ばして畳に寝転んだ。

「旦那ぁ」
 どうやら転寝をしていたらしい。下男の声に直弼は片目だけ、開ける。
近くにおすずの姿は無かった。買い物にでも行っているのだろうか。
「庭から声が」
 むくりと起き上がり縁側に立つと、四つ目垣の向こう、海松色の浴衣を来た背の低いずんぐりした男が立っている。頭に取ってつけたように載せられた帽子が、鶏冠のように白々しい。
 その数歩後ろには、すらりとした中背の若者。塚田だ。
「ほらやっぱり、家で寝てると云ったろう」
 悪友越賀は洒落た帽子の下で、赤ら顔をにやつかせている。
 後ろで楚々と立っている塚田は、呉服屋越賀の店に出入りしている友禅の染付け師だ。東京から越賀が預かって修行させていると人の口端にのぼるが、本当かどうか面と向って聞いたものはいない。
 あまりに見目麗しい都会的な青年なので、女房達の目を引き付ける良い広告塔だ。
 その日も木立の中、衣文入りの青鈍の浴衣に鮮やかな浅葱の絽の帯が粋だった。肌の色をより鮮明に、透き通るように見せていた。
「無粋だな。庭からなぞ、呉服屋の大旦那のすることじゃぁない」
 部屋におすずの姿はなかった。買出しにでも行っているのだろうか。
「君に言われたくないね。俺はまだ親父の後を継いでない」
 越賀は切り返す。挨拶の遅れた塚田は、越賀の後ろから決まり悪そうに頭を下げた。
「通りに回れ。勝手を開けよう」


