井上涼紀。それがそいつの本当の名だ。しかし、そう呼ぶことができたのは高校時代まで。それから涼紀の苗字は計7回変わっている。 浅井、柏原、佐々本、田村、成田、浜、矢沢……。コンディショナーにまみれさせた指を涼紀の肛門内に挿入しながら、譲二はぼんやりと歴代の涼紀の苗字を頭の中に羅列した。 涼紀の小さなうめき声が、バス・ルームのタイルに反響して大きくうねる。譲二は構わず指を進めた。体液と血液の混ざり合ったピンク色の液体が、涼紀の太腿をつたって流れ落ち、緩やかなシュプールを描いて排水溝の奥に消えていった。 「馬鹿野郎」 震えている背中を掌で叩いて、譲二は冷ややかにいった。 「勃たしてんじゃねえよ。エロいことしてるわけじゃねえんだぞ」 「だって……」 涼紀は息を呑んで、残りの言葉を切った。四つんばいになった体の影で、未発達ともいえるようなペニスが反応している。 「しょうがねえよな。一週間男切らすことなんて、なかったんだろ。でも、我慢しなきゃ、今までの苦労が水の泡だぜ」 「そうじゃなくってさ……」 涼紀は床のタイルに頬を押し付けて、振り向いた。 「ジョージがつらいんじゃないかと思って」 「は? なんでおれが」 譲二は唇の端を歪めたが、掬い上げるような涼紀の視線を受け止めることはできなかった。自分のジーンズの股間が、涼紀以上に硬く張り詰めていることには、とっくに気づいていた。 「いいよ、おれは……」 伸びてくる涼紀の手を遠ざけるように、譲二は指を鉤型に曲げた。涼紀が体を強張らせる。 「なにがいいよだよ。こんなんで、できるわけないだろが」 案の定、涼紀の肛門内には、凝固した排泄物が詰まっていた。指で掻き出すと、兎の糞のようにぽろぽろと床に落ちた。 「力入れろよ」 「やだ……」 「今頃恥ずかしがってどうすんだよ、ほら」 息ませ、再び掻き出すという作業を繰り返しているうちに、涼紀が小刻みに股を震わせた。 「小便?」 涼紀が弱々しく頷く。譲二は涼紀の背中越しに手を回して、半勃ちのペニスに触れた。マッサージをするように上下に軽く扱くと、涼紀の唇の隙間から、湿り気を帯びた息が漏れた。その声を聞いたとたん、譲二の中でなにかが弾けた。 空いているもう片方の手でジーンズを下ろし、譲二は衝動のままに自慰を始めた。涼紀のペニスを擦り上げる手は止めず、同じ動きで自分のものを追い上げる。 「あ、出る……っ」 涼紀が喉の奥で叫び、微かな水音とともに放尿した。アルコールと生ごみの混じったような、麻薬中毒者特有の刺激臭は、もうほとんど消えている。同時に、譲二の手の中で数回膨張しながら、精液をも放出した。 虚脱した涼紀の体を離すと、譲二は涼紀の尿と精液にまみれた手で自身を握り締めた。限界はあっけないほど早くやってくる。膝を立て、高く掲げられた涼紀の臀に向けて、白濁を浴びせかけた。 「自分で小便できるようになったからな。あともうちょっとってとこだ」 乱れる息を必死に整えながら、譲二はファスナーを元に戻した。タイルの上にうつぶせた涼紀の全裸の体を起こし、抱き上げてやる。 乱れる息を必死に整えながら、譲二はファスナーを元に戻した。タイルの上にうつぶせた涼紀の全裸の体を起こし、抱き上げてやる。 「だいじょうぶか」 譲二の胸に頭をもたせかけ、涼紀は頷いた。体からは一切の力が抜け、譲二にすべてを任せているのがわかる。 「なんで?」 虚ろな声で、涼紀が聞く。 「なんで、ここまでしてくれんの」 譲二は苦笑いして、幼馴染の顔を見下ろした。 「じゃ、付き合ってくれ」 その言葉を聞いたときの涼紀がどんな表情をするのかは、顔を見なくてもわかっていた。返事を待つことなく、譲二は自嘲気味に笑った。 「冗談。気にすんなよ。おまえに迷惑かけられんのには、もう慣れた」 茶化すようにいいながら、譲二は頭の中で数えた。彼が親友に愛を告白したのは8回……いや、今のを合わせて9回だった。
