○男が自分の中に収めた熱く猛々しいものから充足の証を迸らせた。 そして自分も達した。
もういったい何度目だろう。 数えることは放棄した。 男が求めることは際限を知らず、自分もまた何度でも求めてしまう。
荒い息を静めようと、そして恍惚と崩れた自分の顔を見られたくなくて、自分は男から背を向ける。 柔らかな寝台にくたりと身を横たえ、情事の余韻を反芻する。 あれだけ交わったのに、身体の奥が甘く疼いた。 満ち足りた笑みを薄く浮かべながら、目を閉じて、息を整える。
そしてこの背に向かって、男は言う。
相も変わらず。 いつものように。
ラノー。 静かな声で。 ラノー。 熟れ切った果実に、さらに砂糖と蜜を絡めた甘い甘い声で。
あいしてる。
・・・・・また!
自分はくすくすと笑ってしまう。 おかしくて。 認めたくないが、うれしくて。 背中を折りたたんで笑い続けると、むせて咳き込んだ。 男の大きな手のひらがゆっくりと火照って汗ばんだ背中を撫でた。 それは愛撫のようにやさしくて。
自分はうっとりと目を閉じる。 眠りに落ちる自分の耳に、男はあきもせず繰り返すのだ。
ラノー。 ・・・・・・・・・あいしてる。
自分は無言で回された力強い腕に子猫が甘えるようなしぐさで頬を摺り寄せる。 笑みが自分の顔に浮かんでいるのは気づいているが、認めたくない。 背中に感じる拍動も力強い強い胸に全身を預けたまま、充足した眠気がかぶさってくる。 まどろみの中、蜀台の灯りの元、ゆるゆると手をあげて右手の中指に嵌められた指輪をぼんやりと眺めた。
やがてひとつの国の王座を継ぐはずだった卑しからざるこの身が、男妾同様の屈辱的な扱いを受けるようになってもう5年だ。
毎夜、この男は自分を抱く。 5年間、一日も欠かさずに。 今夜も長い間、抱かれた。
唯一自分の持ち物といえるのは5年も前に滅びた王家の代々の当主が受け継ぐトパーズの指輪だけ。 自分が持つものはなにも、なにもない。 唯一の所有物のであるこの指輪自体にさえ、たいした価値はない。 ただ自分のなけなしの矜持と、郷愁がそれに執着させている。 それだけだ。 自分でも分かっている。 もう、そんなものはまったく必要ないものなのだと。 国は無残にも滅ぼされた。
だが散々踏み散らかされた亡国の灰燼の中からは、熾火があがっていると物騒なうわさを聞く。 つまり、亡国の民たちの蜂起だ。 しかし、そんなことはどうでもいい。 復讐など、もう、必要ない。
この男の首などいつだって掻き切ることが、できるのだ。 いともたやすく。 自分さえ望めば。 文字通りこの男の、寝首を。 無用な血など、一滴も流さずに、この手で。
この男だって文句のひとつも言わずに、自分にその命を与えるだろう。
すぅと目を細め、深い寝息を立てて隣で眠る男の精悍な頬から顎を指でたどる。 指先に伝わる、その力強い命の脈動。
この男は、自分の国を滅ぼした。 自分を男妾にした。 自分は男の求めるままに、毎日脚を開いて男を迎え入れる。 自分はまごうことなき、卑しくみだらな男妾だ。 そして国を失わせ、自分を女のように扱うのは他でもないこの男だ。
毎夜自分の隣で無邪気に眠る、この男。
指は男の喉をたどり、その唇にたどり着く。 指を押し返す弾力に小さく微笑む。 呼吸の温度に安堵感を覚える。
誰かにこの男を殺させるくらいなら、この手で殺してやりたいと、強く深く願っている。
この男は、一国の王だ。
この男にはたくさんの国を消滅させ、併合させるたびに大きくなっていった先代から引き継いだ白亜でできた広大で豪勢な後宮がある。 そこには何百人もの、植物性や動物性の爛熟した甘い香りを漂わせた、白粉でその貌を美しく塗り、歓心を得ようと身に纏った豪奢で官能的な衣服で装った美しい女たちがいる。 光をはじく金髪や、闇を吸って瞬く黒髪の女。 青い目、緑の目、杏仁型をした黒曜石いろの目を持つ女がいる。 白い肌の女も、小麦色の肌の女も。ありとあらゆる女がいる。 それも選りすぐりの。 略奪されたのか、あるいは自ら望んだか、女たちはそこにひしめいている。
