今日のランチがなんだか知りたくもなかった。 チーズバーガーにピクルス。缶詰の洋梨。 牛乳は飲めないから捨てるしかない。 白いプラスティック製のフォークとスプーン、それから紙ナプキン。 それらをトレイにのせて、レジの前に出来た長い列に並ぶと、後ろから来た学生と肩がぶつかった。 その子は、もともと茶色なのを金色に染めたと分かるような髪をかきあげながら 「オー、ソーリィ」の一言で片付けると、またおしゃべりに花を咲かす。 今日はユダヤ教の休日だったな。 道理でカフェテリアがやけに空いているわけだ。 テーブルを独り占めできる。 というか、僕にそれしか選択がないのだ。 転校生だから初めは友達が出来ないのも仕方がないと担任に言われたけど 一ヶ月経ってもまだ一人で空席を探しているなんて、思ってもみないだろう。 さて、ランチの後は数学だったな。 今日はテストがある日じゃなかったか。 未だあんな簡単なものを習っているなんて、信じられない。 8年生といえば、日本では中2だ。代数はとっくに終わらせた。 することがなくて開いた教科書を凝視していると、後ろからやけに明るい声が響いた。 「ヘイ!」 ここの学生は、図体ばかり大人っぽいが中身はガキだ。 英語が上手くしゃべれたとしても、僕だけクラスから孤立しているだろう。 「お前だよ!そこで数学の本読んでる奴!」 声の主はどうやら僕に話しかけていたらしい。 ゆっくりと振り返ると、見慣れた顔があった。 短い赤髪と、深緑の目。 こいつは確か、数学のクラスの・・・なんといったか。 僕はアメリカ人の名前を覚えるのが苦手なのだ。 「・・・なに」 「教科書見せてくれないか?今日テストだったんだな~、すっかり忘れててさ」 早口でまくしたてられて、僕に分かった単語といえば、数学、教科書、テストくらいだった。 「テスト」 「そうそう。マジやばいよな、予習どころか宿題もやってなくてさ」 何を言っているのか分からない。 苛々しながらも、言い慣れた英語を口にする。 「もっと、ゆっくりじゃないと、分からない」 「あ?ああ、悪い!」 奴は照れくさそうに笑うと、ドカッと僕の隣に座った。 「今日は数学のテストがある。OK?」 今度は、一言一言、間を空けてゆっくりと発音した。 「分かった」 僕がうなずくと、そいつは嬉しそうにイエス!とガッツポーズをした。 なんなんだこいつは。 「俺はジョシュ。ジョシュ・ガーランド。分かる?」 「ああ」 それくらいは分かるに決まっている。 適当に相槌を打った。 「お前の名前は?」 「・・・シュン・タチバナ」 「シューン?」 その発音はなんとかならないのだろうか。 僕は小さくため息をついた。 「シュンと呼べ」 「ああ、シューンな」 「違う。シュンだ」 ここで日本の名前が通用するわけもないか。 「なんだ、お前しゃべれるじゃん!いつも黙ってるから、怖い奴かと思ったぜ」 ジョシュはまるで新発見をした科学者のように、興奮した口調でしゃべり続けている。 東洋人がそんなに珍しいのだろうか。 それより、こいつ、さっき何か言いかけてなかったか。 「テストがどうした」 僕がそう訊くと同時にランチの終わりを知らせるベルが鳴った。 「やべえ!数学だよ数学!」 ジョシュの慌てぶりがおかしくて、映画で覚えた単語を口にしてみた。 「Farewell, my friend.(さらば友よ)」 場に合わないだろうとは思ったが、まあ意味が通じていればそれでいい。 「おい、待てって・・・同じクラスだろ?」 「ロッカーに行く」 僕がくるりと背を向けると、ジョシュの情けない声が追ってきた。 「そんな酷いこと言うなよ~」 それが、僕、橘俊(たちばな しゅん)とジョシュ・ガーランドの出会いだった。 今思い出すと微笑ましいやら、情けないやらで・・・なんだかくすぐったい感じだ。