譲二の部屋のドアがノックされたのは、一週間前のことだった。 顔を真っ赤に腫らし、傷だらけの体をぼろぼろの服で包んだ涼紀が目の前に立っているのを見ても、譲二はさほど驚かなかった。長い付き合いの中で、彼のそんな姿を目にすることは稀ではなかったからだ。 涼紀の苗字が変わるのは、べつに結婚だとか、養子縁組だとかのせいではない。女には一切興味がないのだから、当然といえば当然だったが。 涼紀は情熱的な男で、恋人ができると、そいつの苗字を公然と名乗る。戸籍上ではいまだに井上涼紀であり、苗字を変えるのは髪型を変えるのと同じ。単なる子供じみた遊びに過ぎないのだ。馬鹿げた趣向ではあるが、他人の目を一瞬にして奪う恵まれた容貌が、彼氏と自分の名を連ねたプレートを、同棲する部屋にいそいそと飾るようなうすら寒い行動をも、愛らしく見せていた。 それだけの美貌であるから、涼紀の周囲から男の影が消えることはなかった。しかし、涼紀の愛は燃え上がる勢いが激しいだけ、鎮火するのも早い。そしてその飛び火の被害を受けるのが、譲二の役目だった。 痴話喧嘩がエスカレートして、大怪我を負わされたり、別れ話に逆上した相手の男に監禁されたり、涼紀の恋愛にはとかく揉め事がつきものだった。そのたび、心身ともに憔悴しきった様子で譲二に泣きついてくるのだ。 それだけならまだいい。もっと悲惨なのは、そんな涼紀に譲二が心底惚れているということだ。それを知りながら、平気な顔で恋人とののろけ話や愚痴をこぼし、当然のように頼ってくる涼紀の神経を疑ったこともあるが、今ではすっかり慣れてしまった。そんな状態だから、涼紀の起こす騒動にも、譲二はほとんど驚かなくなっていた。 しかし、数ヶ月ぶりに会ったその日は、少し様子が違っていた。 「涼紀? なんだよ、どうし……」 いきなり抱きつかれ、戸惑った表情を浮かべたまま、譲二は硬直した。太腿に押し付けられる、間違えようのない熱の感触に驚く間もなく、唇を掬われる。何度も夢に見た、ねっとりとした舌の柔らかさ。没頭しそうになる自分をかろうじて押しとどめた。 「お願い、ジョージ」 引き剥がされまいと譲二の胸に必死にしがみついて、涼紀は懇願した。 「して。抱いて。欲しいんだよ。ほら、おれ、もうこんななの」 手を取られ、張り詰めた部分に導かれる。譲二が反射的に力をこめると、その衝撃だけで、涼紀は声を上げ、達した。 濡れたデニムの手触りを感じながら、譲二は愕然と涼紀を見下ろした。息が荒く、瞳孔が開いている。今いったばかりの股間が、瞬時に熱を取り戻していた。普通じゃない。 「ね、しよ、ジョージ。我慢できない」 熱にうかされたような声でいい、涼紀はもどかしげな手つきで服を脱ぎ捨てていく。半裸の体を密着され、耳元に湿った息を吐かれて、譲二の当惑は吹き飛んだ。 安物のパイプ・ベッド。男ふたりの体重を支えながら、しきりに軋んで悲鳴を上げている。自慰に耽りながら、何度も想像した華奢な体。すぐに溺れた。 「あっ……」 譲二の指が臀の割れ目に伸ばされると、涼紀は大きく体を震わせた。 「なんだよ、これ……」 譲二は錆びついた声で独白した。指先を締め付ける粘膜の熱さは、異常としか思えなかった。予感が想像に変わる。覚醒剤。白い結晶が涼紀の肛門に呑み込まれる。指を離すと、充血した粘膜が物欲しげに収縮した。想像が確信に変わる。涼紀は覚醒剤を使用している。 「涼紀」 焦れたように腰をくねらせる涼紀を見下ろして、譲二は震える声でいった。 「おまえ、新しい男できたのか? どんな奴なんだ、そいつ。そいつにエスかまされたんだろ?」 「どうでもいいじゃん、そんなの」 涼紀は答える代わりに、両腕を譲二の首に回し、しっかりとしがみついてきた。先走りで湿った先端を譲二の下腹部に擦り付け、自分から大きく股を広げる。 「おれ、もう、おかしくなっちゃいそうなんだよ。なんとかして」 泣き喚くようにいうと、涼紀は身を起こそうとする譲二を引き止めるかのように、そそり立ったペニスに唇を寄せた。 「すごく硬い……」 涼紀は陶然とした表情で、躊躇いもなく譲二のものを頬張った。すぐに舌を絡め、吸い上げる。 譲二は苦痛に顔を歪めた。表皮に歯を立てられたのだ。唾液不足による潤滑不能状態。それはすなわち、涼紀がすでに覚醒剤常用者……ジャンキーであることを示していた。 怒りや悲しみ、後悔といった感情が、渦を巻いて襲いかかってくる。瞼の裏で白い光が閃くのを感じながら、譲二は涼紀を突き飛ばした。震え続けている太腿を抱え上げ、はちきれんばかりに勃起したペニスを曝された粘膜に押し込んだ。 「ひ、あうっ、あ、あぁっ!」 