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 (関西弁一人称。自殺未遂。痛め。シリアス。/--)
涙・痕。


 
 目が覚めて一番最初に思ったことは、『なんや、生きとったんか』だった。
 死なないことを想定していなかったから、その事実は肩透かしを食らった感じで、なんとも形容しにくい気分を味わった。
 両親には散々どやされた。何故だか昔から嫌われていた俺は、彼らにとっては汚点でしかなく、これ以上恥をかかせるなと殴られた。できがよく、両親の愛を一身に受けている兄は、侮蔑を込めた視線で俺を一瞥しただけだった。
 何故、死ななかったんだろう。
 もっと手首は深く切るべきだったのか。それとも、手首ではなく首を切るべきだったのか。
 何はともあれ、俺はこうして生き残ってしまった。
 病室という名の白い檻のなか、意味もなく生かされている。

 トントン。
 檻の扉をノックする音が聞こえた。
 珍しい。こんなところを訪れる人間がいたなんて。
 しかもノックする分別まであるときたもんだ。
「はい」
 返事をすると、扉が開いた。花束を持ったひとりの人間が入ってくる。
 いや、コイツこそ、花束なんて全然似つかわしくない、一頭の猛獣だ。
「何しに来たん。襲いに来たっちゅうんやったら、ここ病室やしやめた方がえんちゃう」
 檻のなかの弱い犬は猛獣に向かって吠えたてる。
 猛獣は、高校のクラスメートだった。
 そして、俺を女のように無理やり犯したヤツでもある。
 猛獣は俺の手首に巻かれた包帯に気付いた途端、形相を変えた。
「……痛ッ」
 突然、猛獣に頬を叩かれた。
「なにすんねん!」
「自殺なんてアホなマネするからじゃ!」
 猛然と怒鳴ると、それ以上の剣幕で言い返された。見たこともない鬼気迫る表情。呆気にとられて何も言えずにいると、ヤツの表情は一変して苦々しいものになる。
「俺のせいか? 俺が無理やり……」
「ちゃう。お前のせいやない……」
「ずっと謝らなあかん思うてた、あンときのこと……」
 別に猛獣のせいじゃない。
 それは嘘ではなく、けれど本当でもなかった。厳密に言えば、自殺のきっかけになっただけで、原因じゃないというところ。
 俺は日々、自らの存在について疑問を持っていた。
 家族という、子供が一番最初に体験し、かつ一番近しいはずの社会から疎まれ、幼い頃から他人を信用しないことによって自己を守ってきた俺に、親しい友などできるわけがない。
 社会が、他人との関わり合いによって成り立つものだとしたら、俺は社会を構築できていない。それはつまり俺の存在など、この世界にとってなんの意味も持ち得ていないということ。
 残念ながら、それでも自分は生き抜いてやるぞ、と思える図太さを俺は持っていなかった。
 結論を見出しかけていた頃、この男に襲われた。放課後の教室で。
 ヤツは人間不信の俺が、もしかしたら初めて信用できるかもしれないと思えた男だった。何がどう信用に値するか解っていたわけではないけれど、そばにいるとなんとなく安心できると感じたことがあったのだ。
 この男がいたから、俺は結論を下すのを躊躇っていたのに。
 そんなヤツに、女のように抱かれ、哭かされ、所詮性欲の捌け口くらいでしか俺の存在価値などないのだと思い知らされた。
 意味のない生ならば──いっそ断ってしまえばいい。
 痛む身体を引きずり校舎を出た。下駄箱を通過し、体育館前に差し掛かったところで力尽き、その場に頽れた。そのとき偶然、落ちた鞄の中身が散らばり俺の目に筆箱が映ったんだ。
 考える時間はいらなかった。
 咄嗟に手を伸ばし、そこからカッターを取り出した。
 刃を長めに出すと、手首に当て、俺は渾身の力を込めてカッターを引いた……。
「…もしかして、俺を助けたんて……」
「俺や。お前が無言でおらんことなってもォたから、急いで追いかけてん……そしたら…」
「…おおきに。そやけど……次は助けんといて」
 そう言ったら、猛獣が顔を歪めた。
 俺はそんなにお前を傷つけてもォたんか、と言いたげな表情。
 傷つけられたのは俺なのに、どうしてコイツがこんな顔をするのだろう。見ている方まで苦しくなるような顔。
 目を背けて、俺は続けた。
「こっちのホッペな、まだ腫れとるやろ。親父にぶたれてん。親の顔にドロ塗るな、言うて。おかんも兄貴も汚いモン見るよォな目ェで俺を見た。担任は一度来たきりで、後はもう我関せずやし、俺に友達はおらんから看護婦とか医者以外だァれも来ェへん。そんな中で図太く生きてけるほど、強い奴違うし、俺は…」
 気まずい空気を払拭しようとワザと明るく言ったのに、言葉に詰まってしまった。
 猛獣が泣いたから。
「…ッく、…う……」
「ちょ、ナニ泣いてんねんっ…」
 憐れみなんて絶対にお断りだ。だって俺があまりにも情けない存在みたいじゃないか。
 なのに、ヤツの涙を見た途端、俺まで涙を零してしまった。
 バカみたいに垂れ流れてきて、自分では制御できなくなる。布団やシーツ、手首に巻かれた包帯が濡れるのもお構いなしに、俺はわんわん泣いた。猛獣も泣いていた。
 泣きすぎると、自分を支えるものがなくなったみたいで、おぼつかなくて猛獣にしがみついた。
「俺だけや、アカンのか…? 俺がお前を必要としとっても、それでも死のうとするんか…」
 猛獣は俺を抱き締めながら、泣き濡れた声でそう言った。
「あかんっ…あかんよ…もしお前が俺ンこといらんことなったら…俺、今より、苦しくなる、やんかぁ…ッ」
 口ではあかんと拒絶しても、猛獣に抱き締められる心地よさと腕のなかのあたたかさを知ってしまったら、もう離れられないと解っていた。
「そんなんあるわけないやろ! 俺はいらんことなったりせん。お前がいらん言うても、俺はいる! 好きやから……好きなんや…」