「シュン、なにフルーツポンチ睨みつけてるんだ?」 3年前に比べると、ジョシュの声はたいぶ変わった。 僕は、ジョシュ曰く今まで“睨みつけていた”ジュースのカップをテーブルに置くと 右手で、いつのまにかずれていた眼鏡を押し上げた。 「終わったのか」 「おいおい、なに言ってるんだよ。まだ10時だろ?」 パーティはこれからだ!と一人わくわくしているジョシュには悪いが 僕は低気圧で頭痛もしていたし、いい加減に帰りたかった。 踊って騒いで・・・どこが楽しいのだろう。 一生に一度しかないジュニア・プロムなのだから来ないと損だ とジョシュに言いくるめられ、約束だぞと何回も念を押されて来ただけだ。 プロムというのは、高校生や大学生が催すダンスパーティなのだと後で知った。 11年生の終わりともなると、そろそろ大学のことも考えなければならない頃だ。 忙しくなる前に盛り上がろうという魂胆なのかもしれない。 「帰ってもいいか」 ジョシュに対して申し訳なく思う気持ちもあったが その反面、僕は帰ったほうがいいのだろうかとも思った。 プロムには恋人を連れてくるものだと聞いていたから、一緒に帰らないほうがいいのかもしれない。 僕がそう言うと、ジョシュは怒ったような顔で「恋人なんだから問題ないだろ」と言った。 「それとも、眠い?」 「それもある」 正直に答えておいた。 明け方までプログラミングをしていたせいで、今日一日中、寝不足だった。 「分かった」 ジョシュはそう短く言い残すと、人だかりの中に消えた。 怒らせたのだろうか。 理由を考えようとしたが、夢から覚める前のように、頭がぼんやりしている。 声が遠くに聞こえる。これは現実なのか。 ―――風邪を引いたのかもしれない。 ドアを押す手に力を入れる。 それなのに、なんでちっとも動かないんだろう。 「なーにやってんだよ」 頭上から呆れたようなジョシュの声がした。 「それ、引かないと開かないんだよ」 おかしそうに笑いながらも、ジョシュは颯爽とドアを開けると 冷たい風がロビーに吹き込んで、僕は無意識のうちに身を縮めた。 「寒いのか?」 「・・・平気だ」 体が火照っている。久しぶりに熱を出したんだろう。 ジョシュに知られるとまた健康を大事にしろと言われるに違いないから、黙っておこう。 「ちょっと熱いな」 それでも、いつでもばれてしまうのは何故だろう。 ああ、そうか。額をくっつけて・・・ 「おい・・・」 「俺達が仲良しなのは、皆知ってるだろ」 「仲良しってなんだ・・・」 その単語はどうかと思う。 僕がそう言い足すと、ジョシュは苦笑した。 「“Farewell, my friend”っていったのは誰だったかな?」 「あの頃は意味が分からなかったんだ」 「酷いな。俺はてっきりシュンと友達になれたのかと思って、大喜びしたんだぜ」 あの頃から単純な奴だった。 恐ろしいくらいに数学が出来なくて、テストの度に泣きついてきた。 他にしゃべる奴がいなかったから付き合ったまでだが、いつのまにか友達の領域を超えていた。 カラッとしていて、僕と違ってこの関係を恥じない。不思議な奴だ。 「出口はそっちじゃない」 反対方向へと歩き出すジョシュについて行きながら、僕は後ろから声をかけた。 返事はなかった。 最近ジョシュの考えていることが分からない。 「お前もとうとう単細胞から進化したのか」 ジョークのつもりだった。 なんとなく雰囲気が気まずかったから、相変わらず朦朧としている意識の中、ふっと思ったことを言ったまでだ。 ジョシュは無言のまま、ロビーを出て、エレベーターのボタンを押した。 