四十五口径のコルト・ガバメント。ガンブラックが剥げ落ち、銀色がくすんで鈍く光っている。 グリップを握ったときのひんやりとした感触が、たちまちじっとりと湿っていく。 やくざはなによりも体裁を重んじる組織だ。おれの性癖を上の人間に知られでもしたら、数時間後にはおれの体は東京湾に沈められるだろう。 二丁目には決して寄り付かなかった。欲望を処理できなくなると、横浜へ出かけて少年を買った。慎重にやっているつもりだった。それでも、気付かれるときはある。 数週間に一度のおれの外出と、その目的に気付いたのは、これで三人目だった。過去の二人は、“抗争に巻き込まれて”死んだ。 三人目の男、相沢は、無表情だった。頭頂部に押し付けられたガバメントの銃身を見上げて、肩を竦めた。 「おれの口を塞ぐつもりですか」 「出しゃばったおまえが悪いんだ」 安全装置を外す。かちりという乾いた音にも、相沢は瞼ひとつ動かさなかった。独白のようにいった。 「残念だな」 「なにがだ」 眉を顰めると、相沢ははじめておれを見た。不思議な色の瞳だった。 「真部さん、おれに興味ないですか」 意味がわからなかった。間の抜けた顔をしていたのだろう。相沢は唇の端で笑った。 「おれは、真部さんに興味、ありますよ」 おれは相沢を撃たなかった。代わりに、この生意気な電話番と、肉体の関係を持つことになった。
「おれ、本当はヴェネツィオっていうんです」 ホテルの薄明かりの中で、煙草のパッケージを探していると、背後で相沢が唐突にいった。 「外人にゃ見えねえがな」 振り向かずにいうと、相沢は低く笑った。 「洗礼名です。おれ、捨て子ってやつで、修道院で育ったもんですから」 修道院兼教護院。恵まれない子供たちを引き取り、育てる良心的施設だ。しかし、その現状は、犯罪者養成所といってもいい。哀れな少年たちは、閉鎖された世界の中で、歪んだ信仰心を植えつけられ、常識や生きるための知恵と隔絶され、神父や先輩たちの性器を突っ込まれて成長する。施設を追い出され、世間に飲み込まれる十五の頃には、立派な犯罪者の出来上がりだ。 行き場を失い、やくざの杯を手にする者も多い。相沢もそのくちだということを知ったのは初めてだったが、なんとなく頷けた。 相沢が組の命令で初めて人を殺したときのことを、おれは思い出した。
敵対する組の鉄砲玉。タイラップで手足を拘束され、剥き出しのコンクリートの上に転がされていた。 まだ若い男だった。組の命令は、監視だけだった。しかし、男は野心を持っていた。その野心のために、こうして地獄を見る羽目になった。 「たった一人で、親父のタマ捕ろうとは、見上げた根性だがな」 おれはコンクリートの表面にハンダゴテの先を押し付け、よく研ぎながら、いった。 「根性だけじゃ、クソの役にも立たない。むしろ、こういったことになってしまう」 男は無言だった。全身を細かく痙攣させ、喉からふいごのような音を漏らして、じっとおれの手元を見つめている。 鋭く尖ったハンダゴテを満足げに眺めて、おれは暗い地下室を見渡した。数人の組員たちが、おれと男を囲んで事態を見守っていた。 その中に、相沢がいた。つまらなさそうに親指のささくれ立った皮膚を摘んでいる。 「相沢」 呼ぶと、相沢は視線を上げた。おれは無言でハンダゴテを差し出した。 他の組員たちが、一斉に安堵の息をつく。しかし、相沢は顔色を変えなかった。大型のハンダゴテを不思議そうな目で見て、いった。 「それ、なんですか」 「これで、こいつの体に穴を空けるんだ。目や耳や鼻やケツ……穴という穴、全部を広げる」 男の喉仏が上下する。 「いえ、そうではなく……」 相沢は恥ずかしそうに首を傾げた。 「その道具のことです」 「これか」 おれはコテを示していった。 「初めて見たのか」 相沢が頷く。自分の無知を恥じている様子だった。征服欲をそそる表情だった。なんとなく視線を逸らして、おれはコテの説明をしてやった。 「機械に使うものなのですね」 相沢は感心したように、おれから受け取ったコテを珍しそうに見つめた。新しい玩具を与えられた子供のような、無邪気な目だった。それを使って、人間の体を掘削することに対する恐怖は感じられない。 おれは苛立ち、鉄砲玉を捕らえたときよりもはるかに残酷な気分になった。 「相沢、おまえ、いくつだ」 「二十三になります」 「そうか」 おれは頷き、倒れた男を顎でしゃくった。 「二十三個、空けろ」 「……わかりました」 男の歯が鳴り始めた。それをもてあますように見下ろすと、相沢はため息をついて近づいた。 相沢が屈みこむと同時に、男が絶叫した。あからさまに顔をしかめると、相沢はなんの躊躇いもなく、見開かれた男の左目にハンダゴテの先を突き刺した。 「意外と、力いらないんですね」 相沢は感嘆の声を上げ、機械的な動きで男の体にひとつひとつ穴を空けた。暴れる男を押さえる組員たちが思わず顔を背けるほど、冷静な仕事だった。 おれは壁にもたれ、煙草を吸いながら、相沢の初仕事を眺めていた。地下室には、肉が焼ける匂いとむっとする空気が充満していた。 「十七、十八、十九……」 穴の数を数えながら、相沢は黙々と掘削を続けた。最初、初めて見る機械を扱うことを楽しんでいる様子だったが、作業を続けるにつれ、飽きてきたようだ。手つきが雑になっていた。 どんなに突っ張っている奴でも、初めて人を殺すときは、恐怖を覚えるものだ。極道として初めて拷問に加わったときは、おれも数日間食事をすることができなかった。だが、相沢は無感動だった。まるでテーブルの上の蟻を潰すように、淡々としている。 「二十、二十一、二十二」 その横顔をなにげなく見て、おれははっとした。相沢の目尻に、涙の雫が浮かんでいた。 見間違えようがなかった。相沢は欠伸をしていた。
