誘われるままに靴を脱ぎ、パープルの年季の入った絨毯の上に歩を踏み出す。 グランドピアノが一台に、ホームセンターでイチキュッパで買ったようなテーブルに、安居酒屋にある緑の丸椅子が二脚。 それがその10畳ほどの部屋のすべてだった。 観葉植物も絵画もない。 殺風景という文字を、具現化したような部屋だ。 どうぞと勧められるままに椅子に座り、出されたコピー用紙に住所などの必要事項を記入しながら奥の給湯室でかれが淹れてくれた茶を飲む。出がらしの緑茶だ。 繊細そうな見掛けによらずものごとにあまり頓着しない性格なのかもしれない。 「あ、饅頭。よかったら」 手渡すのを忘れていた牡丹餅を渡すと『どうもわざわざ』とかれは礼を述べた。 『須屋』の桔梗紋が印字された包みを解きかれは『いただきます』と牡丹餅を手に取った。 景気よく口に運び『あ、うまい』と驚いたように言った。 お世辞などでもなく、かれがちゃんと思ったことを口にしているのがよく分かった。 素直な人なのだろう。 「友坂さんはどうしてこちらの教室を?」 牡丹餅をひとつ食べ終え、かれが問う。 「趣味が、なかったもので」 記入を終えた用紙を渡し牡丹餅を手にしながら、和義は続けた。 「それに」 言いかけて、迷う。 素直に言えばひくかもしれない。 しかし嘘や駆け引きはあまり得意ではないことを自覚しているので、躊躇いは捨てた。 「小野田さんの弾くピアノの音が気になったので・・・」 「私、の?」 怪訝そうに眉間にきゅっとしわを寄せるかれに和義は頷いた。 「ええ、毎週聞いてました。水曜日は、早帰りの日なんです」 そして和義は一節、歌った。 「ちゃーららーちゃーらら、ちゃーらーららーらー」 「音痴ですね」 ずば、とかれは言って笑った。 和義は思わず笑ってしまう。 やはりとても素直な人だ。 音痴は自覚しているから和義は人前では絶対に歌わない。 「キャンプファイアーソング。先週弾いてた曲。帰宅途中6時過ぎくらいに聞きました」 「ドボルザークの『新世界』」 知りもしないのに『それそれ』と頷いて、和義は続けた。 「その曲が・・・・・・すごく、寂しそうで」 「で?」 真意を測りかねたようにかれは先を促した。 和義は言った。 「窓辺であなたを見ました。やはり、すごくかなしそうだった」 「・・・だから?」 「とても、気になりました。たぶん、おそらく、惚れたんだと思います」 「あなたは、ゲイなんですか?」 眉間のしわを深くしながらかれは恬淡と問う。 声に動揺も嫌悪もない。 慣れているのかなと思った。 この容姿だ。 散々「その手」の人種に言い寄られて辟易しているのかもしれない。 「いいえ」 和義はきっぱりと答えた。 「偏見はありませんが、同性が気になったのははじめてです」 「そうですか」 かれは言った。 その声は静かだった。 嵐の前の静けさかもしれない。 追い出されるか、と和義は覚悟した。 かれはすぅと息を吸い、そして吐いた。 向かいに座った彼は組んだ両手を、そっと解いた。 そして言った。 「私は、ゲイです」 「はぁ・・・」 和義は曖昧な返事を返した。 「リアクション、しないんですね」 かれがまっすぐにこちらを見てくる。 真意をすべて写し取る魔法の鏡みたいに澄み切った目だ。 「『感情不感症』と言われたことがあります」 「そうですか」 かれは頷いた。 「友坂さんは、私が好きなんですよね?」 「おそらく」 「私をからかっているのではなく」 「何の得になりますか?」 答える和義をまるで揶揄するかのように、かれはかたちのいい唇を持ち上げた。 「私がゲイで、友坂さんは私が好きだということは私たちの間に恋愛感情は成立するということです」 「そうなりますね」 しかし、とかれは言った。 微笑んだまま。 さみしい声で。 「私は、人を、信じません。人を信じないということは、恋愛を成立させることができないということです」 ・・・ですから、余計な期待はしないでください。 そう言ったかれのこえは、やはりとてもかなしい声だった。 伺い見る横顔はとても静謐だった。なにかを諦めきった人の顔だった。 そしてかれは二冊の楽譜を取り出した。 そして声の調子をがらりと変えて、悲しい表情すら払拭し、事務的に彼かれは言った。 「それでも通われれるのならばこれを履修していただきます。