譲二の手に支えられた太腿が痙攣する。侵入の圧迫だけで、涼紀は二度目の絶頂に達した。 「だ、だめっ、動いちゃだめ……あ、はあっ」 涼紀の懇願には耳を貸さず、譲二はいきなり激しく腰を使った。早くも昂ぶりつつある涼紀のものにも手を伸ばす。 「ああ、い、いやっ。ジョージ、やぁっ」 「涼紀……いいのかよ」 「んっ、いいっ……死んじゃう……死んじゃうよぉ」 燃えるように熱く濡れそぼった粘膜に包まれ、譲二もすぐに追い立てられた。技巧もなにもなく、無我夢中で突き立てる。 「す……ごい、すごぉいっ、おれ、またいっちゃうよぉ」 涼紀が泣き声を上げる。自分から譲二の腰に脚を巻きつけ、腰を振っていた。 「だめ、だめ……っ、も、いくぅ」 「いけよ、涼紀」 「ひぁ、ああっ、くる。くる……のぉ!」 叫び声を上げ、涼紀は何度目かの精を吹き上げた。ねじ切られるかと思うほどの強さで絞り上げられ、次の瞬間、譲二も涼紀の中にすべて吐き出していた。 「熱……ぅんっ、また……感じちゃう」 涼紀はすすり泣きながら、譲二にしっかりと抱きついた。 「もっと、して、ジョージ。もっと……あそこが熱くて、おれ……」
「なんだよ、熱いって」 「すみません」 思いがけず返ってきた返事に顔を上げると、コンビニのカウンターごしに、アルバイトらしい店員が肩を竦めていた。 「温めすぎました?」 「あ、いや。独り言です」 譲二は真っ赤になって、弁当の入ったヴィニール袋を手に、慌ててコンビ二を出た。 ぶつぶついいながらふたり分の食料を買い込む姿を見て、店員はどう思っただろう。譲二は沈んだ気分で、マンションのエントランスを抜けた。 馬鹿なことをしていると、自分でも思う。長く渋谷で遊んでいれば、ジャンキーの知り合いもできる。体から覚醒剤を抜く方法も知ってはいた。それがどれだけ骨の折れることかも。それでも、譲二はこの一週間、献身的に涼紀の面倒を見た。 セックスが終わると、譲二は虚脱した涼紀の体をガムテープで拘束した。大量の飲料水を半ば無理矢理飲ませ、排尿困難に陥っている膀胱を丹念にマッサージして、汗と尿で覚醒剤を体外に流す。ろくに食事を取れなくなった涼紀の代わりに、食物を一度自分の口で咀嚼して、口移しに食べさせた。涼紀は暴れ、喚き、ときには泣き落としてまで覚醒剤を欲しがったが、譲二は拘束を解くことも許さなかった。 暴れる涼紀を抑えつけるたびに傷を負い、うめき声でまともに寝ることもできず、譲二はさすがに憔悴した。もう見捨てて窓から放り出してしまおうと、何度も思った。しかし、そうはしなかった。幼馴染だからというだけではない。譲二はやはり、涼紀が好きなのだった。どれだけひどい扱いを受けても。 ジョージとだけは絶対に嫌…… 「お人よしのマゾヒストめ」 自分に舌打ちして、譲二は部屋のドアを開けた。 コンビニのヴィニール袋が、玄関の床に落ちた。 「涼紀……」 靴を脱ぐのももどかしく、部屋に上がった。室内はめちゃくちゃだった。家具が倒れ、小物が散乱している。窓ガラスは割れ、床に飛び散っていた。涼紀の姿はない。 足の踏み場もない部屋の真ん中で、譲二は呆然と立ち竦んでいた。 そのとき、微かな物音がして、譲二は振り返った。慌てて横倒しになった棚を持ち上げる。 棚とベッドの隙間で、涼紀は手首を拘束された姿のまま、転がっていた。ぐったりとした涼紀の体を、譲二は思い切り抱きしめた。 「ジョージ……ごめん、部屋……散らかしちゃって」 涎のこびりついた唇を動かして、涼紀が弱々しくいう。フラッシュ・バック。覚醒剤が完全に抜ける一歩手前に起こる現象だ。クスリを使っていないのにも関わらず、精神が中毒しているときと同じ症状を示すのだ。迂闊だった。涼紀の体調が安定していたため、つい気を抜いてしまっていたのだ。 涼紀を抱いたまま、譲二は深く息をついた。張り詰めた神経が、ゆっくりと弛緩していく。 「ジョージ……?」 「びっくりさせんなよ、馬鹿野郎」 譲二はため息とともに言葉を吐き出した。 「元彼かなんかにさらわれたかと思ったじゃねえかよ」 自分の言葉で、譲二は甲斐甲斐しく涼紀の世話を焼くことを、本心では喜んでいたことに気づいた。涼紀がすべてを任せきってくれ、譲二も無条件に彼を庇護することで、一時的にでも、涼紀のすべてを手に入れた気がしていたのだ。