香港で唯一の遊園地として長年愛されてきたにも関わらず、2005年の巨大遊園地開園によりその地位を危ぶまれている香港島・浅水湾にある某公園・・・・・
土曜・日曜などは大陸からの観光客が小銭を落としていってくれるとは言えど、やはり平日などは暇なもので、従業員どころが動物までもがあくびをする始末でした。しかしいくらガラガラだと言っても、次から次へと絶叫マシーンを梯子したりすれば酔ってゲロを吐くこと確実です。平衡感覚を取り戻すためにも、多少順番待ちをするくらいの混み具合がちょうど良いのでしょう。
そんなことはさておき、この海洋公園にある『金魚博物館』において、ひとりの若い男がアルバイトに励んでいました。 今回の主役であるこの何某、その名を朱尖晶といい、香港島灣仔のコンピューター専門学校に通う一学生でした。
身長約170cm体重59Kg、セックスのひとつも覚えようかという年頃にしては白く透き通った肌に大きな瞳・・・。 髪の毛こそ短く切り揃えてはいるものの、どことなく頼りなさ気なその風貌は『保証人なってくれ』と頼むにはちょうど良さそうな顔つきです。 今身に着けている薄いグレーのタンクトップにカーキ色のミリタリーパンツは彼の身体には大き過ぎるようで、こうしたゆるめのファッションがよりいっそう、そこから覗く二の腕や足首の細さを際立たせていました。
尖晶は4年も前からこの博物館で働いていましたが、かといって水生生物に関する専門知識が必要というわけではなく、金魚たちの水槽を洗ったり餌を与えたりといった軽めの仕事がほとんどで、たまに他の施設が忙しいときなどはそちらに回されることもありました。
金魚の飼育において最も重要な水質の安定を図るため、施設の内部には直射日光が差し込まない設計になっており、そのおかげで真夏でもいくらか涼しく、 時給200円でマクドナルドにコキ使われている友達と比較すれば、アルバイトの環境としてはまあまあ快適な方だったと言えるでしょう。館内の壁には風通しを良くするための風穴があけられており、美しい縁取りが施されたその窓枠は、まるで清朝の庭園を模したようでもあります。
壁に埋め込まれた水槽には、中国と日本を始めとして世界各国で作られた色とりどりの金魚たちが愛らしさを振りまいていました。 潰れかけた団子のような丸みを帯びた身体を持つ沖縄生まれの魚・リュウキンに祭りの出店で毎度おなじみのワキン、眼球が真上を向いていて、これまた愛嬌のある形のチョウテンガンに、眼の周りに水ぶくれの如き袋を携えた異色魚スイホウガン、その他アメリカで作られたコメット、ゴシックロリータ愛好者がよく着ている服のような色をした黒デメキン等・・・興味のない者にとってはその種類を覚えていくだけでも一苦労でしたから、たとえ餓死寸前になっても金魚だけは食べようという気がしなくなること請け合いです。
別に金魚に対する愛着などなかった尖晶でしたが、それでも給料を貰っている以上は可愛がってやらねばなりません。彼は金魚たちがその尾ひれで跳ね上げる水でびしょびしょになりつつ、水面に浮かんでいる食べ残しの餌や糞の除去に精魂を燃やしていたのでした。
ところで・・・・・・ 今日は平日ということもあって博物館を訪れる観光客も少なく、朝から数えてもたったの2人しかおりません。亀にえさをやっている時、全身に包帯を巻きつけた男と、 『ああ、こんなのを秘書にしたら会社が潰れるだろうな』・・・と溜息を吐きたくなるくらい頭の弱そうな青年が連れ立ってきたくらいです。
「社長さん、金魚ってかわいいでしょう。オレも黒いデメキン、金龍って名前のメスの金魚をもう20年以上も飼ってますよ」 「2、3匹飼っておくと、飢饉のときに良いかも知れないな」 「いやあ、金魚ってまずいまずい。とても食べられたもんじゃないです」 「なんだおまえ。食ったことがあるのか。もしや、金魚を食わねばならぬほど金に困っておったのか」 「いやいや、そうじゃありませんよ。けどですね、カブトガニやサルの脳味噌までも食材にしちゃうオレら中華民族でも食べる習慣がないんですから、きっと死ぬほどまずいんですよ」 「アヽ言われてみれば一理あるな・・・・・」