ドレミは分かりますか」 「ドレミくらいなら」 「練習曲の教本と、あとクラッシックを簡単に引けるようにアレンジした教本があります。どうされますか」 「通います」 かれは一瞬虚を突かれた表情をしたが、しかしすぐに笑顔の仮面を装着した。 「ならば、教本はこの二冊で。レッスンは来週の水曜。お仕事はこの時間ならば通えますか」 「はい」 和義は頷いて、そして『では来週の6時半ごろ』と言って立ちかけるかれに手を伸ばした。 指先はかれの唇の端に触れた。 かれが身をこわばらせるのが分かった。 和義は微笑むと、指先でかれの唇の端に付着した粒餡ひとつぶを拭った。 和義は一瞬逡巡して、しかしすぐさまそれを舐めとった。 かれの硝子をはめ込んだような目に動揺が走り・・・そして、それはやはり瞬時で消えた。 「どうも」 かれは言った。 「いいえ」 和義は、答えた。 では、来週水曜に。 かれは静かな声でそう言った。 その声に送られて、和義は二冊の教本を抱えて飾り気のない教室を出た。 外はすっかり暗かった。
指先を見る。 餡を拭ったとき、わずかに触れたかれの唇のやわらかさが、熱を持ってあざやかによみがえった。 そっとそれを唇に持ってゆく。 間接キスだ。 我ながらムッツリである。
・・・かれは自分はゲイだとカミングアウトした。
そして恋愛はしないと言った。 自分は、完全に拒絶された。 だいたいゲイだということ自体フェイクかもしれない。 しかしかれがゲイだというほうがむしろすんなり納得できる。 女性を組み敷くかれなど想像できなかった。 むしろ誰か、男の体の下であの美しい体を開き、悩ましく身悶えさせるかれのほうが腑に落ちた。
そしてネットで電子ピアノを注文した。
その日の夢は、とてもかれに話せるような内容ではなかった。 ひさびさに下着を中学生の頃の夢精のときのようにばつの悪い思いで洗った。
仕事から帰ると、ピアノを弾いた。 たどたどしく。 しかし懸命に。 水曜毎、6時半から1時間のピアノレッスンは始まった。 かれはおそらく優秀な音楽教師なのだろう。 あるいはヨコシマ心から教室に通ってくる、初対面から告ってきた男に対する線引きか。 かれは徹底して「教師」だった。 指が「寝て」しまうときだけ、かれの細い冷たい指がそっとそれを矯正した。
「卵が入る形にキープ。5度目です。きをつけて」 「すみません」
そんな応報が繰りかえされた。
かれの指に触れたくて3回に一回は故意に指を寝かせた。 かれもそんなことには気づいていることは分かっている。 かれの指が自分の指に触れてくるとき、かれの指が過度に緊張していることなどお見通しだった。
課題をクリアすると、繊細な指が繊細な字で日付を書き入れた。
『よくできました』
という桜の形を模した小さな判子を押してくれと頼んだら、日付の押してくれるようになった。
出会って三ヶ月たった。
練習曲集とクラッシック曲をアレンジしたビギナー向けの教本は日付と赤い判子が余すところなく押された。 最初は拒まれていたレッスンの後のお茶・・・和義が懲りずに毎回毎回一人では食べきれない量の饅頭を買ってくるので・・・もいつのまにか慣習になった。 ひたすらかたくなに沈黙を守り通そうとするかれとのお茶の時間、他愛ない会話が三往復することもしばしば。 上出来だった。
しかし、と和義は思う。
自分はゲームに興じているだけかもしれない、と。 人なれない綺麗な猫を手なずけるという難解なゲームだ。 そしてゲームに勝てば行き着く先は、ひとつだろう。 しかしいざ、本当にそうなったら、自分は夢の中でしているようにかれを抱けるのだろうか。 あまりにかれに触れることがないから皮膚感覚としてそれを鮮やかに想像することができないでいるのだ。 かれを誰かに奪られるという危機感がない。 だからあえて体を繋がずともよいと思うのだろうか。 一緒にいられる時間の緊張感に満ちた充足感で、和義は満足している。
しかし、触れたいとは、思うのだ。
確実に出会った頃よりかれを好きになっている。 しかしそれは一個の人間としてか。 性愛の、対象としてか。
・・・自分でもよく分からない。
よくある寓話。 欲を出しすぎて、なにもかもを喪う。 それだけは嫌だ。
水曜だけ、しかも二時間に満たない時間に部屋に二人でいて、時々試すように指を寝かせてみる。 かれの指には、そのたびに触れることができた。 そして自分の指に触れるたび確実に緊張しているかれを知ってゆく。 お茶の時間、前より百倍は表情が柔らかくなったかれに気づく。