相沢には常識がない。表情がない。人間らしい感情というものが、欠如している。その冷たさは、極道にとっては大物の要素だ。おれと寝るようになった頃、便所掃除を卒業して、電話番に昇格したばかりだった相沢は、一年でおれの直属の部下となっていた。 そんな男に、神の洗礼が与えられたというのだから、皮肉な話だ。 「経とか、唱えられたりするのか」 「クリスチャンですよ」 おれの隣で寝返りをうちながら、相沢は苦笑いした。 「天使祝詞です。ロザリオの祈り」 おれの手から煙草を受け取ると、相沢はおどけた口調で祝詞を唱えた。 「めでたし、聖籠充ち満てるマリア……」 おれは目を閉じた。子供の読書のような投げ槍な、だが切実な相沢の言葉は、おれの心を穏やかにした。 おれの人生は、たぶん、豊かなものだった。勘違いでも、そう信じることができた。明日死んだとしても、後悔はない。それは決して、大仰な感傷ではなかった。 明日の午後、おれは親分と敵対する組との話し合いに同行することになっていた。二つの組は、それぞれ一人ずつの護衛をつけることが許されている。 相手がその協定を守るという保障はない。危険な任務だった。だが、おれは自らその重要な任務を請け負った。組のために、この命を失ったとしても、構わない。やけに重たい杯を交わしたときから、覚悟していた。 「もう行く」 長ったらしい相沢の文句を遮って、いった。ベッドを抜け出し、衣服を纏う。 部屋を出ようとして、身が軽すぎるのに気付いた。ドアの前で、おれは振り向いた。 「忘れ物ですよ」 全裸のまま、相沢は静かにいった。同時に、その手の中で、ガバメントが火を噴いた。
相沢は銃を手入れしている最中だった。たまたまその傍らにおれがいて、暴発した弾丸に倒れた。そういうことで、一応のかたはついた。 相沢はおれがもっとも目をかけ、可愛がっている部下だった。おれに対する奴の忠誠心も、組長も充分わかっていた。多少無理のあるこじつけでも、疑問を口にするものは、少なくとも表立ってはいなかった。 おれは顔を上げた。組員に付き添われ、相沢が病室に入ってきた。 「やってくれたな」 組員を下がらせて、おれはいった。相沢は相変わらず無表情だった。 「すみませんで済むと思うなよ」 相沢を見ようとはせずに、おれはいった。 「おれは、組のために命を捨てるつもりだったんだ。それを台無しにしやがったんだぞ、おまえは」 相沢は黙っている。ベッドの脇のテーブルに置いてあった果物ナイフをつかむと、おれは奴に向かって投げた。 「わかってるな」 ゆっくりと、相沢を見た。果物ナイフを手にしたまま、相沢は頷いた。相変わらず、表情は皆無といっていい。 おれはベッドの脇に置いた食いかけの弁当に手を伸ばした。使い捨ての弁当箱の蓋を固定する輪ゴムをつまみあげた。 相沢は受け取った輪ゴムを、小指の根元に丁寧に巻きつけた。相沢の骨ばった手には、切り傷ひとつなかった。初めてのエンコ詰めというわけだ。 相沢は小型冷蔵庫の上に手をついた。 躊躇わなかった。眉ひとつ動かさなかった。輪ゴムが食い込み、血の色を失った小指の第一関節に、果物ナイフの刃をあてた。 ごろり。 骨の音がした。相沢の小指は勢いあまって大きく跳ね、床に落ちた。一拍置いて、相沢の手から鮮血が噴き出した。 「どうぞ」 相沢は大儀そうに腰を折り、床に転がった小指を取り上げると、慇懃なしぐさでおれに差し出した。伏せた顔が青ざめていた。さすがに苦しげな表情を浮かべている。唐突に、抱きたくなった。かろうじて抑制した。 おれはベッドに寝そべったまま、相沢の小指を掌にのせた。血まみれの小指は、薄緑色に変色して、まるで不細工な粘土細工の欠片のようだった。 血を吸ったベッドの横に突っ立ったまま、相沢もおれの手の中の指を見つめている。骨の露出した切断面からは、血がとめどなく溢れ出している。 「痛いか、相沢」 「はい」 唇を震わせて、相沢は答えた。血まみれの指を一瞥して、おれは嘲笑った。 相沢がおれを愛しているなどとは、考えたこともなかった。おれの命を消さないために、おれを撃つ。そんなことをするような人間だとは思っていなかった。銃弾がわき腹にめり込む瞬間まで、一度も。 「今度からは、そばにいてほしいときはそういえ。二度と銃をぶっ放したりするな。わかったな」 「はい」 そういうと、相沢はゆっくり顔を上げた。上目遣いの目が細くなっていた。照れたように、相沢ははにかんでいた。 「おまえにはいわなかったけどな……」 親指と人差し指でつまんだ指を見つめ、おれはいった。 「ずっと、おまえの指が好きだったんだ」 穏やかな気分だった。おれは変色した不気味な物体を口の中に放り込んだ。 なにかが聞こえた。ほとんど口を動かさずに、相沢が天使祝詞を唱えていた。ひどく穏やかな気分。おれはしばらく相沢の指を舌の上で弄ぶと、丹念に咀嚼して、呑み込んだ。
おわり。
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