その書生姿の少年は、いつでも釦を一番上まで掛け、どんなに暑くとも外すことをしなかった。 伏せ目がちでおとなしく、常に相手を気遣った様子の彼を見ていると、何故だか自然と克己心(かっこしん)が湧いてくる。 地主の家の次男坊として生まれた私は、放蕩息子と呼ばれて育ち、その放蕩ぶりを生かして書いた私小説が文壇で認められ物書きの世界へ入ることとなった。今では書生を住まわせる程度には稼ぎもある。 「先生」 耳に痛いほどの明るい声で、彼が私を呼んだ。もう昼飯時かと立ち上がる。 書斎から居間へと続く縁側を渉る際、庭に植えた茄子の枝に、たわわに実った実を見つけた。ちょいと採ってやろうかと考え、いや待てと思いとどまった。 あの実はおそらく彼が心を込めて育てたものだろう。ならば収穫する喜びも彼に味わわせてやりたい、と。 居間に入ると、彼が膳を揃えていた。 「今日は暑いね。もう梅雨も明けてしまったかな」 「いいえ、先生。明日にはまた雨が降りますよ。今日はたまたま中休みなんでしょう」 「雨も休みたいときがあるんだな。私もたまには休みたいよ」 「先生はいつでもお休みだって、書賈(しょこ)の木内さんが仰ってみえましたよ」 「逆だよ。彼が休みすぎなんだ。もっと働いてくれたなら私は今よりいっそう楽になれるというものさ」 そう言って返すと、彼はふふっと笑いを漏らし、私の向かいに腰を下ろした。 卓袱台に視線を落とす。茶碗に盛られた飯と味噌汁、黒ゴマを振った粉吹き芋と瑞々しい生野菜だった。 「あ、そのお野菜、今朝方中田のおばあさんがいらして、届けてくださったんですよ。塩揉みにしようと思って川水で冷やしておいたんですが、食べてみたらずいぶん甘くて。お嫌でしたら味付けをしますけれど、騙されたと思って召し上がってみてください」 朗らかに言う彼の、笑顔が眩しい。 私は少し視線を逸らし、おやと思った。 普段なら一番上まで掛かっているはずの釦がひとつ外されている。そこからわずかに覗く肌と鎖骨。 私はすぐさま氷肌(ひょうき)という言葉を連想した。 私の視線と、その注がれている場所に気づき、彼は慌てて衿を正した。 「すみません、はしたなくて……」 「いや、構わないよ。暑かったのだろう? いつも真面目で懸命なのは君の美点だが、融通が利かないのはいけないな。この家は私と君の二人だけ。今は客人もいない上、おまけにこの暑さだ。さらに私は他人の服装などたいして気にかけないときている。 さて、どうしたものかな」 わざと冗談めかして宣うと、彼はおずおずと手をどかした。 再び、彼の氷肌にまみえる。 「……先生はお優しすぎます」 「優しい? 私が?」 「ええ。書生仲間で話していると、本当にそう感じます。いかに僕が恵まれているかと。 会沢のお屋敷の書生はまるで使用人の扱いで、勉学をする暇などないと言っていましたし、鯛屋の家に住んでいる書生はたまにいないような扱いを受けるんだそうです。 それに比べ、先生は僕に無理など仰らないですし、僕を同等のように扱ってくださいます。こうして食事も一緒にしますし……」 君は勘違いしているよ。 私は優しいのではない。 私の舌から垂れ流される言はすべて詭弁でしかない。 私は優しさに託(かこつ)けて、君のその滑らかな素肌を拝みたいだけなのだ。 今こうしている間にも、私の瞳は君の肌を食い入るように見つめている。 しかし、これはいったいどういうことなのか。 君の見せた小さな綻びが、私の克己心をよりいっそう強固なものにしてしまった。 世の中には、壊してはいけないものがある。 私の穢れた手がひとたびこの幼気(いたいけ)な少年に触れたら最後、彼はたちどころに脆くも崩れ去ってしまうだろう。 侵してはいけない。 乱してはいけない。 ただただ、見つめていよう。 すぐそばで、静かに見守っていよう。 