宮村哲生はいつもと同じように、その日も駐車場へ向かっていた。 週末の夜だ。32歳会社員。勤続10年。妻もいなければ恋人すらいない。そしてその予定もない。だけどこれまで寂しいとか人恋しいと思ったことはない。郷里を離れて大学を出てそのまま就職活動で最初に内定を貰った会社へ就職をした。月曜日から金曜日まで勤めて、休みの日は一人で愛車に乗って適当な場所へドライブへ行く。無遅刻無欠勤でこれまでずっと、日々を過している。 今日は金曜日。酒を飲むことなくまっすぐ家に帰って食事を取って風呂に入る。日付の変わる時刻に、近くに借りた駐車場へと歩いていると、煙草の自販機の脇に一人の男が酔い潰れたのか座り込んでいた。 宮村は煙草を嗜まない。だから、そのまま通り過ぎようとしたが、彼が両手の肘から手首まで包帯を巻いているのを見て、ぎょっとして立ち止まってしまった。めちゃくちゃな巻き方で、まさに現在進行形で片手と口で片方の腕に包帯を巻きつけようとして、肘の辺りでもたついている。酔っぱらいではなくて、何かおかしい薬でもやってるんだろうか。通報は市民の義務だ。宮村は少し距離を置いて男の様子を伺った。 何度も失敗して疲れたらしく、男はようやく諦めて右手を押さえて動きを止める。そして、宮村を見た。 見られた、と思ったのは宮村の方だ。実際には男は顔を上げただけなのだから。しかし、男と目が合うと時間が止まったようにその場に縫い付けられてしまった。暗闇に、長く色の薄い前髪。そこから透ける視線の強さに目が離せない。男は微かに笑むとゆっくりと立ち上がった。 「あの、申し訳ないんですが、」 見た目の硬質さとは程遠い、柔らかい声質。詫びを入れるような言葉に、それほど自分は不躾な眼差しだったろうかと戸惑う。 「あ、いや、こちらこそすみません。じろじろ見てしまって」 「いえ、そうではないんです。お願いがあって」 「……は?」 くすりと笑みを孕んで男は宮村を少し眩しげに見遣った。 「上手く巻けなくて。手を貸していただけませんか」 腕を投げ出される。幅の広い、ところどころ薄汚れた白い包帯が、外灯に青白く照らされる。 「病院で処置された方がいいのではないですか?」 恐る恐る近寄ると、男は今度はにこやかにはっきりと笑った。 「怪我じゃないんですこれ。願掛け」 「願掛け……?」 怪訝に反芻すると、男は細い指でたどたどしく肘を曲げて捩れた包帯を緩める。二の腕のしなやかな筋肉を美しく思った。 「右利きなので、左手はどうにかなったんですけど、どうしても右手が」 困った様子に手を差し伸べたくなったのは、男の様子が意外にも真剣だったからかもしれない。 「自分はあまり器用じゃないんですが……」 それでもいいならと断りを入れると、男は本当に嬉しそうに目を細めた。思ったよりも若いのかも。宮村が包帯を巻いている間、男の髪から微かな甘い香りがした。普段の宮村だったら忌々しく思う今時のちゃらちゃらした若者の見た目なのに、不思議と彼にはそういった反感を覚えなかった。丁寧な口調で印象がよかったからかな、と分析する。 「本当に、ありがとうございました。これ、仕事の物で悪いんですけど良かったら使ってください」 きっちり巻き終えた充足感の最後に手渡されたのは、詳しくない自分でも直ぐに分かる有名なブランドの箱。 「キーケースです」 いらなかったら他の人に、と言われても受け取ることはできないと思った。こんな高価なものはいらない、君の感謝の言葉だけで充分だ。返そうとしたが彼はかたくなにそれを拒む。 「あ、迎えが来たから」 BMWの上位クラスが乱暴なブレーキ音で止まる。こちらこそ申し訳なくて受け取れない、とお互いに譲りあって暫く。 「申し訳ないと思うなら、この電話で、僕を呼んでください」 名刺と一緒に箱を宮村に押し付けて、その車に乗って去ってしまった。
