夏の気配は吹き始めた夜風に押し流され、ゆっくりとその温度を下げていく。
吹きゆるやかに伸びる橙色の飛行機雲を見つめ、遠野は人知れずほほ笑んだ。 ほほ笑んだといっても、鉄面皮で知られる遠野の面にはさしたる変化はない。 …よほど親しい人間が見れば、その目がやさしく弛み、細められた事が分かるのだろうが、そもそも人付き合いを得意としない遠野にはそのような相手がいない。 …隣を歩く青年以外には。
遠野の隣を歩く件の青年は、先ほどからふてくされたような気配をはりつけたまま、口を開くことなく傍らを歩いている。 涼しげな藍染めの着物を身に着け、手にはアイスの棒。 とうにアイスは食べ終わっているのか、棒はすでにからからだ。 対する遠野の服装はといえば、薄手の綿のワイシャツに黒いスーツの上下という、およそこの田舎町には似つかわしくない服装。 年以上に落ち着いて見える容貌に黒ふちのめがねまで加わり、どこかの営業マンといった様相だ。
…日が沈みかけた後の田舎の夜は思いのほか早いもので、既に視界一面に人の気配はただのひとつもない。 両腕の方向には、さらさらと葉を揺らす水田。 さらにその向こう側に橙色に染まった山々がある。 空に目を向ければ、先ほど遠野が見つめていた飛行機雲ははるか彼方でゆらりと解け、形を失いながら夕日の色に解けていくところだった。
かつ、かつと遠野の靴音だけが響く。 隣に立つ青年の足には下駄が見えるが、足音はまったくたつことがない。 そしてもうひとつ、遠野にはあって彼にはないものがあった。…足元に伸びるはずの影が、ないのである。
それもそのはず。 人の姿をしているが、彼は人間ではない。正体は狐神の化身である。
…遠野の家は、代々この村の宮司を務めている。 そのため、一族のものは強い霊感をそなえ、その力で村を清め、守る事を生業としていた。 特にそのなかでも強い力の持ち主には、守り神が憑くこともある。…今の遠野のように。
「…あーあ、つまんねぇ」 青年がようやくつぶやいた。苦々しいといった様子だ。
田舎の道路は区画が整理されていないこともあって、無駄に狭かったり無駄に広かったりするものだ。 この道は後者にあたる。 軽々と車2台が擦れ違えるだけの道幅があるのも手伝って、遠野と青年の間には数歩の距離があいている。 風が声を若干流しはしたのの、その声は遠野にもきちんと届いた。
「なにがだ」 「もう一日終わっちまう」
いかにも遊び足りないという様子でふてくされる青年に、遠野が思わず失笑した。 軽く遠野よりも何十年かは余分に生きている割に、彼はどうにも子供っぽいところがある。 いままで一言も口をきかなかったのは、やはりそのせいか。 気づかれないように笑ったつもりが、付き合いが長い彼にはばれてしまったらしい。
足を止め、くるりとふりかえったその顔は、美人が台無しといった様である。
「あ…てめえ笑いやがったな!」 「…悪いか。よく分かったな。」 「当たり前だろ、お前が悪いに決まってる! 大体お前、遊びに連れてくとか何とか言って、ただの土地浄化の手伝いさせやがって…! 結局全然遊べなかったじゃねえか!」 「連れて行くのも仕事ついでだといっただろう。だからしかたあるまい…代わりに」 といって遠野はまたくすりと笑った。 「わざわざリクエストに応じてアイス奢ってやっただろ?」 それも高い、ハーゲンダッツを3本もだ。
うっ、と相手は言葉を詰まらせた。しかし気を取り直したのか、乾いたアイス棒を真っ直ぐ遠野に突きつけてくる。
「あたりきだ!あれだけこき使いやがって・・・正当な報酬だろが! しかも仕事がついでだったんじゃないのかよ、仕事が!こっちは遊ぶ気満々だったのに話が違う!」
むきい、と音を立てそうな勢いで、わずかに吊り上がった目が遠野をにらみつけてくる。 青年の薄茶の髪がさらさらと吹き始めた夜風に流され、形のよい顔回りで散った。 狐というよりは、丁度美しい外来種の猫を思わせる。 …口は悪いが、見目はとてもいい。造作に頓着のない遠野でさえそう思う。 完璧すぎる容貌は恐れの対象にさえなりかねないが、こうして表情が崩れると、人形じみた顔がとたんに生き生きとみえるものだから不思議だ。 誰のものでもいいわけではなく、彼だからいじってみたくなる。ただの悪趣味とも言うが。