この時間帯は利用者が少ないのか、すぐさま音を立ててドアが開いた。 「用がなければ、僕は帰るが」 「待ってくれ」 引っ張られた。 エレベーターの壁は白く、ライトを絞ってあるロビーから急にその中に入った僕は、眩しくて目を開いていられなかった。 ようやく目が周りの明るさに慣れた。 「なにしてるんだ」 「抱きしめてる」 そんな当たり前のことを言われても。 僕の質問があやふやだったかもしれない。 「僕が訊きたいのは・・・」 「シュン」 なんでこんな所でと言いかけたが、ジョシュの声にさえぎられた。 そのままキスされて、何が言いたかったのかあやふやになる。 こうしているとものすごく心地が良いのだ。 それにしても、今日のジョシュはどうしたんだろう。 酸素不足になるんじゃないかと心配しはじめた頃になって、唇が離れた。 肩に頭をあずけると、いつものように髪を溶いてくれた。 「シュン・・・」 「なんだ?」 何を言い出すのかと待っていると、ジョシュは急に黙り込んだ。 「言いたいことは今言え」 肩に顔をうずめたまましゃべったから、もごもごと呟いているように聞こえたかもしれない。 仕方がなく顔を上げると、ジョシュが難題を解いているときのような目で僕を見ていた。 「隠し事は無駄だよ、マイフレンド」 ジョークはこれが精一杯だったが、ジョシュは予想していなかったのか、それを聞くと噴出した。 「お前って奴は・・・タイミングが絶妙というか・・・」 反応からして、僕の言ったジョークの中では傑作のようだった。 なんとなく誇らしい気持ちになる。 今まで、勉強以外は面白みのない人間だと自負していたのだ。 「シュン」 しばらく笑ったあと、ジョシュは気を取り戻してまた僕の名前を呼んだ。 今度は邪魔しないように、黙って辛抱強く待つことにした。 「・・・抱きたい」 「もう抱いてるだろう」 何を言い出すのかと思えば。 ますます何を考えているのか分からなくなってきた。 「そうじゃなくて・・・」 「手っ取り早く言え」 このまま抱き合っていると眠ってしまいそうだ。 瞼が重くて、今すぐにでも閉じてしまいたい。 「・・・・・・!」 ジョシュが何か言っている。 眠気に勝てない。 ・・・さっさと言わないお前が悪いんだ。
「今日から正式に高校から卒業だな。コングラチュレーションズ!」 「コーヒーで乾杯はどうかと思うが」 僕がそう言いながらマグカップを口に運ぶと、ジョシュが盛大なため息をついた。 「人が喜んでるときに水入れるなって」 「ただ意見を述べただけだ。別に邪魔しようとは思っていない」 「理論的なことばかり言ってないで、俺のチャーミングなキャラクターでも見習え」 お前のどこがチャーミングなんだ、と訊きたくなったが、口論では勝てないと知っているのでやめておく。 しゃべるのが苦手な僕は、ディベートがある度に負けてばかりだ。 「でもさ、ムードないよな。今度こっそりワインでも・・・」 「アルコールは思考を鈍らせるから嫌いだ」 「そうか?まあ、去年みたいになったら困るな」 ジョシュが思い出し笑いをしている。 ジュニア・プロムで飲んだジュースが、実はカクテルなのだと知ったのは翌日になってからだった。 どうやって家に帰ったのかは覚えていないが、ズキズキする頭を抱えて学校に行ったら 徹夜明けでパーティに来るなんてどうかしている、とジョシュに怒られた。 どうやら家まで送ってくれたらしい。 そして、なぜかは知らないが、二人で授業をサボって芝生の上で昼寝することになった。 その後、ジョシュはカウンセラーに欠席の理由を訪ねられ、正直に「二日酔いで寝込んでました」と答えたらしく 一時間以上もカウンセラー・オフィスから出てこなかった。 