それなのにこの男はこの5年、飽かずに自分のもとに渡って来るのだ。
女が嫌いなのかと思ったがそうでもないらしい。 ほかに美しい男を囲うかといえば、そんな気配もない。 この5年の間、自分だけだ。 他の女、あるいは男と関係を結べばすぐにその肌に移った残り香で分かる。
この男からはなにも香らない。 立ち上るのは、情事の最中、思わずすがりついてしまう広い背中や自分を揺さぶり上げるときに飛沫のように飛び散る汗と、自分のなかに吐き出される白濁した熱い液体のなまなましいにおいだけ。 その他はない。 男はかおりを、まとわない。
この男は情事のあと、決まって囁く。
あいしてる。
他所者の自分だって、5年もいれば知っている。 「特別だ」ということを現す言葉だ。
だから自分はおもうのだ。
・・・もしも、この男の優しい腕が、自分を抱くときのように他の人間の身体を優しく抱いたならば、そのときこそ自分は惑うことなくこの男の寝首を掻こうと。
それまで、命を預けておいてやる。 お前になにもかもうばわれたが、最期の生殺与奪権を握るのは自分だ。 この自分だ。
その役目は、誰にもやらない。
・・・・・・・・やりはしない。
それだけは、おれのものだ。
唯一のものだ。
おれだけの。
●はじめてあの青い目を見たとき、たましいすべてを吸われた。 こんなに美しい色が、この地上にまだあった。 北の静かな湖、深い海の底、空の果て、山の頂の花、貴石といわれる石。 それらのどこを探したって、こんな青はなかった。 それを見た瞬間、胸裏に閃光が駆け抜けた。 それは歓喜に似ていた。
色のない自分の世界にはじめて添えられた色。 それはきらきらと美しい、唯一の青だ。
忘れやしない。 あれは、恋に落ちた日。
あの目に出会ったのは5年前。 滅ぼしたある小国の玉座の間だった。 燃え落ちた城の中、ひとけのない薄闇の中、すすけた石造りの長い廊下を歩いた。 静寂は青て空気の振動すらなかった。 ただ軍靴の立てる音の反響だけが規則ただしく、重く響いた。
自分はある人物の生死を確認しようとしていた。 それがかれだった。
かれは、梁の落ちかかった円形の天井を有する残骸のような玉座の間に凛然として立っていた。 薄あおい光を受けてかれの長い銀髪があわく輝いた。
玉座の間の両開きの扉を開くと、かれはこちらを睨み据えてきた。 この自分をしっかりと映した青い炎を吹きそうな生まれたばかりの星のようにきらきらと輝くその目に浮かぶのは、明瞭過ぎるほどにはっきりとした憎悪だった。 いっそ快いほどの。
殺せ!と凛然と澄んだ声がそのほそい喉から発せられた。 その声にもひきこまれた。 その声は、希少で美しいが、触れたらさらさらと砂のようになって崩れてしまう脆い宝石のようだった。 緊張にぴん、と張り詰めたその声には烈しい怒りがあった。 耐えがたい恥辱にこまかく震えていた。 そして隠しがたくにじむ、かなしみがあった。
自分は、左手を差し出していた。 右手は長剣を握っていたから。 無意識にだ。
触れたかったのだと思う。 けして殺したくなどなかった。
ようやく得た、青だ。 ・・・生きた、色彩。 そしてかれを中心に同心円状にくらやみのなか、色彩が満ちてきた。 それは瞠目すべきことだった。
自分の世界にこれまでに、色彩が存在したことなどなかった。 すべてのものは、曖昧だった。 不確かなものの中、生きてきた。 それでいいと、思っていた。 かれは自分に向かって伸ばされる手をとろうとはしなかった。 美しい青い目が一瞬信じられない、というように、ゆらいだ。