・・・・なんだか偏見でものを言っているような気がしないでもないですが、外部の喧騒から遠く離れた館内だったこともあり、彼らのいじきたない会話が否が応でも耳に届いてきました。
そんなことはともかく、尖晶が裏手で入れ替えたばかりの水槽をタワシでごしごしと洗っていると、白いYシャツに茶色のスラックスを着こなした、年の頃は30歳前後と思われる一人物が声をかけてきました。 外見こそ真面目そうに見えるものの、その皮膚の裏側に隠された五臓六腑にはそれこそ瘴気とも言うべき害悪の念が渦巻いていそうな感があり、鳴かないホトトギスはすぐさま殺しかねない危うさを併せ持った男ではあります。
「尖晶。疲れただろう・・・その水槽が洗い終わったら、休憩しようか。シャワーを浴びておいで」 「アッ。ハイ主任」
手淫ならぬ主任と呼ばれた男こそ、この金魚博物館の管理を任されていた人物で、その名をメリッサといいました。本当は黄燐光などというどうでもいい名前だったようですが、そう呼ぶ者は誰もおらず、陰では『ロリコン』をも意味する広東語・『金魚老』などと誤解されそうなあだ名で呼ばれていたのでした。しかし本当にそういった性癖を持っていたわけではなく、文字通りの意味での『金魚おじさん』といったところでしょうか。
彼は香港随一の大学である香港大学において生物学を専攻し、特に金魚の品種改良と種の定着についてはそれなりの研究実績があると評判でした。館内に掲げられている解説や案内板の文章等はすべてこの男の手によるもので、開館以来、ここを訪れる幾多の観光客を『なるほど』・・・と頷かせてきたのですからその点は偉いものです。
いくら日光が差し込まないといっても外は35度を越している上、映画『タイタニック』に出てきたローズとジャックでさえ、ここで抱き合おうものなら2秒で離れたがるだろうというほど蒸し暑いのですからそれなりに疲れる仕事ではあります。汗と水垢と金魚の糞にまみれてシャワー室に入っていったアルバイト君を労ってやろうと考えたのでしょうか。メリッサは休憩室のクーラーを『強風』に設定し、先程淹れたばかりの五花茶に氷を入れておきました。
「主任、お先にシャワーさせてもらいました」 「ああ、すっきりしただろう。デメキンの水槽、かなり汚れていたからな」
そうして20分ののち、シャワー室から出てきた尖晶君はボディソープの匂いを全身から漂わせながら休憩室に入ってきました。 室内には10リットルサイズの冷蔵庫を初めとして数十匹のグッピーやワキンが泳ぎ回っている水槽、先日購入したばかりの新しい水槽に荷物を運ぶための台車、そして休憩中に読むためのエロ本にプレイステーション2などが無分別に置かれており、果たして職員たちの憩いの場になっているのかそうでないのかやや判断に苦しみますが、それでももう何年もアルバイトをしているだけあって、彼にとっては第二の自宅のような場所となっていたのです。
家から持参したTシャツとGパンに着替え、濡れた頭髪から滴り落ちる水滴を腕で振り払っていた尖晶はそのまま冷風の吹出口に歩み寄ると、バスタオルで頭をゴシゴシと拭き始めました。自分より10歳以上年下の坊やが弟のように思えてならないのか知りませんが、そんな光景を優しげな眼差しで見守っていたメリッサは五花茶を冷蔵庫から取り出すと、500mlは入りそうな特大のグラスになみなみと注いでやったのでした。
「茶を冷やしておいたからちょっと一息吐くといい」 「ア、すみません主任」 「いつも水浸しにさせてすまないな。水槽の水はばい菌がたくさんいて汚いから、ちゃんとシャワーしろよ」 「いや、もう3年目ですから慣れましたよ。雑菌にも抵抗力ついちゃったりして」 「お前のおかげで助かっている。今度、メシでもおごってやるよ」