土曜日、宮村は悩んでいた。 結局昨日は彼から受け取ったキーケースが気になってドライブへは行かず仕舞いだ。受け取った名刺を日がな一日眺める。 『Member's deep throat MIZUKI』 これと、電話番号だけ。 新手のボッタクリだろうか。メンバーズとあるから、飲み屋か何か。それにしては店の住所の記載が無いのは不思議だ。それに、あのBMW。フルスモークだった。 「絶対に、カタギの人間じゃないよなあ」 ベッドに寝そべりながら、名刺をすかして見つめる。それに。箱を開けて中を見てみたら、ブランドのイメージは少し違って落ち着いたデザインのしっかりとした作りのキーケースだった。 「いくらするんだろう」 一週間か、下手したら一か月分くらいの食費の値打ちはあるのかも。初対面の人間にこんなものをくれてやるなんて水商売は余程景気がいいのだろうか。いや、逆だろう。金持ちほどけちと決まっている。若者の癖に、願掛けと言う古風なことを口にする男のことが気にかかっていた。 それに、あの視線。 彼の目を思い出すと何故か落ち着かなくなるのだ。きついようでいて、柔らかい。学生ではないと思う。だが、社会人とも遊び人とも思えない落ち着いた雰囲気。その癖にまるで野良猫のようにあんなところで座り込んでいて。 その日もドライブに出かけることなく、宮村は部屋で一日を終えていた。
そして、日曜日。 「驚いた……」 自分の部屋に、ミズキを迎えている。電話をしてから自宅に来るとは思わなかったので急いで片付けたが、まだ散らかっている部分もあり宮村は落ち着きをなくしていた。 「まさか、ほんとに呼んでくれると思わなかった」 こっちこそ驚いたと、にこりとミズキが笑って座っている。一昨日と違って長袖の黒いシャツを着ていたが、2つ開けたボタンから覗く鎖骨が眩しい。 「あ、あの、君は」 「僕は出張ホスト。男性向けの、ね」 片目を瞑って告げる口調と内容のギャップに、宮村は本当に驚いていた。何を言っていいかも分からない。 数時間前、迷いに迷って電話して、ミズキを尋ねた。電話に出た人間は芸人かと思うくらいに調子が良く、お客様、貴方は運がいいですよ!いつもだったらミズキは日曜日休みだけど、たまたま、たまたま空いているので直ぐにそちらへ向かわせますねーと捲くし立てられれ、聞かれるままに住所を言ったらこの通りだ。 「男性が、男性のホストだなんて……」 座ったらどうですか?と手の仕草で勧められてベッドに腰を下ろしても、宮村はまだ状況が把握できなかった。 「お客様は、同性愛者の方が多いですけどね。そうでなくても、ただお話をしたり。サービス業ですから。お客様の望みのままに」 さらりと同性愛と言われて、宮村は唸った。男性を、そういう対象で見たことはない。欲望を覚えるのは女性に対してのみだった。それでも誰でもいいというものではない。清楚で可憐な好みの女性だったら裸体でなくても興奮するのだ。だが、金銭を介してそういった欲望を発散させたことは今までにない。 「時間を報告しないと店が心配するので。60分でいいですか?」 続く金額に、まぁ2,3回分の飲み代と思えばと了解する。店に連絡するミズキの姿に、自分はこの人間を買ったのだと。少なくとも時間の限りは望みのままに。ミズキの言葉を思い浮かべてこれまでに無く気分が高揚していた。 「指名が入っているから、60分できっちり上がってこい、だって」 「君は人気者なんだね……」 「そんなんじゃないけど、呼んでくれるのは、すごく、嬉しい。宮村さんに会いたかったんだ」 真正面から見つめられて、どぎまぎする。 「ほら、あれからちゃんと、ずっと巻いてるよ。宮村さん、力強いね。すごくしっかりなんだ」 袖をまくってミズキは楽しげに笑った。手首から腕までの、幅の広い包帯。色が少しくすんでいる。 「そういえば、願掛けって言っていたね、何の?」 「ダメー」 ミズキが笑いながら人差し指を宮村の唇に当てる。座ったまま、にじり寄ってくる。 「願掛けは、言ったら無効になるから、言ったらダメ」 言葉をとめて、ミズキの細い指が自分の唇をなぞるのに、頭の中で危険信号が灯る。踏み切りの遮断機のような。口にチャックするような動きをするミズキの指を手に取った。そのままミズキが顔を近づけて指を絡めてくる。 「言ったらダメなんだよ」 チュ、と指の背に口付ける。 まだ、大丈夫。今だったら。 なのに、唇の薄さと柔らかさに惹かれて、その指をそっと中へ押し込んでしまった。ミズキは抗わない。目を伏せて指を受け入れて口に含む。僅かに顎を傾げて奥まで吸い付くミズキの切なげな眼差しを見ている内に、カンカンと信号が警報を発して轟音が頭の中で大きく反響していく。
