貴方が僕の家を訪れるのは、雷雨の夜や雪の降る日、それからつめたい風の朝。 貴方はしずかにわらって、ただ扉の外に佇んでいる。
僕が気づかないとでも思っているんだろうか。
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「―――こんにちは」 溜息を籠めた挨拶を白々しく落とす。彼はすこし首を傾げて見せた。 言葉を持たない貴方。でも、だからと言って、真冬の風のさなかに、いったいどれくらい我慢していたの。 「どうぞ、入って下さい」 口笛の様な音で北風が鳴いて、僕は首を竦めた。 無造作に背を向けて、それでも扉を気にしていると、彼がゆっくりとついてくるのが解った。僕の家に来るのはもう何度目になるか知れないのに、いつも何処か慎重で、遠慮した空気だった。 「こんな天気の日に、何やってるんですか。ったく……」 僕は寒さには強い。だから滅多に暖房は使わない。12月のあいだは、ヒーターのスイッチを入れるのは彼が来るときだけだった。 彼の連れて来た凍った風が、停滞していた僕の部屋の室温をすこし下げる。僕は突っ立っている彼をヒーターの前に押しやり、コンロの前に立った。 「ちょっと待ってて下さいね。寒かったらそのへんの上着とか羽織ってて下さい」 大人しくヒーターの前に座った彼を見もしないで言う。独り暮らしの僕の部屋は、雑多にものが散乱していて、そのなかには無造作に脱ぎ捨てたコートなんかもある。しかし何と言ったところで彼が能動的に動く筈はないと知っているから、鍋を火にかけたらコートを貸そうと思った。
彼が来ると、僕はココアをつくる。 やかんやポットは無いから鍋でお湯を沸かして、インスタントのココアを熔かす、それだけ。 でも彼はそれがとても好きだったし、疲れたときには甘いものが良いときいたから。
じんじんと冷えた部屋を、ヒーターとコンロの火とふたりぶんの呼吸が暖めていく。強火にかけた鍋を確認してから彼のところに戻ると、こんなすこしの間に彼は、うとうとと舟を漕いでいた。座ったまま。 「…………貴方ね」 呆れて肩を叩くと、器用にうたた寝をしかけていた彼は、はたと眼を醒まして僕を見上げた。ぼやけた双眸がどうやら寝惚けている。 再び嘆息して、コンロを気にしながらコートと座布団を渡した。フローリングの床に直接座りこんだりして、感覚というモノがないのだろうか、このひとには。 「わざわざ風邪ひきたいんなら止めませんけど、貴方、仕事あるんでしょう。ココアいれてますからちょっと起きて待ってて下さい」 寝るのはそれから、と仏頂面で告げると、彼は素直に肯いた。 この調子で仕事は大丈夫なんだろうかと一抹の心配がよぎる。いや、仕事はちゃんとこなしているから、彼はこんなに疲れているんだろう。それは解っているけれども。 「あんまり周りのヒト、困らせるんじゃないですよ」 会社勤めは明らかに無理であろう彼の職業はプログラマーで、その方面ではそれなりに優秀なのだと彼の秘書(になったらしい僕の友人)からはきいている。 けど、彼はこの通り。おとなげないと言うのも憚られるくらいのおとなげなさで。 「っていうか、期待はしてませんけど、貴方ちゃんと行き先くらい言って来たんでしょうね」 彼は沈黙した。 「……ああ解りましたこっちから連絡しときますよもう」 するまでもなく、友人の方でも彼が僕のところに居る事くらい予測済みな気もするが。 沸騰する様な音が聴こえてきたから、僕は彼の肩にコートをかけて、携帯を持ってコンロに向かった。
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「どうぞ。ココア」 ものすごく努力したらしい様子で(たまに頭がかしいでいた)、起きて待っていた彼にマグカップを渡すと、彼は漸く表情らしきものを見せた。嬉しそうにほんわりと微笑んで、熱さを気にせず口に運んだ。火傷するんじゃないかと思うけれども、彼は意外に平気だ。 「……何て言うかね、貴方、3年も前に成人してるんだから。自分の限界値ぐらい知っといたらどうなんです?」 甘い香りが緩み始めた空気に熔ける。僕が小言を並べるのはいつもこの隙で。 彼もいつもの様に、マグカップ越しに視線を向けて来た。……そういう仕草はいいとこ中学生だ。小柄な所為もあって、大学を卒業した社会人とは全くもって思えない。 「仕事で根詰めすぎて不眠症て、何回めですか全く。自己管理はちゃんとして下さいって高校の頃から言ってるでしょうに。僕は貴方の保護者じゃないんですよ」 そもそも僕は彼よりひとつ年下だったりするのだが、百歩譲ってそこはもう良い。 でも僕は断じて―――彼の秘書兼僕の友人が何と言おうと―――彼の保護者ではない。と思いたい。 渋面で断言したにも関わらず、彼はふにゃり、という形容詞でも使うしかない様な笑顔を浮かべた。 仕事のときには、絶対に出来ないらしい、神経緩めきった笑顔。 ……友人が言うには希少価値が高いそうだけれど、そんな事は絶対ない。だってこのひとは此処に来る度、この手の笑顔で笑って誤魔化そうとするのだ。 いや、 「―――ともかく、それ飲んだら寝て下さい。ちゃんと布団で」
……僕が勝手に誤魔化されているのか。
「あいつには連絡入れておきましたから。気が済んだら戻って来いって言ってましたよ」 差し迫った仕事は無いからまあ良いよ、友人はそう暢気にのたまった。猫でも預ける様な気軽さで。 ああもうそれでも秘書なのか。 「飲み終わりました?ならカップ下さい」 我ながら保護者然として(でも断じて違うと言い張ってみる)声をかけ、空になったマグカップを受け取る。まだ微かに暖かい、厚手の白いカップは、いつの間にか彼専用になってしまったものだ。 やれやれとカップを流しに持っていく視界の端で、彼がずるずると傍らのベッドに這い上がっていくのが見えた。
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彼が僕の家を訪れるのは、雷雨の夜や雪の降る日、それからつめたい風の朝。 彼は疲れて身動きが取れなくなると、決まって僕のところにやって来る。
それはもう良い。5百歩くらい譲れば赦せなくもないから、もう良いけれど。 ……だから何で貴方はそう、こどもみたいに眠るんですか。
「何の為に布団で寝ろって言ったんだと思ってんですか貴方は……」
ぱったり眠ってしまった彼は、布団を殆ど掛けていなかった。思わず頭を抱える。 天才と馬鹿は紙一重、という言葉の見本の様なこのひとを眺めて、それでも僕はしずかに布団を掛けなおしてやった。 仕方の無いひと。だけどもう、そんな事、ずっと前から解っている事だから。
「……おやすみなさい。」
先程よりすこしだけやわらかく溜息をついて、自分の為にもホットココアをつくろうと思った。
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