「桑島さん、食いますか」
　すっかり人気のなくなった社内に薮内の声がして、伝票に集中していた桑島は椅子の上で文字通り飛び上がった。
「お前、まだいたのかっ」
「何言ってるんすか。俺が帰る前に桑島さんに挨拶しなかったことがありますか」
　隣のビルの一階に入っているコンビニのビニール袋からパンやら握り飯やらを取り出しながら、薮内は満面の笑みを浮かべた。伝票で一杯の桑島の机の上に一つ一つそれらを並べながら、説明していく。
「これはタマゴサンド、これは紅鮭です。桑島さん鮭好きっすよね？こっちはツナマヨ、これは―」
「そこに置くなよ、仕事出来ないだろ」
　呆れて力が抜けた桑島の隣の同僚のデスクから椅子を引き出し、薮内はどっかりと腰を下ろした。
「休憩しなきゃ駄目ですよ。集中力はねー、そんなに続くもんじゃないんですからね」
　母親のような口をきく後輩を睨みながらも、確かに腹が減ったと思い直して、桑島は紅鮭のおにぎりを手に取った。薮内が魔法のように取り出したペットボトルの緑茶を差し出す。オレンジの蓋のそれは、熱すぎるくらい暖かかった。
「こんなに紙の伝票処理しなきゃなんないなんて、前時代的なシステムですよね」
　椅子にふんぞり返って偉そうに足を組んだ薮内が、桑島の伝票を一枚手にとってひらひらさせながら言った。薮内の精悍な横顔を眺めながらそんなもんかな、と思う。桑島は新卒で入社したから、他の会社のことは知らない。営業先で目にすることや、友人から聞く話でまったく無知ではないけれど、社内的な手続きや書類に関しては矢張り自分の会社のことしか解らないと言っていい。
　そういう意味では、年下ながら転職組の薮内の言葉にははっとさせられる事もないではなかった。
「……俺はこれが当たり前と思ってるから、別に気になんないけど」
「桑島さん、痩せたんじゃないですか？」
　いきなり話が変わって面食らった。薮内は相変わらず伝票を次々手にとって眺めながら、桑島を見もせずに言った。
「働きすぎっすよ。課長にもっと仕事の割り振り考えてもらえばいいのに」
「人が足りないんだから仕方ないだろ」
　握り飯を口に運びながらそう言って、薮内が何も食べていないのに今更ながら気がつく。
「お前、食わないの？」
「だって、桑島さんのために買ってきたんすよ。も少し体大事にして貰わないと」
　薮内は嫌味なくらい爽やかに笑うと、伝票を一枚桑島の目の前に翳しながら、顔を近づけた。
「桑島さん」
「……はい」
　余りにも近い距離に、わけもなく居住まいを正して薮内の顔を見上げた。
「税込み金額が間違ってますよ」
　薮内はその伝票をデスクに戻すと、お先に失礼しまーす、と大声で言って、大股に出て行った。

　薮内は後輩ではあるが、態度がでかいので時々それを忘れそうになる。背は桑島より高いが、人並み以上なわけではないし、特別ガタイがいいわけでもない。
　二十五なんて、まだまだガキだとも思う。自分がその年頃の頃はそうは思わなかったが、三十になった今、薮内の年齢の後輩を見ると若いなあ、なんて思うことが多くなった。勿論、そういう桑島も更に上から見ればまだまだガキに見えるのだろうけれど。
　ガキのお守りなんて迷惑極まりない。そう思いながらも、何かと懐いてくる後輩が可愛くないはずもなく、薮内が入社して一年半、何かと面倒を見てやったはずが、近頃は逆に世話を焼かれていることが多いような気がしないでもない。
　中学高校とサッカー少年だったという薮内は、今でもたまに仲間内で試合をしたりするらしい。無駄な肉のない削げたような顔は、少年のような笑顔との併せ技で、女子社員の間でも結構人気があるようだ。その薮内がせっせと自分に握り飯を食わせている図と言うのも、おかしなものだ。
　そんなことをぼんやり考えているうちに、気付けばタマゴサンドも腹に収まっていて、また薮内にしてやられたような気分になった。桑島は伝票の山を睨みつけると、間違った税込み金額を退治すべく、訂正印をふりかざした。


　もう終電も行ってしまった。金曜日だというのに、疲れ切ってコンビニの袋をぶら下げて、悲しい三十路だ。
　桑島が会社のセキュリティシステムを確認してビルを出ると、人通りはすっかりなくなっていた。まだ繁華街には沢山の人が出ている時間だが、オフィスビルばかりのこの辺は、日付が変わった今の時間は閑散としている。
　体を引き摺って歩き出そうとすると後ろからクラクションを鳴らされて、桑島は今日二度目だが、またしても飛び上がった。振り返ると、黒っぽいワゴンの窓から、薮内の呑気な笑顔が見えた。
「お兄さん、俺とお茶しない？」
「何やってるの、お前」
　初めて見る私服の薮内は、年相応に若く見える。唇の端に煙草を銜えたまま、乗ってくださいよ、と言って助手席のドアを指した。疲れ切っているからもうどうでもよくて促されるままドアを開けて乗り込むと、いきなり発車し、物凄い勢いでUターンした。
「危ない運転するなあ、薮内……」
　桑島は慌ててシートベルトを締めた。薮内は鼻歌交じりにCDの音量を上げた。洋楽の結構ハードなロックが流れてきて、こいつこんなの聞くのか、とまた一つ発見をする。
「お疲れ様です。こんな時間まで大変でしたね」
「まあな。お陰様でひと段落したよ。……所でなんでお前こんなとこにいんの？」
　今更怪訝に思って訊くと、薮内は事も無げに言った。
「桑島さん送ろうと思って待ってたんです。一回家戻って車取って来ました」
　桑島は目を瞬いた。桑島の家は会社から電車を乗り継いで三十分以上かかる。確かにこの時間からタクシーに乗らなくて済むのはお財布にも優しく、大変有り難いが、金曜の夜に何故先輩を送るために会社に戻ってくるのか。薮内の考えることは全く以って理解できない。
「お前、俺の親みたい」
「ええ？」
　薮内は横目で桑島を見た。それは一瞬で、またルームミラーとバックミラーに目を戻す。
「飯食わせてくれたり、迎えに来てくれたりさ。先輩甘やかしても何も出ないぞ。課長にお歳暮ってんならともかく」
「だって楽しいんっすよ、桑島さん甘やかすの」
　薮内の低い笑い声が妙に男っぽくて、何故か心許ない気分になる。

