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 (公務員×美人ピアノ教師 /ほのぼの/愛しい/--)
水曜毎(前)


「だからね、ここは障害福祉課。2565。年金課はね、2556。あ、いえ、違うんです。にーごーごーろく。違うんです。ここは『障害福祉課』。年金課は、にーごーごーろく。にーごーごーろく。・・・あ、はい。いえいえ、いいんですよ。じゃあ電話転送しますね。はい、はい、はい。はーい」
電話を年金課に転送して一息つく。
「18分」
隣のデスクの中西がノートパソコンのキーボードをリズミカルに叩きながらぶっきらぼうに言葉を投げてくる。それはここは年金課ではなく障害福祉課である、という説明に和義が要した時間だ。「年金課に繋がっているはずだ」とそのおじいちゃんはねばったのだった。交換を通じさせずに直通で架かってくる電話にこの間違いは多い。4月に異動で本庁に赴任してからもう9本目だ。そしてすべての対応は和義がやっている。はじめて赴任した南区役所の市民課窓口で鍛えられたのは聞くスキルだし、和義自身も話すより聞くほうが好きだから苦にならない。着任2年目に赴任した東区役所での固定資産課の家屋資産係(新築の建物の税金を決める係りだ)ではいかに安普請かと訴える人の必死の苦しすぎる弁論術もにこにこと、あるいは神妙に、だがいずれの場合もただ黙って聞いてきた。
自己主張など、とんでもない。
世間の影に隠れて地味に生きて生きたいのだ。
いさかいも真っ平だ。
そんなパッションがあったら、コンパにだって積極的に参加している。
係長試験だって受ける。
戸外に、一戸建ての家を建てる。
それが、なんとなくの目標だ。
収納する家族の予定が、まるでないにもかかわらず。
「さすーが、ジジババキラー」
お互い27歳だが、中西は最近出てきた腹を気にしている。
『痩せてた頃はオダジョー似』と本人は主張しているがフレッシュマン交流会で会ったときも、すでに林家こぶ平に似ていたと思う。いくらなんでもかけはなれすぎだ。
えと、だいたいいまはもう「こぶ平」ではなかったんだっけなあの人。
襲名して偉くなったんだよ、林家・・・・・なんだっけ。
うん。ショウゾウだ。正蔵。
電話を終えて一息つく和義がすっかり冷えたコーヒーを口に含みながらぼんやりとどうでもいいことを考えていると中西はデスクの上に置かれた「ヘルシアウオーター」をごく、と飲んで椅子ごと和義のほうに向き直った。中西はこのところ「アミノダイエット」より「ヘルシア」シリーズがお気に入りだがフライものばかりの弁当は残さず食べるし食堂でだって麺類にせよごはんものでもなんでも大盛りだ。
ダイエット成功の秘訣は運動と食事制限だと思うのだがそもそも中西はこの基本二項目を満たしていないのだから痩せるはずがない。
「キラーって」
和義が笑うと中西は作成し終わったグループホーム支援費の予算表のデータをCD-ROMに落としながら帰宅準備を始めた。
「キラーだろー。俺だったら2分でキレるって。ホント、友坂は寛大ー」
中西の軽い声のBGMで総務課からの放送がキッチュな音楽に乗って流れてくる。
中西の言う「寛大」が褒め言葉ではないことぐらい和義にも分かっている。お人よしは自覚している。生来の性格だから変えられるものでもないし、別に変えようとも思わない。
『今日は定時退庁日です。すみやかに作業を終え・・・』
毎週水曜日に朝夕流れるその放送に応えるはずもないのに中西は毒づく。
「分かってるってばよ。だったら仕事量をもっと減らしやがれってんだ。だったらクジゴジで帰るっての。オイ、友坂よ。今日『丸よし』だ」
『丸よし』とは居酒屋の名前だが和義は首を振る。
中西は『了解』と片手を挙げると斜向かいのデスクの大林に声をかける。
定時退庁日の日は割合中西の音頭で居酒屋へとシマの連中で繰り出すが和義は滅多に行かない。赴任当初はつきあいをかねて行っていたが家系のせいかアルコールにはめっぽう弱い。しかも飲めない酒を無理に無駄に飲んで肝臓を痛めつけることもないし酒をが飲めないので憂さ晴らしにはならない上にウーロン茶では盛り上がれないので場が盛り下がる。だからなるべく遠慮している。しかし飲み会の席自体は嫌いではない。