かれは自分はゲイだと言った。 しかし恋愛はできないと言った。 かれは最初に自分で線を引いた。
しかしときどき妙に熱っぽい目で、伺うようにこちらを見る日が、ある。
そんな時、どうしたらいいのか分からない。
手を伸ばして引き寄せれば、なにかは確実に変わるのだろう。
それが新しい関係の糸口になるのか、それともなにもかもを破壊しつくすのか。
手を伸ばしていいのか、わからない。
わからないから、怖くて、なにもできない。
だが錯覚してしまうのだ。 水曜毎、誰もいない部屋でふたりきりでいる。 横たわるのはたどたどしいピアノの音だけ。 5往復に満たない会話。 外からの乱入者もいない。 互いにうかがいあう目。 触れあうたびに緊張する指、そして全身。
沈黙の世界はあまりにも閉塞的だ。
だから、錯覚してしまうのだ。
自分とかれしかいないから、かれを自分のものにできてしまっているのだと。
水曜にかれに会うためだけに生きているような錯覚さえ覚える。 あの水曜日のピアノ教室の世界だけが真実で、すべてが虚、に感じるのだ。
自分は彼が好きだし、かれもおそらく自分を好きだろう。
ならばかれを引き寄せるべきだろうか。
時々。
・・・かれもそれを望んでいると思うのは、都合のよすぎる思い込みだろうか。
ここには確かに正しい回答がない。 閉塞感は心地よくもあり、そして息苦しくもあった。
「その先」に手を伸ばしていいのか。 それともいけないのか。
お互いが、「答え」を求めて迷走している。
そして疲弊しはじめている。
最初に動いたのは、かれだった。 出会って5ヶ月目の12月の最終週だった。 「今月いっぱいで、教室を閉めます」 いつものように静かなレッスンの後のお茶の時間だった。 「辛夷の花が、枯れました」という事実をただなぞるだけの口調で静かにそう言ったのだ。 「そうですか」 和義は答えた。 葛餅を掬う木製の匙を摘む指先が震えた。 不甲斐なさと、憤りと、悲しみが胸の中でごちゃごちゃになった。
理由を聞く権利もない。 週一回、水曜日のみの、二時間足らずの時間のピアノレッスン。 かれはその時間だけ出会う人。 かれにはその他の日は、会わない。 かれの素性は一切知らない。
教師と生徒という関係は確実だが、この関係には名前がない。 血族ではない。友人ではない。恋人でもない。 約束のない、関係。 離れたら、もう二度と会えないだろう。 黙したままの和義を、静かな熱を帯びた色素の薄い美しい目が、掬うように見つめている。 長い長い沈黙が落ちた。 和義は言葉を捜しては、その言葉を叩き潰した。 言葉など、こんなとき気持ちの1/100も表現してくれやしない。
なにも、とかれの唇が動いた。
声に出さずに。
・・・・・なにも、聞かないんですね。
かれはそう言って、笑った。 うつむいたかれの目から涙がぱたぱたと落ちた。 泣きながら、かれは笑っていた。
かけるべき言葉はなく、その身体を抱きしめることもできずに和義もただうつむき続けた。 膝の上で握り締めた拳はみっともなく震え続けた。 「お元気で」 見送りに出てきたかれに、それだけ言って逃げるように教室を去った。 教室を出ると、すっかり夜だった。 12月の夜の空気はぴんと冷たく、それが肌を刺すようで逆に心地よかった。
ことば。
ふたりでいるときには、まるで必要のないものだった。
小曲を弾く。 時々指を、寝かせる。 すると緊張したかれの指がそっと触れてきてそれを正した。 黙ったまま和菓子と、茶を飲んで、他愛ない話をした。 話などどうでもよかった。 一緒にいられる時間が少しでも長くなれば、それでよかったのだから。
大きな勘違いだった。 和義は、立ち止まった。 今すぐ戻って、問おう。 何故、と。 聞く権利などどうでもいい。
『聞きたい』
強い感情が和義を突き動かした。 和義は踵を返して駆け出していた。 全力で走るなど、高校生のとき以来だった。 吐く息は白く息づいた。 たどり着いたピアノ教室の電気は一切落とされていた。
チャイムを鳴らす。 何度も何度も。
しかしかれは、出てこなかった。 住居はここではないようだった。 かれは、もう帰ったのだろう。
二度と、もう会えない。