「俺は別に後輩に甘やかされたくなんかないよ」
「知ってますよ、そんなの」
　薮内は運転席のドア側に取り付けた灰皿に煙草を捨てて左手をハンドルから離し、桑島の方に伸ばす。何か取って欲しいのかと何となくダッシュボードの辺りに目を向けたら、指が髪に触れた。
　薮内は、前を見て運転している。その顔も、姿勢も、どう見ても道路にあるもの以外何も眼中にないように見える。
　それなのに、左手だけが独立して意志を持っているかのように、桑島に触れていた。
　こめかみを、頬骨を、耳介から耳朶をなぞり、顎の線から首筋へ移る。うなじから後頭部へ移動し、また来た道を戻って、静かに髪を撫でる。
　乾いた指先が滑るように触れる感触に、思わず目を閉じた。指の動きそのものには、卑猥さも性的なものも感じない。それなのに、爪先から物凄い勢いで這い上がる奇妙なむず痒さに、喉が詰まって鳥肌が立った。どうしたいのか解らない。逃げたいのか怒りたいのか、薮内の顔を見たいのか見られないのか。動けないのは疲れだけのせいではなかった。
「―そんな、固まらないで下さい」
　目を開けると、薮内は前を見たまま言った。手が、名残惜しげに髪を軽く梳きながら離れてゆく。
「前に言ったでしょう、俺も撫でてみようかなあ、って。覚えてますか？」
　信号が赤になって、薮内がゆっくりとブレーキを踏んだ。前の車は黄色を突っ切って行ってしまい、車通りのない交差点には、薮内の車だけが蹲っている。
　何のことか思い出せない桑島のうろたえた顔を見て、薮内は笑った。常日頃見慣れた爽やかな、少年のような後輩の笑顔ではなくて、一人前の成人男性の笑顔。
「さ、そろそろナビして下さいね、桑島さん」
　信号が青になり、薮内は何事もなかったようにアクセルを踏んだ。ゆっくりと車が滑り出し、桑島はからからになった喉で唾を飲み下した。


「悪かったな、金曜なのに」
　アパートの前で車を止めた薮内にそう言うと、いいえ、と明るい返事が返ってきた。あれから、ごく普通に仕事の話などする薮内はいつもの薮内で、桑島も疲れた余り夢でも見たかと思い始めていた。
　薮内はハンドルに両肘を載せ、重ねた手の上に頬を載せて桑島を見た。
「桑島さんのためなら、例え火の中水の中、ですよ」
「持ち上げすぎだよ、お調子者」
　拳で肩を小突くと、薮内は喉の奥で楽しそうに笑う。細められた目に見つめられると、妙に居心地が悪い。こういうときはさっさと帰って寝るに限る。そう思ってシートベルトを外そうと捻った体の、左肩をいきなり掴まれた。驚いて見上げた顔の間近に薮内の顔があった。薮内が顔を傾け、耳元で呟いた。
「桑島さん」
「何だよ」
　殆ど聞こえないくらいの声で呼ばれて、我知らず脈拍が速くなる。

「―桑島さん」
「だから、―何だ？」
「桑島さん……」
　囁くように、耳の傍で何度も何度も名前を呼ばれる。
　ただそれだけなのに、頭に血が上ってまともに働かない。シートベルトにかけたままの手も、痺れてしまったように動かない。低い声で囁く薮内の唇が何度か耳朶を掠り、その度に体が震えた。


　いきなり肩を掴んでいた手が離され、薮内の囁く声が聞こえなくなって我に返った。
「ゆっくり寝て下さいね、疲れてるんだから。おやすみなさい」
　にっこりと笑う薮内に曖昧に頷くと車を降りようとし、未だシートベルトをしたままなのに気がついた。呆けた頭でそれを外して外に出る。桑島は車外の風の冷たさに心底驚いて立ち竦んだ。
　薮内が短くクラクションを鳴らして車を発進させた。大きい通りに出る前に一度ハザードを点滅させ、あっという間に走り去っていく。ぼんやりと赤いライトを見送る桑島に、深夜の冷たい風が容赦なく吹き付けた。


　桑島さん―。

　ただ名前を呼ばれただけ。
　他には何の言葉もなかった。それなのに、こんなにもはっきりと薮内の頭の中を覗いた気がするのは一体何故なのだろう。
　頭の中で、非常識だとか有り得ないとか、気持ち悪いとか。そんな当たり前の反応が喚いているのに、よく聞こえない。離れる直前に口付けられた耳は、麻痺したように感覚がなかった。
　指先までも、冷えて感覚を失うまで。
　桑島は呆然と、最早見えるはずのないテールライトを見つめたまま、佇んでいた。