 好きと言われた。
 俺の人生で初めて。

 猛獣は強い男だ。
 いつか俺をいらないと思う日が来ることは当然のこと。猛獣にいらないと言われる日をビクビク怯えながら待つなんて、俺にはできない。
「ヤや、言うな…言うなっ」
「なんぼでも言うたる。好きや、好きやで、ホンマに好きやから……信じて、俺を」
 俺は何度も何度も首を横に振る。
 信じるなんて無理やよ、猛獣。
 他人を信用すんのを放棄することで、俺は自分を守ってきたヤツやから。
 いつまでも首を縦に振ろうとしない俺に焦れた猛獣は、いきなり俺の左腕を掴んだ。そこに巻かれた包帯を、むしり取るように解いてしまう。
 縫われて、まだ抜糸されていない傷跡は、俺の苦しみであり、俺のすべてでもある。
 それを見て猛獣は眉根を寄せた。憤りや歯痒さや、切なさなどいろんな感情が綯い交ぜになった顔。
「もしも俺がお前を必要なくなったて言うたら、躊わずに殺せ」
「ぇ…」
「自殺する気力があったんやったらできるはずやろ。でもって俺が死んだの確認したら、思う存分死んだらええ。そンときに自分を止めるヤツがおらんかったらな」
 なんてムチャクチャなことを言うんだろう。
「俺に殺人犯になれて?」
「オモロいやろな、男同士の無理心中てニュースで言われんねやろか、なぁ?」
「……アホ」
 本当にアホらしくて笑ってしまうと、猛獣も微笑んだ。露になった傷跡に唇を近付ける。優しく触れるキスを落とし、言葉を次いだ。
「ここに残るやろう痕に誓うわ。せやから、自分も誓いィ」
「何を」
「俺は弱い男やから、俺を捨てんて、そう…」
「なに殊勝なこと言うてんねん。お前が弱かったら世界中のヤツらが激弱やっちゅうの」
 軽口を叩きながらも俺は猛獣の頬に手を添える。
 そこにあるのは、微かに見える、涙の流れた跡。
「…俺は捨てんよ、絶対に。やから自分が俺をいらんて言うたときに、躊躇せんとバッサリやったるて誓う」
「バッサリ?」
「ん、バッサリ」
「あんまし痛いのは勘弁やで」
「ほなものすご痛くしたるな」
 頬にキスすると、少しだけしょっぱかった。
 猛獣の涙の味。
「好きやで、忘れんといて、信じて…好きなんやで……」
 囁かれ、唇にキスされる。




 いつか捨てられることも、たとえこうして誓ったって猛獣を殺せないことも、そのとき俺が死ぬのを止める人間がいないことも、すべてを承知でキスをする。
 結局俺は、誰も信用することなく生きて、誰にも想われずに死んでゆくのだ。
 だけどきっと、どんなに誰かを恨んだとしても、この猛獣だけは俺の心にあたたかな存在としてあり続けるのだろう。
 それは悔しくもあり哀しくもあり、嬉しくもある。
 願うことは、一日でも長く、猛獣に必要とされる日々。




 猛獣に捨てられて死ぬ俺が、最後に思い出すのはなんだろう。
 きっと、頬にうっすらと見える涙痕。

 そして、自らを弱いと罵った猛獣の、誠実で不器用な、優しい愛の言葉。


 
「こんな痛い話ばかりではありませんが、当サイトにも興味を持っていただければ幸いです。」
...2005/10/25(火) [No.247]
清汰
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