公務員といえども本庁になると区役所時代の九時五時出勤・帰宅とはいかない。平均帰宅時間は民間よりは速いとは言え23時過ぎ。19時を回ると節電のために電気が落とされるので大変だ。デスクライトと液晶の明かりでどうにか仕事はこなしているが視力は下降の一方。目がいいのがとりえだったのに、それを急速に失いつつある今日この頃だ。次に自慢できることは『虫歯が一本もない』ということだろうか。なんとかという俳優に似ているとよく言われるがその俳優をしらないし、かっこいいだの顔がいだのと言われても実感が伴わないので『自慢』としてもカウントしていいのか分からない。
趣味がこれといってないので「自分の時間」を持ってもこれといってすることはないのだが、最近は過去の連ドラをツタヤで一気に借りてきてビールを飲みながらそれを見るとはなしに見ている。侘しい余暇の過ごし方だが前の彼女である柚香に振られて二ヶ月だ。いまのところ恋愛はしようと思わないし、とくに必要ないと思っている。我ながら枯れている。
つまらない男だと思うが、仕方がない。
人より感情の温度が低いのだ。要するに淡白。
ふられる原因はいつもこれなのだ。
よく言えば『クール』。
悪く言えば『つめたい』。
これも生来の気質だ。あきらめている。
べつにどうこうしようという気もないが。
総合リハビリセンターでの車椅子バスケット大会のトーナメント表をとりえず保存して和義も帰宅準備にはいる。

最近、ささやかな楽しみがあるのだ。

ある音が聞きたいのだ。

水曜日は、早く帰れる。


和義は学生時代からの下宿にずっと住んでいる。
しかし最近だ。
毎日通る坂道の頂上にある大手ピアノ会社が経営する音楽教室から流れてくるピアノの音がとても気になり始めたのは。
そこは築15年くらいの普通の家の一階で開業しているごくごく普通のピアノ教室だ。
定時に退庁して坂をゆっくりと登りつめると、いつも聞こえる。
この前の週は『トロイメライ』だった。
知っている曲でなんとなくうれしくて、一曲終わるまで坂の天辺にじっと立っていた。
ピアノの和音は、美しいものなんだなと始めて思った。
毎週水曜日のその日にピアノを奏でる人が作り出す音が好きなのだ。
和義は勝手に想像していた。
ピアノを教えているにはやわらかいパーマがかかったロングヘアの、保母さんみたいな雰囲気のやさしい女性だろうと。
なにせその音はとてもやわらかくて、やさしくて、あたたかい。
それは、胸が震えるほどに。
音が、身体をやわらかく、つつみこむほどに。

ナイロンバッグに携帯などを収納しながら今日はどこの饅頭屋に寄ろうか考えた。『定時退庁日』が義務付けられている毎週水曜日は、帰宅時に和菓子屋に寄るのが最近の習慣となっている。甘味王選手権に参加するほどでもないが、和義はとても和菓子が好きなのだ。
酒も飲まない。賭け事もしない。女遊びもしない。俗に言う「飲む・打つ・買う」もたしなまず趣味はこれといってない。強いて言えば饅頭屋巡り。『趣味』欄にあえて書くならこれしかない。同世代の男より確実に饅頭のデータストックはあるはずだ。
今日は老舗和菓子屋の『玉水』に寄ろうと決め、立ち上がり職員IDカードタイムカード代わりのカードリーダーに通す。『お疲れ様です』と気のない声で言うと『おつかれー』と障害福祉課の職員10数人が答えるが誰もこちらは見ていない。

『玉水』に寄り栗きんつばを5個購入する。
地下鉄でT駅で降り、暮色に染まりつつある行きなれた坂道をのろのろ登る。
梅雨の合間の7月の空は6時を回ってもまだ十分に明るく空気は湿気を含んでのたりと重い。
坂の上にたどり着く。
空気は、音を孕んでいた。

お、と立ち止まる。
水曜の楽しみだ。
少し目を閉じる。

ぽーんぽぽーん・ぽーんぽぽーん・ぽーんぽぽーんぽぽーん。

単音で奏でられるその曲は、小学校の下校時間に流れていた曲。
あとキャンプファイアーのときに歌った定番ソングだ。
正式名称は、知らないが。
ノスタルジックな気持ちになってきんつばの紙袋を手にしたまま和義はじっと立ち尽くした。