燦々たる状況の部屋を目にした瞬間、譲二の頭をよぎったのは、涼紀の身を案じることよりも、彼を失ったのではないかという恐怖だった。 「おれはずるい」 「ジョージ」 「おまえが治らなきゃいいって、どっかで思ってた。ずっとこのままなら、おまえはおれのそばにいるだろ」 譲二は縋るように涼紀を抱きしめ、告白した。 ずっと涼紀が好きだった。涼紀がだれと付き合おうが、そのたびに身を裂かれるような嫉妬と悲しみに苦しもうが、変わらずに譲二は涼紀を想い続けていた。 「好きだ、涼紀」 絞り出すように譲二はいった。 「おれにしとけよ、涼紀。おれにしとけ。おれなら、おまえをこんな目に合わせたりしない」 涼紀は不思議な目で譲二を見つめていたが、やがてゆっくりと首を横に振った。 「なんでだよ」 譲二は自分でも情けなくなるような弱々しい声でいった。譲二の告白に対する涼紀の返事は、いつも決まっていた。ジョージとだけは付き合いたくない…… 「なんでおれじゃだめなんだよ。嫉妬深いからか?」 「ううん。おれ、束縛されんの好きだもん」 「じゃ、いい年して、遊んでばっかいるから?」 「ううん。おれ、ギャング好きだもん。真面目に働いてる奴は嫌い」 つくづく不幸体質な男である。 「じゃあ、なんでだよ」 譲二がしつこく質すと、涼紀は不承負傷いった。 「ジョージ、苗字なに?」 「苗字? 鈴木だけど……」 「だからだよ」 不貞腐れたような顔で、涼紀はいった。 「ジョージと付き合ったら、おれ、鈴木涼紀になっちゃうじゃん。だから嫌なの」 冗談なのかと思った。しかし、涼紀の表情はどう見ても真剣そのものだった。涼紀が唇を尖らせるのを、譲二は目を見開いて眺めていたが、かろうじていった。 「それ……それが理由かよ? たったそれだけ?」 「それだけっていうなよ。おれだって、つらかったんだからな。好きなのに付き合えないジレンマ……ジレンマっていうんだろ、そういうの?」 譲二は脱力した。そんなことのために、この数年間、苦しみ抜いてきたのか。涼紀の天然ぶりを甘く見ていた自分を呪った。どうして危ない男とばかり付き合うのかと問い詰めても、涼紀は肩を竦めるだけだった。今思えば、その特徴は、譲二にも通ずるものだった。 不思議なほど、憤りは沸いてこなかった。非難する代わりに、譲二は笑った。涼紀が不安げな視線を向けてくる。 排泄物と吐瀉物とクスリにまみれたこの一週間で、譲二は思い知った。涼紀の世話をすることが、自分の運命なのだということ、そしてそこまでされてもなお、涼紀を嫌いになることができないということ。
「あれ、ジョージ先輩、なんすか、それ」 カラオケ・ボックスの用紙に署名する譲二の手元を覗いて、ギャング崩れの少年たちが、こぞって素っ頓狂な声を上げる。 「自分の名前、間違えてどうすんすかぁ?」 笑い出す少年たちを、譲二が鋭く睨む。少年たちは一斉に顔から笑みをかき消し、目を逸らした。譲二を怒らせるとどうなるか、知らない者はいない。 「いんだよ、これで」 「ひょっとして、結婚したんすか、ジョージさん」 「馬鹿。そんなわけねえだろ。ただの偽名っすよね、ジョージさん」 「どっちでもねえよ」 携帯電話が鳴る。譲二は少年たちに背を向け、電話に出た。とたんに、顔から険が消え、なんともしまらない表情になる。 「あ、涼紀? ……今か? しょうがねえな。おう……わかった。すぐ行くわ。ああ、おれも愛してる。ん、じゃあな」 譲二は電話を切ると、唖然として立ち竦んでいる少年たちに向き直った。顔には、渋谷中のギャングの羨望を集める不敵な笑みが戻っていた。 「そゆことだから、おれ、帰るわ」 「え、マジっすか、ジョージ先輩」 「おう。おまえらも、いつまでもとんがってねえで、女でも作れよ。やっぱ、人生、愛だぜ、愛」 にやりと笑ってそういうと、譲二は颯爽とカラオケ・ボックスを出て行った。スキップでもしかねない勢いの背中を見つめながら、残された少年たちは絶句していた。 「8名様でお待ちの井上譲二様ぁ」 女性店員の間延びしたアナウンスが空しく響いた。
おわり。
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