彼が説教されている間、僕はオフィスの外のソファに座ってその日の宿題を終わらせた。 欠席の手紙を書いて、親のサインを真似ればいいだけなのに・・・と思いながら。 「みんな隠れて飲んでるんだぜ?教師側もそれくらい知ってるだろうに」 「だからと言って、堂々と白状する奴がどこにいる」 僕がそう言うと、ジョシュが勢いよく手を上げた。 「俺は隠し事をしない人間なんだ」 「“しない”じゃなくて“できない”んだろう」 「・・・お前も毒舌になってきたな。あーあ、ミドルスクールで俺が教えた英語はどこに行ったんだろう」 「“ジョシュ・ガーランドの言うことは真に受けるな”という重要なレッスンを学んだ」 ジョシュが親切に教えてくれた俗語の数々は、先生相手に使って酷い目にあって以来、記憶の底に封じてある。 彼にとって、英語を上手く話せなかった僕は格好のおもちゃだったに違いない。 かといって、別に怒る気にもなれないが。 「だから俺の言うことは信じないって?」 ジョシュが身を乗り出してきた。 唇が軽く触れて、離れる。 「これも信じない?」 至近距離で微笑まれるとなんだか落ち着かない。 なにか言う事を考えなくては。 「・・・コーヒー、砂糖とクリームを入れ過ぎだ」 そう言ってしまってから後悔した。 今のキスでコーヒーの味なんて分かるはずがないのに。 「味見したいの?」 ジョシュがにやりと笑った。 考えていることを見透かされたようで、悔しくて顔を逸らした。 「なんだかんだ言って、シュンも隠し事は苦手なんだろ」 「・・・そんなことは」 ない、と言い切れるだろうか。 僕が隠していると思っているだけで、本当は知られているなんてことが・・・ 「ん・・・」 さっきのとは比べ物にならないほどの深いキス。 僕は間違っていた。この状態でも、コーヒーの味なんて分からない。 後ろに反り返りそうになって、床に突いていた両手に力を入れる。 あ、倒れる、と思った瞬間 「答えはブラックでした~」 という呑気な声が降ってきた。 予想しない言葉に僕が目を見開くと、ジョシュがいたずらっぽく笑いながら付け足した。 「分からなかったかな?なんか固まってるみたいだったし」 「固まってなんか・・・」 僕はそこまで言って、肩を押されて今度こそ仰向けに倒れる。 カーペットの敷いてある床に軽く頭を打ち付けたが、大して痛くはない。 それよりも、自分の置かれている立場を理解するのに時間がかかった。 予想していなかったといえば嘘になるが・・・ 「本当は今すぐにでも襲いたいんだけど」 自分の心臓の音がこんなに響くものだとは思わなかった。 ジョシュが何を言ったのかよく聞こえない。 僕が訊ねる前に、ジョシュは耳元に口を寄せて 「それは後のお楽しみってことで」 と笑いを含んだ声で囁いた。 ・・・お楽しみ? 全身の血が逆流しているのではないかと感じるのに、数秒もかからなかった。 「一生言ってろッ!」 差し出された手を振り払って立ち上がると 「あ、本気にした?」 とジョシュがおどけたように言った。 「帰る」 「ああ、待って!送ってくから!」 「結構だ!」 「うわ~、久しぶりにシュンが怒ってるよ・・・」 こんなやりとりと繰り返しながら、結局ジョシュは僕の家の前までついてきた。 「グッナイ・シュン」 ジョシュはいつものように言って片手を上げる。 僕が無言でドアを閉めようとすると、寸前のところで呼び止めらた。 無視すると呼び続けるだろうから(実際に何度かあった)近所迷惑にならないためにも 僕は律儀にもUターンをして、ジョシュと向き合うことにした。 「一つ言い忘れてた」 両手をポケットに突っ込んでたたずんでいるジョシュは、薄暗い電灯の下で別人のように見えた。 