とーおき、やーまに、ひーはおーちてー。

和義は小さく口ずさんだ。

ほーしーは、そーらをー、ちりばめぬー。

この曲を聴くと『帰らねば』という強迫観念に駆られる、という友人がいたが和義は好きだ。
懐かしむほど美しくはないがそれなりに楽しかったこどものころの記憶がよみがえる。
しかしこんなにさみしい曲調の歌だっただろうか。
奏でられる単音は黄昏の空気に繊弱なちからで刻印しては拡散してゆく。
黒い色の絵の具を黒く塗りつぶされた画板にぽつん、ぽつんと、撒き散らすような音だ。
これでは友人の言っていた言葉が理解できてしまう。
このキャンプファイアーソングは、別にさみしい曲なのではない。
音がさみしいのだ。
どうしたのだろう、と思ってしまう。
毎週聞いていると、愛着がわくものだ。
隣家の犬の元気がないと、なんとなく気になるのと同じだ。
勝手な想像の中ではやさしげな美人ピアノ教師でるはずの女性の身に何事か起こったのだろうか。
失恋でもしたんだろうか。
それでそんなにかなしい音を、遠いさみしい記憶をたどるようにたどたどしく弾くのだろうか。
和義は気をもみつつも、立ち尽くす。
できることは、なにもない。

音がやんだ。

そしてトケイソウの蔦の絡んだ石塀の上の窓にピアノの弾き手が現れた。

和義は『息を飲んだ』。
文字通り、息を飲み込んだ。

美人だ。
若い。
細い。

夕日に照り映える白い顔は繊細な造作で、切れ長の大きな目は色素が薄い。
捲り上げた淡い色のシャツから伸びたしなやかで細い腕が自分を抱きしめるように頼りなげに窓辺に立っている。さらりとした少し長めのやはり色素の薄い髪がその美貌に美しい影を添えていた。

黄昏の空を眺める表情は、あきらかに憂いていた。

哀しみの閾値をそこに見た気がして、和義の胸もせつなくなった。
『感情不感症』と大学2年の頃に8ヶ月だけつきあった元・元・元カノに評された自分がだ。

そして、現れた窓辺の君は、男だった。
華奢で、非常な美人だが、男女の判別ぐらいつく。

和義は立ち尽くしていた。

かれはとても、綺麗だった。
本当に、綺麗だったのだ。
憂い顔、鎖骨のくぼみや伏せたまぶたや細く長い睫毛といった細部すら。
そしてなによりその雰囲気。
本当にきらきらした人間というのをはじめてみた。
このシーンがもしも少女マンガなら(妹が買っていたのを暇つぶしに「見た」ことがある)花をしょっていたり、人物の周りにシャボン玉みたいなものが描きこまれていたりしたりするんだろう。

そんな体験は、人生で例のなかったことだった。

和義は数分、見つめてしまっていた。
魅入られて、いた。
美人ピアノ教師(男だが)の美貌には憂愁の色がよく似合った。

似合う。
似合うが、気になる。

かれは何故、あんな表情をしているんだろう。

和義はたっぷり10分は棒のように立ち尽くし、そして夢から醒めたように歩き出す。
そして考えた。
ずっと、考えた。
考えても分かるはずがないのだが。
しかし考えてしまう。
自分の心さえ分からないのに、人の心などいわずもがなである。

なのに。

一週間考え続けた。
忙しいが慣れてしまって単調な仕事を黙々とこなしながら考えた。
家に帰ってからも考えた。
帰る途中にはあの坂の上の電気の消えたピアノ教室の前に少しの間立ち止まった。
そして自分の心が名前も知らないあの窓辺の君(男だが)に吸われてしまっていることに和義自身は一週間後の水曜日に、ようやく気づいた。

もしかしたら、自分は、あのひとに惚れたのかもしれない。

27年生きてきて、片手に数えるほどにわずかだが恋愛はした。
さすがに男との恋愛経験はない。
だが偏見はない。
中高一貫の男子校だったからそういう連中はいるにはいた。
世の中にいろんな人はいる。
恋愛や思考は各人の自由だろう。

しかしその些か少ない恋愛経験において、自分から告白したことはない。
そして自分から別れを告げたこともない。
だから失恋の痛みというものに、覚えはない。


誰かに『関心をもつ」という感情自体がはじめてだった。
会ってみよう、と、和義は思った。
誰かに自分から向かってゆく、ということもはじめてだった。
何故こんなにあのひとが気になるのか。
・・・・・知りたいと思った。
とても。

