*徹夜明け、伸びかけの髭
午前二時
あーもうっ。なんで締め切り間違うかなぁ。
でもナイス人選だぜ人事サン。あいつは編集者の鏡だ。普段笑顔を絶やさないあいつが、目に涙を溜めて謝りに来たら俺なら書いちゃう。一晩で一か月分の仕事だって上げちゃうよ。
というわけで一応売れっ子コラムニストの俺は明日までの締め切りの仕事を三本抱えることになってしまった。二本でも死にそうなのに、三本だ。解散だ総選挙だと騒がしいこの時期、政治のコラムを書く仕事をしている俺は過剰なまでの労働を強いられる。まぁ稼ぎ時って言っちゃそうなんだけど、もう二日寝ていないとなるとそろそろ自分の体の心配もしなくてはならない。
そう思いながら機械的にキーボードを叩いていく。資料分析に思わぬ時間を取られてしまったので、書きあがるのは少なく見積もってもせいぜい六時。
でもこれで最後の仕事なので、これが終わればぐっすり寝れるわけだ。眠いのを通り越して脳みそをたこ焼きのようにくるくる回されている気分の今となってはそれがキーを叩く唯一の原動力だ。てかさすが物書き、今の脳みそたこ焼き現象はナイス表現だ俺。
午前四時
眠気からか、もはやモニター以外のものは視界に入らなくなっていく。この文章を本当に自分が打っているのかどうかも曖昧だ。パソコンが勝手に書いてくれちゃってるんじゃないかという気さえする。俺、そろそろやばいかも。
脳みそはたこ焼きを通り越してもんじゃ焼きだ。惰性で成り立つこの空間に、それを破るような音が響いた。最初は何の音かわからなかったが、それは紛れもない電話の着信音であって、こんな時間にかけてくるのはやはりあいつしかいないのであった。電話までは三メートル。できれば椅子から立ちたくない。ベルが五回なった後、ようやく俺は椅子を立った。ずっと同じ姿勢だったせいか違和感を感じる腰を反らして、それからゆっくり受話器を取った。
「………。」
なんだ。無言電話か。まったくもう。もう受話器を置くのすら億劫だぜ。
「…先生?」
ああ、やっぱあいつか。そうだ、先生だよ。
「先生?生きてますか?」
死んでたら電話出れねぇよバカじゃねぇの?
「聞こえないんですか先生ー??」
あーもーうるせぇ。聞こえてるよ。
「なんでしゃべんないんですか先生、どうかしたんですか?!」
…あ、そっか。俺が口開かないから会話成立しないのね。なるほど。これも眠気のせいか。
「なんか用。」
ようやく出てきたのはかすれた低い声。ワイルドっちゃあ聞こえはいいけど、俺のそれは人の怖がる類のものだ。
「ああ、よかった。別に大した用じゃないんですけどね、明日…ってか今日か。今日の十時に原稿上げてもらわないとマジで間に合わないんですよ。もうホント申し訳ないんですけどね。で、僕は何時に原稿取りに伺ったらいいでしょうか。」
あーもう、会話するのも面倒。こいつなんでエスパーじゃないんだろう。
「先生…?せーんーせーいーーー!!」
うっせぇ。受話器を耳から遠ざけながらそう思う。なんでこいつこんなに元気なんだ。
「六時には上げる。ポスト入れとくから適当に取りに来れば。」
これは締め切り云々よりも俺の健康に関する問題だからな。うん。六時は譲れない。連続四十時間労働は人として危険だ。
「六時ぃ!?先生本当に人間ですか、だって先生書き始めたの日付変わってからでしょ!?」
ああそうだ。俺は脳みそもんじゃのスーパーコラムニストだからな。
「じゃあ俺六時に伺いますんで。こうなったの俺の責任だし…」
あ、別にいいのに。俺今脳みそもんじゃだから会っても茶とか出せないよ。
「先生?聞いてますよね。じゃあ六時に。」
午前六時
呼び鈴を一回鳴らしてから黙ってドアを開ける。この時間じゃさすがに近所迷惑だ。
仕事部屋をノックするが、返事はない。先生は机に突っ伏して眠っていた。その下には僕が取りに来た原稿、それを先生の下からゆっくり引き抜く。するとぱらり、と小さな紙片が落ちた。不審に思って拾い上げると、そこには僕の名前と短い言葉。
「今回のことは気にしないで下さい。無理をしないように。」
しないように、あたりからは字がよれて読みづらくなっていた。相当眠かったのだろう。無理をしないように、なんて一体誰に向けて言っているのやら。
ゆっくりと先生の髪に触れる。なぜそうしたのかは分からないけれど、その時僕はそうせずにいられなかったのだ。
僕がそれをポケットにしまって帰ろうとすると、先生がゆっくりと起き上がって不思議そうにこちらを見ているのが目に入った。
先生は僕を見つめたまま、何も言わない。髭はうっすらと伸びていて、少し長めの髪はぼさぼさだ。それがいつもの精悍さに拍車をかけているようで、僕はどきっとしてしまった。
もう三十も後半だというのにこの色香。僕が先生に見とれて立ち尽くしていると、先生はゆっくりと口を開いた。
「頭、触った?」
ぼそっとそう呟く。僕が何て答えていいかわからないでいると、先生は僕に近づいてきてこう言った。
「俺も、触ってみていい?」
一瞬なにを言われたのかわからなくなった僕は、ただ頷くのが精一杯だった。先生の手ががゆっくりとの髪に触れ、そしてそれが背中に降りて、それから優しく抱きしめられる。ああ、やっぱり先生って背高いなぁ。俺が七十五だから、八十五は難いなぁ。
そんなことを考えているうちに先生の体は離れていき、頭上から低くて優しい声が響いた。
「おやすみ」
end
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