しかしそれらはほんの瞬時だったのだ。
立ち尽くしていたその華奢な体が、意外な敏捷さで跳ね、典雅な舞の最初のステップを踏むようにうごいた。 そしてその身体は自分が握る長剣の切っ先を、迷うことなく目がけた。 まるで臆することのない、潔く滑らかな動作だった。 細すぎる肩を抱き締め、自分はそれを押しとどめた。 身体は全力で抗った。 しかし自分はしっかりとだきしめて離さなかった。
この青を、喪えるか。
互いに必死の力だった。 動けぬと悟ったのか、にらみあげてくる青い目から涙が散った。 『離せ』、と涙を落としながら、とても弱い声でかれは言った。 薄闇の中、涙までがきらきらとして小さな宝石のようだった。 嗚咽を漏らす唇を、自分はそして、ゆっくりと吸った。 驚愕に見開かれた青い目は間近で見るとますます澄んで深い色をしていた。 美しかった。
逃げを打つ身体に拳を叩き込み、自分は崩れ落ちたその華奢な体を陣営へと抱きかかえてかえった。 かれこそが、投降の呼びかけにただひとり応じなかったこの国の嫡子のラノーだった。 本来ならば殺さねばならなかった。 しかしそれは嫌だった。
はじめて恋した相手を殺せるはずなどない。
囲うことにした。
国に連れ帰って、”女”にした。 そして夜毎愛した。 はじめは抵抗ばかりしていた固くこわばった身体は、夜を重ねるごとに薄い花弁の白い花がわずかづつ開いてゆくような様子で自分を受け入れ始めた。
うれしかった。本当に、うれしかった。
ほんとうに、かれを、いとしいと思った。
あいしている、と囁くとラノーはその潤んだ青い目をうっとりと半分だけ開いて微笑むのだ。 そのしぐさはまるで受諾されているようで、自分も満足して繰り返す。
ラノー、あいしてる。
あいしてる、ラノー。
あいしてる。 あいしてる。 あいしてる。
狂おしく繰り返すと、ラノーはくすぐったそうに笑う。
その顔を見ていたくて、そしてもっとこの言葉を言いたくて自分は繰り返す。
自分は器用ではない。
一生に愛せるのは、きっとひとりだけだ。
おそらく生涯でこの言葉を与えるのはこの峻烈で気高く脆い魂と、この世で一番美しい青の所有者にだろう。 もっとも、ラノーから、同じ言葉を貰ったことはない。 けれどいいのだ、それで。 この気持ちはもはや一方通行ではないことを、自分は既に知っているのだから。
自惚れだろうか?
確証などどこにもない。 恨まれているという確証ならば、いくらでも列挙できるというのに。
・・・・・・・・・だが、それでもいい。
青。
かけがえのない、この世で唯一の、確かな存在。
・・・・・・この存在を喪ったとき、自分がどうすべきかも、とうに知っている。
愛しているのだ。
腕の中でラノーはその双眸を閉じて、静かに眠る。 朝がこればまた見えるその青。 閉ざされているその瞬間はひかりにみちた蒼穹は厚い黒雲に隠される。 汗で額に張り付いたラノーの細い銀の髪をなで上げながら、自分は胸中で呟く。 ラノーを起こしたくはなかった。
・・・・・・・はやく、その青を見せろ。
わずかに笑んで眠り込むラノーの薄桃色の耳朶に、小さな声であまく囁く。
お前がいなければ、この世界から、たちまち色という色が消えうせる。 一度知った色彩に満ちた世界は、あまりにも美しすぎた。
ひとつ、決めていることが、あるのだ。
灰色の世界に戻るくらいなら、いっそ。 確かなもののない不安定じ揺らぐ薄あおい海のような世界に漂うように生きるのならば、いっそ。
・・・・・いっそ。
小さく微笑み眠るラノーの髪に、頬に口付ける。
いっそのこと、夢の中まで、ともにゆけたらよいのに。
どこまでも、ともにゆけたらよいのに。
|