          二


「奥方が薮入りされたと聞いたけ、退屈しちょるやろう思って」
 越賀は丸々と出っ張った腹に響くような大きな声でそう言うと、にやにやと笑った。
 塚田は相槌を打つわけにも行かず、困った顔をする。
「お節介者め」
「結構、結構」
 越賀は膝の上に乗せた帽子をぽんぽんと叩いて、豪快に笑う。
「塚田は、お前ンとこの庭が好きらしい。散策すれば必ず、寄りましょうと誘うから」
「そんな……」
「今日は、ゆっくり出来るのか」
 直弼は塚田に向き直る。
「出来るから連れてきよる」
 脇から越賀が答えた。
 越賀と直弼は学生時代からの付き合いになる。越賀は直弼の男好きを知っている。こうして度々塚田を乃村家に連れてくるのは、乃村と塚田が密かに心を通わせていることを知っているからだ。
 呉服屋はその後、塚田を一人庭に残して、近所にある屋敷街に散策に行った。
「ゆっくりって」
 越賀が座敷を辞した後、するするっと直弼は庭に向う葦戸を閉めた。奥の間から婆やは退いたようだ。法華経の教えはもう聞こえてこなかった。婆は二階に上がったのだろう。
 真夏に全て締め切っておくのもと思い、縁側に向う葦戸は、一尺ほど開け放しておく。
 葦戸を閉める直弼の心中も知らずに、「乃村さま、今晩でも篠ノ井のお部屋、おとりしましょうか」 場繋ぎのように言葉を次ぐ。
「なんで部屋なぞ」
 直弼は一瞬眉を寄せる。それに気付いたのか、直様続ける。
「退屈なさっていると……」
「お前ぇも行ってくれるのか」
「いえ」
 塚田は口篭る。震える睫に、若い染師を困らしているのだと思った。
「いい、いい。篠ノ井には、行かない。あすこには嫌なモノが居るからな」
「嫌なモノ、ですか」
「襲われたら、助けてくれるかい」
 直弼は塚田を畳の上に、軽く押し倒した。丁度後ろ手をつく格好。
 肌蹴た浴衣の暗がりから覗く白い太腿が、艶かしい。
「いけません」
 いけませんというのは、押し倒した事への抗議であろう。しかし誘っているように響く。
 細い脚首が眩しい。このような若者は、もう多くはないだろう。青年の澄んだ若さが、直弼には愛しかった。
「あすこに霊など。乃村さまが見たのは、きっと……」
「解った、解った」
 直弼は人より霊感が強いわけではないが、妙なものを視る機会が多い。きっと生まれる前で因縁を残しているのだろう。塚田は言う。
 因縁。
 恐らく男女両方の霊だ。死装束は塚田に般若の絵でも染めて貰おうか。
「随分、静かですね」
 塚田の声に、耳を澄ませる。
 云われてみれば、蝉の声もない。風も止んだ。
「蝉も鳴かず、風鈴の音もない、子供の声もない、脇を流れるは干上がってしまったでしょうか。まるで水を打ったように静かです。何か、ただ事ではない妙な心持がします」
「ただ事ではないと云うと」
 塚田はふと笑った。口許など凛として世辞一つ云いそうに無く固く結ばれているが、一端開けば柔らかな声を出す。伏せ眼がちな目許を見下ろすと、何とも物寂しい色気が振りまかれた。
「さぁ。でも、乃村さま、何事にも吃驚しないご様子だから」
 非難されたのであろうか。
 ただそんな事を考える余裕は、絽の固い帯を解く直弼の頭には無かった。
「そうかもしれない。が、そうでないかもしれない」
 口早にそういい、指で塚田の唇を撫ぜた。
 見上げる恨めしい顔は、芙蓉のように婀娜っぽい。
 肌蹴た浴衣の影から、桃色の乳首が現れた。指で弾くと、小さな声が漏れる。
「ん」
「ただ事でないというのは、こういう事を云うのさ」
 細く筋張った手や、低い喘ぎ、暖かな体温、眼鏡の奥の冷たい視線。
 薬にも幻覚作用があるものがあるが、それと似ている。
 塚田は麻薬だ。
「乃村さま……」
「名前で呼びなさい。芳哉」
「ぅ……」
 青年は白魚のような指を噛んだ。眉間に少しの眉を寄せる。ぬるぬると直弼の指を湿らせていく。
 部屋の湿度が高まっていく。
 丁度その時である。
 ひんやりとした冷気が直弼を襲った。
 庭に何かの気配がする。
 この書院に向って庭を造ったのだから、この背後の座敷を抜けなければ、庭には出られないというのに。
 団扇の向こうの一尺の隙間。
 緑青に繁る松の中に、白い影が一つ。
 直弼は慌てて、塚田の上から退いて、葦戸に手を伸ばした。
 庭の手水鉢の脇には、白い日傘を差した女の姿。
 白昼に柳の下にといった按配。庭に生えているのは松であったが。
 絹の日傘から現れた面妖は婦人。
「お前ぇ……」
 尋常でない直弼の行動に、塚田が怪訝に眉を寄せる。
「どうなすったんですか、庭に何か……」
 塚田の涼しい声に引き寄せられるように、聡子は縁側につつと寄る。
 白練に秘色で金閣が書かれた友禅の訪問着が、どこか空恐ろしさを引き立てる。
「聡子。何時帰って」
 直弼の女房の名を聞くと、塚田は慌てて、着物を手繰り寄せる。
「御新姐で」
 囁く塚田に、直弼が頷いた。
「あら塚田さん。おいであそばせ」
 聡子は莞爾と、葦戸の透き間から笑んだ。
 青年は眼鏡を探しながら、慌てふためいて、浴衣の胸元を繰り上げる。
「あらあら、せわしないこと。しなしなとやんまし。そんままにしなさって」
 日傘の影でくすくすと笑う。全く音が無かった。何処から入ったというのだろう。
 背筋にぞっと悪寒が走る。それと同時に汗か何かが噴出した。
「お前、何も言わずに庭に立っているから亡霊かと」
「あら、お人が悪い」
 聡子の笑いすら空々しく聞こえ、心地悪い。
「美奈子はどうした」
「置いてきましたよ」
「お前ぇだけ帰ってきたんか」
「ええ。ぐずるもんですから」
 塚田はずれた眼鏡をなおす。顔は土気色だ。霊にでも当てられたようだ。
 直弼の浴衣もぐっしょりと濡れている。
 何を知っているというのか、聡子はくすくすと笑っている。
 夫の不義を察して帰ってきたのであろうか。音もなく、するすると霊のように。
 その瞳の奥に何が映っているのか、直弼には計り知れなかった。

 

 女とは実に恐ろしきもの。魔物にも似たり。



       (終)

作者のホームページへ「それほど歴史ものではないですが、かなり読みにくいので」
...2006/8/4(金) [No.322]
akino
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