ただ、知りたいと。

水曜日。

和義は坂の上のピアノ教室の前に立っていた。
今日も音は、こぼれている。
先週のように単音ではない。
奏でられている旋律は、どこかで聞いたことがある。
ただ曲名は知らない。
こんなことならクラッシック名曲選のCDを買っておくべきだった。
だがいつものようにしんしんと心に染み入ってくる、なにか悲しいことをせつせつと小声で訴えるような物悲しくて、高雅な調べだ。

そして、かれの音だ。

かれのつくりだす音の粒子が、身体に浸透してゆく。


『カワハ音楽教室 生徒募集』
看板には、ちゃんとそう書いてある。
年齢制限などは、ない。

それをしっかりともう一度確認してサルビアのプランターが無造作に並べられた石段を登る。
手には『須屋』の牡丹餅の包みを抱いている。
ここの牡丹餅は日本一だとひそかに思っている。
粒餡は至極控えめな甘さなのだが、それでいてほのかに余韻が残る。
もち米の歯ごたえは絶妙。
両者の調和もじつに、いい。
大きさは割りと大振りだが3個は普通にいけるだろう。

階段を登りつめて、ネクタイを締めなおし、チャイムを押した。

どきどきと待つ。

反応は、ない。

痺れを切らしてチャイムを5回鳴らすと、ようやくドアの中の気配が動いた。
そして一週間片時も想わないことがなかった窓辺の君の細い手が薄く扉を開いた。

隙間から色素の薄い目だけがこちらをまっすぐに見据えている。
虹彩がくっきりしていて、睫毛がとても長い。
色素が薄いので儚げな印象だったが、映す光は気が強そうな色をたたえて煌いている。
凛とした目だ。
そして、とても綺麗な目だ。

間近で見るその目に、見蕩れた。

しかし剣呑な声の第一声が和義の鼓膜をぴしゃりと打つ。
耳に心地いい艶やかなアルトだが、不機嫌色が「これでもか」というほどめいっぱいにじんでいる。

「・・・新聞なら、まにあってます」
「新聞じゃなく」
「宗教の勧誘ですか。うちは代々曹洞宗です。特に熱心な信者ではないですが特に不自由もしていないので特に改宗の意思もありません」
「宗教でもなく」
「なにも買いませんよ」
「物売りでもありません」

のらくらと答えた後、名詞を差し出した。
不機嫌に矢継ぎ早に話す人には穏やかな口調と、笑顔だ。
2年間の『区民相談窓口』経験が役に立った。

「××市役所社会福祉部障害福祉課主事 友坂和義」

名詞を棒読みして、美人ピアノ教師は実に不審そうに和義を見た。

「・・・オヤクショ?脱税はしてませんよ」
「それは、管轄が違います」

そう答えて和義はにっこり笑った。

「入門、希望なんですが」
「ひやかしですか。うちは道場じゃありません」
「ひやかしじゃありません。だから、ピアノ教室への、入門」
「・・・にゅうもん」

和義の言葉を反芻して、かれがはじめて笑った。
くくく、という喉の奥を鳴らすような笑い声はやっぱりとても耳に心地よく和義は、うっとりしてしまった。
「にゅうもん・・・。まぁ、用法はおかしくはないのかもしれない」
笑いを収めてかれは微笑んだ。
やっぱり、背後にお花が飛んでいる。
そんな幻覚を覚えさせるほどに間近でみるかれの笑顔は美しかった。

「どうぞ」

優美な仕草で手を上げて、かれが入室を許可した。
先にたってゆくかれの背はすんなり伸びてやはり美しかった。
後頭部の形までもがいい。
美しい人、というのは存在するのだ。

ぼんやりかれの背中を目で追っていたら、かれが唐突に振り向いた。

「申し送れました。私は小野田と申します」

そう言ってピアノの上から名刺を取り上げ、渡した。
和義はそれを押し頂いた。

『カワハ音楽教室 小野田洵』

心をつかむ音の奏で手の名は、おのだまこと、というらしい。
「あれ・・・路線が違う・・・。脱線どころか目指していた方向の逆に・・・。」
...2006/7/29(土) [No.316]
タカ
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