気がつくと着衣を下ろされて陰茎をミズキの口中深く突き入れていた。 音を立てて彼はそれを受け入れて舌で舐め上げる。宮村は押し倒されるようにしてぴちゃぴちゃと響くミズキの舌技にただ、喘いでいた。ここまでツボを付いた愛撫は無かった。ただ、物体としての刺激だけだったら、手で扱けば射精はできる。女の膣はまだ心地よい。だが、熱い舌で裏筋やカリ首を強く辿られて、喉奥深くまで吸い上げるような動きは生まれて初めてだ。 それになにより。宮村は手を伸ばしてミズキの前髪を梳き上げた。潤む眼差しで視線が揺れている。頬は強い吸引のせいで影ができていた。彼が熱い吐息を零しながら頭を前後し、両手で睾丸や幹の部分まで細やかに動かして刺激を与える。そのすべてが宮村を熱くさせる。腰を引いて突き上げると、軟口蓋から喉へと滑る感触が心地よい。自分の与えるままに、ミズキはすべてを受け入れる。その征服感に宮村は酔ったように達して迸りを注ぎ込んだ。ぴたりと密着してミズキは吸い上げる。断続的に吐き出す度に揺れる瞼が愛しい。強張る頬を撫でると、ゆっくりとミズキは根元から圧迫するように残滓を絞りつくして先端を音を立てて吸い上げた。 「飲まなくても、良かったのに」 汗ばんだ睾丸から根元を唇で吸いながらミズキは微笑んだ。 「だって、全部欲しかったもの」 自分の唇を舌で舐めて、ミズキが見上げていう。上気した頬が、可愛くて仕方が無かった。自分が彼を、そうさせたのだ。 「気持ち悪いとか言われるかと思った。だけど、すごく大きくなってくれて可愛かった」 まだ芯の残る宮村自身を指でなぞって言う。可愛いのは、どっちだ。急に恥ずかしくなって宮村は急いで下着を着て、しっ、と追い立てるように起き上がった。 「気持ち悪いって、どうして?」 手招いてベッドで横に座って聞くと、んー、とミズキが首を傾げる。その仕草に、自然に笑んでしまう。 「だって、宮村さん、男相手って、初めてでしょう」 「そりゃ俺はノーマルだから。あぁ、ノーマルだった、かな」 「ノーマルだよ」 ミズキは可笑しそうだ。 「そうかな」 「フェラはね、ノーマルでも抵抗なくやらせてくれるけど、それ以上はちょっとね、だって、僕に欲情しないでしょう?したら完全にこっち側かもしれないけど、宮村さんは違うと思う」 多分欲情してたさ。言えずに、何故と問う。 「宮村さんは、優しいから。僕がしたいように、させてくれたんだと思うよ」 「うーん。そうなのかな」 「うん。優しい」 「いや、そうじゃなくて。ミズキはしたかったの?」 「え?」 「したいようにさせてくれたって」 「あーー、それか。うん。だってね。結構高いお金貰ってるわけだし、できる限りしてあげたいじゃない。せっかく呼んでくれたのに。期待を裏切りたくないんだ」 「プロだね」 褒めたつもりだった。だが喜んだようには見えなかった。失言だったかとうろたえるとミズキは爽やかに笑った。 「宮村さん、本当に良い人だね」 それは違うと答えた。ミズキは主張するわけでもなく、その後は休みの日は何しているのという差し支えない互いのことなどを話しているうちに店からの連絡が入って、60分はあっという間だった。 「じゃあ、またね」 ひらひらと手を振ってあっさりとミズキは出て行く。 それはまた呼んでということだろうか。自分が呼ばなければ、彼は来ない。そして、キーケースのことも言い出せ無かったことに気がついた。だが、もうそれはいいだろう。自分は、ミズキの客だ。スタンスがはっきりして、それは宮村に落ち着きを与える。 ともかく、今週は宮村にとってこれまでとは違ってものめずらしい週末となった。ちょっとした変化だ。 来週のことを早くも考え始めていた。
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