それとも、僕の眼鏡が曇っているのだろうか。 「俺さ、大学には行かないことにしたんだ」 一緒に図書館で勉強した。 数学の本を読みふけっている僕の横で、ジョシュは歴史の先生になりたいと言っていた。 オンラインで確かめたら合格したと、興奮した声で真夜中に電話をしてきた。 「よかったな」としか言えなくて、後になって他に言うことはなかったのかと自問した。 それでも、次の日のジョシュは嬉しそうで。 僕は、あらためて「おめでとう」と言うことができた。 「・・・受かったんじゃないのか」 水がほしい。 口の中が乾ききって、声が上手く出なかった。 「2年くらい軍に入ろうと思う」 それからでも間に合う、とジョシュは続けた。 「ナイン・イレブン、覚えてるか?」 「・・・ああ」 四年前の9月11日。世界貿易ビルがテロを受けた日だ。 「俺はアメリカの歴史に誇りを持ってるんだ」 ジョシュは続けた。 「イラク戦争に反対してる人も多い。でも、この国が受けた傷はどうなる?」 「戦争は殺し合いだ」 声が硬くなる。何を言いたいのか、痛いほど分かってはいたけれど。 「得るものが大きければ、それでもいいと思わないか?」 「・・・僕は」 自分の世界が平和ならそれでいい。 このまま大学に行って、今までのようにジョシュと会えればそれで。 イラクやアメリカがどうなろうと僕には関係ない。 「僕は・・・」 言えない。僕は自分勝手な人間だ、なんて。 「個人的な考えだからな、理解してくれとは言わない」 ジョシュがふっと表情を緩めた。 「俺が国のために出来るサービスっていったら、これくらいしかないんだ」 「でも、2年だけだ。それからは猛勉強して、教育免許だって取るぞ」 「シュン?聞こえてるか?」 それから、ジョシュは何を言ったのだろう。 僕には彼の声が遠のいているように聞こえた。 「分かった・・・」 無意識のうちにドアに手が伸びていた。 「成功を祈る」 ドアが閉まるまでジョシュから目を逸らせずにいた。 どれくらいの間、玄関で立っていただろう。 再びドアを開けたとき、ジョシュの姿はなかった。
『シュンへ
大学はどうだ? 新しい恋人が出来たなんて言ったら承知しないぞ。 まあ、お前に限ってそれはないと断言できる。 それよりも、俺はお前が苛められてないか心配でたまらない。 頭が良いくせに世間知らずなところがあるからな。 我慢できなくなったら俺に泣きついていいんだぞ。 帰ったらその分だけ、利益付きで抱きしめてやる。 楽しみにしてろ。
俺は相変わらずだ。 戦略が思うように進まなくて、司令官たちはイライラしてる。 俺は下っ端だから何も心配しなくていいと言われた。 そっちでは、ニュースで自爆が何件か報道されてると思う。 ジョシュ・ガーランドの名前を探しても無駄だぞ。 俺にはやらないといけないことがあるから。 何が何でも帰ってみせるぞ。 (それがなんだか、シュンくんには分かるかな?)
もう駄目だ。最近寝不足でペンすらまともに持てない。 それでも時間がある限りは手紙を書くから、覚悟しろよ。
ジョシュより、愛を込めて』
ジョシュからの手紙が山のように溜まるまで、そう時間はかからなかった。 その度にせっせと返事を書いては、ポストに入れるのを忘れ 数週間後に部屋の隅で、切手の貼ってある便箋を見つけてはため息をついた。
『ジョシュへ
ミドルスクールじゃあるまいし、僕が苛められるわけないだろう。 あの頃にだって一度もお前に泣きついたことはない。 お前こそ僕に泣きつきたいんじゃないのか? 溜めていてもどうにもならないし利益もつかないが、胸くらいは貸してやろう。 僕に新しい恋人だって? 帰って自分で確かめたらどうだ?