いずれにせよ、褒められるということは気分の良いものです。バスタオルを椅子の背もたれに掛けた尖晶は、グラスに注がれた五花茶を一気に飲み下したあと照れくさそうに微笑みました。
「尖晶、お前はもう長いことここで働いているが、金魚の歴史について知っているか?」 「いいえ。館内の案内板で読んだ程度です。俺そういうの興味ないんで」 「金魚は元々、フナの突然変異として生まれた魚でな。品種改良を繰り返して生まれたのが、今あるような金魚なんだ」 「はー、そうなんですか」 「金魚は、その形ゆえに自然界では生きられない魚だ。あのように大きなヒレは泳ぐのに適していないしね。人間が観賞するために作り出した人工生物といっても良いだろう」 「へえー、知りませんでした。・・・そう思うとなんだか、かわいそうかも知れませんね」
休憩をとったことにより、少し眠くなってきたのでしょうか。 2杯目の五花茶を飲み干した尖晶は両の瞼を傾けてそう呟きました。
「金魚は中国から日本にも伝わった。お国柄の違いか、日本では形が美しいものが好まれ、中国では奇抜な形をしたものが喜ばれたという。例えば、異様に眼が大きいとか、ヒレが長いとかね」 「ふーん・・・」 「私は大学で金魚の品種改良について研究していたんだが、種として定着させるのはなかなか難しかったよ」 「・・・・・・・・・ん」
飾り窓から漏れる太陽の光を目に受けて、尖晶は少しばかり眩しいと感じました。それは、彼が人間として生きている間に知覚した、最後の感覚だったのです・・・・・・・・・。
「尖晶。私は美しい金魚が好きなんだ・・・だから世界で一匹しかいない特別な金魚をこの手で創りたいとずっと思ってきた」
そんな思わせぶりな台詞を残し、グラスに残っていた五花茶を排水溝に捨てたメリッサは眠り込んでしまった尖晶の上体を抱き起こしました。 動かされても目覚めないところを見ると、疲れて居眠りをしたというより睡眠薬か何かによって眠らされたのでしょう。シャワーを浴びた直後ということもあってか、充分な水分を湛えた肌はまるで買ったばかりのバレーボールみたいに照り輝いています。
・・・・・・この男のような愛好家にとって、世界中で一匹しかいない金魚を所有するということは何にも勝る名誉なのでしょうが、元来品種改良によって生み出された魚類であるとは言え、そうそう簡単に成功するものでないことは明白です。たとえどんなに美しい金魚を作り出したところで、子孫を残せない一代限りのものを『品種』とは言わないからです。
それでも最近ではDNAを操作することにより、容易に新種を作り出すことが可能となってしまいましたが、メリッサはそんな風潮に嫌悪をもよおす者のひとりでした。遺伝子ををどうこうするなどとは、邪道に他ならないと考えていたのです。自らの手で交配を繰り返し、時には稚魚の頃から真っ暗な箱に入れて養育したり、ひれを特殊なバンドで固定してみたり、またある時は鱗をピンセットで抜いてみたり・・・。そうした創意工夫があってこそ美しい金魚が完成するのだと、そう信じていたからです。
金魚を愛し過ぎたおかげで幾分頭がおかしくなってしまったこの男は、運搬用の台車に用意しておいた150cm大の水槽にアルバイト少年を横たえると、その上から直射日光を避けるためのシートを覆い被せてガムテープで貼り付けました。続いて彼は交替の職員がやってくる直前、騒がないようにお眠り頂いているバイト君を荷物に見せかけてまんまと連れ出していったのでした・・・・。
「尖晶。お前は以前、コンピューターを愛するあまり、ついには天国の住人となった男の話をしたことがあったな。通っている専門学校の先輩から聞いた話だと言っていたが・・・。私にはそいつの気持ちがわかる。私も金魚を愛する心ゆえに、死後は必ずや天国に行くことができるだろう・・・」
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