「いくらなんでも約束破るなよな!! 今日という今日は絶対に夏祭りにまでいって遊び倒すつもりだったんだ…久しぶりに外に出れるから楽しみにしてたのに!」
たしかに外出は久しぶりだった。 遠野も、最近は当主を務めている父親から、当主見習としてさまざまな雑務を任されるようになっている。 おかげで学生時代とは違い、おいそれと外に出ることさえままならなくなってしまったのだ。 遠野に憑いている状態の狐神は、遠野と常にともにある。 要するに遠野が外にでれないということは、狐神も外に出られないということ。 もともとが出不精の遠野ならばともかく、じっとしていることが何よりも嫌いな彼には、どうしようもないとはいえ耐えられたものではない。 遠野もそれはよく分かっていた。 だからこのくそ暑いなか、わざわざ外回りの仕事をあてがってもらって、狐神ともども外に出ることにしたのだ。遠野にとってはぎりぎりいっぱいの譲歩である。 ただし…遊ぶと約束をした覚えはまったくない。
「決して嘘はついていないぞ。…外に出れるぞとは言ったが、遊びに行くとは言ってない。」 きっぱりと遠野はかえしてやった。 そのにべもない一言に、今の今まで大声でまくし立てていた青年はあんぐりと口を開けたままに絶句。 …数秒もしないうちに、憤怒の形相で顔が真っ赤に染まる。 「んな…っ!」
そんな顔もなかなか見栄えが良いと見えるのは、果たして遠野の頭がとうにやられているからなのか。
(とはいえ、いい加減機嫌を損ねすぎるのもよくないな) もう少しからかいたかったような気もするが、それはまたの機会にしようと遠野は決めた。
「…百藍(びゃくらん)。」
遠野が、名を呼ぶ。ひくり、と白い喉が鳴った。
「悪かったな。」
そういって、遠野は指を伸ばして青年…百藍の頭をなでてやった。 さらさらした髪をくしゃりとかき回すと、悔しそうに目許をゆがめて百藍がうめく。撫ぜられた頭を抑えてよろりとあとじさった。 名前を…真名を呼ばれるのに弱いのだ。 いつも「お前」としか呼ばれないからこそ尚更に。 名前は呼ばれたものを縛り、支配する。百藍にとって遠野は文字通り、主なのだ。もっとも簡単で、かつ強力な術に縛られてしまっている。
「卑怯ものめ・・・!」 遠野からの「悪かった」、の一言で許してしまいそうになるのは、名前を支配されているからだと分かってはいても、百藍にとってはあまり面白い事実ではない。 大体遠野にしても分かっていてやっているのだ。だからこそ始末が悪い。
「仕方あるまい、それを主に選んだのはお前だ。」 「う…っ。」 「悔しかったら俺の名前を手に入れるんだな。…そうすれば俺がお前に支配されてやってもいい」 さらりと遠野がかえしてやると、百藍がむっとした様子で切りかえした。 「だったら勿体つけずにさっさと下の名前教えてくれりゃいいじゃんか!」
そういった百藍の言葉に、一瞬遠野がまじめな目をする。
ゆっくりと一度だけ瞬き、そしてふっと微笑む。 やはり他人には分からないかもしれないが、百藍はわかる。穏やかな笑顔だった。 あまりの変化に、百藍のほうが驚く。
「昔一度だけ教えた。百藍…お前が思い出せばいい。」
わずかに目を眇めて遠野がつぶやく。また、くしゃりと頭を撫ぜられた。 やさしく、丁寧に。 いつにない所作にはっとして百藍が目を見開くと、次の瞬間ばちんと額で音がした。
「あでっ…!」
思わず額を抑える。額に一瞬火花が散ったような。
デコピンだ、と気づいた時、遠野はすでに歩き出していた。 楽しげな忍び笑いが聞こえてきて、百藍は頭を抑えたまま、悔しげにうなる。
「くっそー!またやられた…っ!」
沈んでゆく夕日と、翳っていく景色の中、百藍のふざけんなーという絶叫がこだまのように響いた。
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