安心しろ。ニュースでお前の名前を探すなんて無謀なことはしていない。 国中にどれだけのジョシュ・ガーランドがいると思っているんだ? お前のしぶとさは知っているつもりだ。 そんなことをしたら時間の無駄だろう。 幸運を祈る。
(ちなみに、お前のしたいことなんて分からないし、知りたくもない)
シュン』
手紙が舞い込んでくる回数が少なくなり、それと同時に僕は大学のラボに篭る時間が多くなった。 引っ越しと研究に追われて、いつの間にかニュースも見なくなった。 戦争はまだ続いているが、ここでの生活はあまりにも落ち着いていて、いまいち実感がない。 テロ、自爆、暗殺・・・そんなものは、スクリーン越しから見れば映画と変わりはなかった。 あれから、もう2年以上経っている。ジョシュは帰ったに違いない。 新しい住所と電話番号を送ったはずだが、届いていないのだろう。 僕が忽然と姿を消したとでも思っているのかもしれない。 連絡がつかなくて呆気にとられているジョシュの姿を想像して、おかしくなった。
心地良いくらいに寒い日、昔は毎日のように歩いていた道を辿って、ジョシュの家の前まで来た。 植木には蜘蛛の巣を催したスプレーがかけられ、玄関前には大きな南瓜が数個転がっている。 ああ、今日はハロウィーンだったな。 8年生の頃、ハロウィーン・パーティに招待されて、初めてジョシュの家族に会った。 確か、5年下の妹がいた。今頃では高校生になっているのだろう。 煉瓦で敷かれた道を歩いているうちに、ブザーを鳴らすとジョシュが勢いよくドアを開けてくれるように思われた。 いつかジョシュが、俺の家のブザーはマヌケな音がするんだ、とおかしそうに言っていたが 今では聞き覚えのない音になっている。 手袋をしてくればよかった、とすっかり冷たくなった両手に息を吹きかけた。 「ハロー」 髪が半分以上白くなっている早老の女性がドアを開けて、穏やかな声を出した。 ジョシュの母親だ。深緑の目がジョシュと良く似ている。 間を空けすぎると不審がられるので、僕は早口に言った。 「こんにちは。覚えていないでしょうけど、僕は・・・」 「待って、言わないでちょうだい。ジョシュのお友達でしょう?」 彼女は僕の名前を思い出そうとしているかのように、一瞬だけ視線をうろつかせた。 「シュンさん…でしたわね。ごめんなさいね、顔は覚えているのに、名前が出てこなくて」 「いえ・・・あの、今日お邪魔したのは」 「それも分かっているわ」 どうやら彼女は僕の言いたいことが分かっているらしい。 僕がジョシュを訪ねて来たと当てるのは難しくないだろう。 「とりあえず、中に入りませんか?お茶を淹れますので」 「・・・いえ、結構です」 何が僕にそう言わせたのだろう。 彼女の疲れきった表情なのか、それとも・・・ 「では、少しお待ちくださいね」 ジョシュの母親はそう言うと、早足で家の中に戻っていった。 僕は、この場から離れたい衝動に駆られた。 足が動いたなら、すぐにでも煉瓦の道を走って逃げただろう。 「住所と電話番号はここにあります。あなたの顔を見たら、喜ぶでしょう」 白いインデックスカードを渡され、僕はまともな礼も言えず、ただ 「・・・ありがとうございます」 と頭を下げて、来た道を戻った。 今頃になってまだ日本の習慣が残っているなんて。 「そんなにお辞儀して、日本人は神に拝みたいことでもあるのか?」とまたジョシュに笑われるだろう。 今なら、僕ははっきりと答えられるだろう。 ああ、あるよ。 叶わないと分かっていても、祈らずにはいられないことが。
手の力を緩めた途端、インデックスカードが滑り落ちて、道端に掃きためられた枯葉の山に混ざって見えなくなった。 一瞬でも、それを拾おうと手を伸ばしかけた自分に、無駄なことをするなと言い聞かせる。
彼の墓地の住所と電話番号を綴った字が、僕に届く日は来ないだろうから。
“Farewell, my friend.”
この言葉が届けば、それでいい。
|