答えのない主の去った暗い部屋の静けさはとても空虚で、和義の胸の中そのもののようだった。
後悔というものは、いつだって先にたたない。
悄然と引き返す帰路、闇夜の中につつましく咲く山茶花の白い花がぼぅっと涙で滲んだ。
かれが去って、一ヶ月が過ぎた。 電子ピアノは押入れに。 部屋には酒瓶が転がる。 この一ヶ月の間にかれの消息を探して暇を見つけては散々歩き回った。 消息はまったくつかめず。 カワハ音楽教室の本部に問い合わせてみた。 驚いたことにかれの教師としての登録はなかった。 電話口で対応していた人が女性から役職のありそうな男性にかわり、『このかたと、なにかトラブルでも』と問いかけてきた。『違います』と答えると男性は黙秘とはぐらかしを繰り返した。こちらも必死に問いを繰り返したが回答は同じ言葉の繰り返しだった。業を煮やして電話を叩ききった。
『・・・・・・なにも、聞かないんですね』
うつむいてそういったかれの姿が、何度も何度もフラッシュバックした。
ことば。
そんなものは、無用のものだと思っていた。 しかし大切なものだったのだ。 大切な。
何故、あのとき、聞かなかったのだろう。
かれは、話したかったのだ。
後悔に埋没したまま、往生際悪くかれを探し続けて3ヶ月目だった。 介護福祉業者への支援費の新システムの欠陥の補填に終電の日々が続いた。 家に大量の仕事の持ち込むことも増えた。 忙しさはかれを刹那の間忘れさせたが、時間の隙間にいつも思い出していた。
そんな日だった。
メールが来たのだ。
差出人は『小野田洵』。 震える指でメールを開いた。
かれからのメールだった。
カワハピアノ教室に入会した際書き入れたシートに書かれてあったメールアドレスを使用させてもらったと丁寧な言葉で詫びた後、かれの言葉は、はじまっていた。
そこには何故、ピアノ教室を突然去ったのかという経緯が書かれてあった。
かれは、カワハの会長の家の住み込みの家政婦であった母親の息子だったこと。 家政婦というのは名目で、カワハの会長と母親は関係を持つようになったこと。 カワハの現常務である会長の息子と、13歳の頃からずっと愛人関係にあったこと。 東京藝術大学のピアノ科に行かせて貰ったし、ジュリアード音楽学院でも学ばせてもらったが結局自立は許されず希望したピアニストの道は断念せざるを得なかったこと。 だがピアノはそれでも捨てきれず、週一回だけの約束でピアノ教室のクラスを持たせてもらっていたこと。 カワハの常務の海外赴任に伴って、つい先日までNYにいたこと。
そしてかれのことばは、こう結ばれてあった。
『結局、私は母を嘲りながら母と同じ道をたどり、28になる今日まであのひとの世話になり続けていたということです。血は争えないということでしょう。あのひとから逃れられないものだと、ずっとあのひとの庇護の下で生きていかねばならないのだとあきらめきることで自分をたもっていました。 しかしそれは私の弱さだったのです』
・・・かれは、現在はカワハの家から離れて、ひとり安曇野にいるという。レストランやホテルでピアノ演奏者としてなんとか生活しているということ。生活は安定してはいないが、とても充実しているということ。
最後に、こう記されてあった。
『言葉はいくら発しても届かないものだと、諦めていました。 あのひとへの拒絶の言葉も、意思を伝える言葉もいつだって届かなかった。 しかし私はいま、自分の足で歩き出すことによって自分の言葉を得ることができました。 だから最後にどうぞつたえさせてください。 あなたのことが好きでした』
・・・・・・過去形かよ、と和義は笑う。
泣きながら、笑う。
メールの最後の一文。
『あなたに、会いたいです』
和義は、立ち上がった。 部屋着であるジャージも着替えず、キーケースを掴み、財布と携帯をポケットに入れ、突っ掛けを履きアパートの階段を降りる。 駐車場へと走り、車に乗り込む。
・・・・・・いますぐ、会いに行こう。
そして伝えられなかった言葉を、すべて言おう。
『俺も、あなたが、好きです』
和義は生まれてはじめて、全力で自分から人へと向かってゆく。
伝えたいという、強い熱い希求を持って。
高速へと向かう道に走る車たちのテールランプが、まるで星の海のように、見えた。
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