もう疾とうに忘れてしまったはずの、青く、拙い感情が私の胸に去来する。 涙が出そうだった。 茶碗を掴み、盛大に飯を頬張る。何かを飲み込まなければ、涙を堪えられそうになかった。 「先生、そんなに急いで掻き込むと……」 彼の言葉が終わる前に、私は噎せた。彼がすぐさま機転を利かし、湯飲みを私に手渡す。受け取り、急いで飲み干すと、横から伸びてきた手が私の背を摩った。 「ほら、噎せてしまうじゃないですか」 耳を擽る軽やかな声。そちらへ目を向けようとすると、目前に迫っていた開け放たれた衿から肌が見えた。 背を曲げている私に寄り添うような角度は、先ほど正面から見つめたときよりもさらに、彼の肌を露にした。 一筋の涙がこぼれた。 私にはもう、止めようもなかった。 「大丈夫ですか? そんなに苦しいですか?」 涙の理由を図り違えた少年は、不安げに問うてくる。 穢れなど知らない、無垢な視線が私に注がれた。 「……大丈夫だよ。君がそうして摩っていてくれると、楽になれる……」 「……よかった。僕、先生のお役に立ちたかったんです。こんな些細なことでも、先生の助けになるのなら……」 彼は照れ笑いを浮かべた。その間も、背を摩る手は休めない。 「……君は……充分私の助けになっているよ。 君は私の見えないものや聞こえないものを見、聞き取る力を持っている。そんな君の話を聞くと、とても新鮮な気持ちになれるよ。小説の発想も湧いてくるしね」 「見えないもの……、聞こえないもの?」 不思議そうに口の中で小さく言い直した彼に微笑み返し、姿勢を正す。彼から身体を離した。 「もういいよ、ありがとう」 「いえ………」 私は礼を言うと、中断していた食事を再開する。彼も隣から向かいに戻り、食事を開始した。 妙な沈黙が続く。 どちらとも黙々と箸を進めるばかりだ。 軒先から燦々(さんさん)と日の光が差し、古びて褪せた畳を照らす。 この時期特有の蒸し暑さ。空気の流動はささやかなもので、纏わりつくような暑さを助長させるにすぎなかった。 蝉の鳴く声がする。庭の木にとまっているのだろうか。 その声はやけに近い。裏の山で鳴く蝉たちの声に混じって聞こえてきた。 遠く、近く、張り上げた声が夏を喚起している。 「……そういえば、」 「ん?」 沈黙を破って彼が唐突に言った。 「もうこんなに蝉が鳴いてますけど、最初に鳴き始めたのは昨日からなんですよ」 「へぇ」 「昨日、お昼を食べてから洗濯物を干していたら鳴き始めたんです。驚きました。いつも気づけば鳴いているものだったから。 それから、その後しばらく雨が降ったんですけれど、夕方にはきれいに晴れて鮮やかな虹が出ていたんですよ。先生、お出かけでいらっしゃらなかったけど、もしいらっしゃったなら一緒に見たかったです。本当に見事だったので」 そう、まさしくこれだ。 私に見えないものを見、私に聞こえないものを聞く。 私にしてみればなんの他愛ない繰り返しのような日常が、君にしてみれば無限の広がりを持つ世界なのだろう。 だからこそいとおしい。 触れることが適わないのだ。 彼のそばにいることは、私の穢れを露呈することにもなりかねないが、それでも構わないと思えるほど、私に輝きを見せてくれる。 連続でしかなく、事務的だった毎日が、彼を通して確実に感動と光を伴ったものへと変化する。 「……木内のところへ出す小説の構想が湧いたよ」 「あの再三催促されていた作品ですか? 「繁雨(しばあめ)」でしたっけ」 「それはやめた。どうも身が入らなくて」 「じゃあ新しい作品なんですか?」 「ああ。表題は……「半夏生(はんげしょう)」というのはどうだろう。冒頭はこうだ。『最後の蝉の声を聞いた少年。夏が去り、秋が始まる。』」 「先生、それって……」 彼は目を瞬(しばた)いて、私を見つめている。まるで正気かと問い質さんばかりの気迫を感じた。 「時間を少し遡って、夏の始まりから物語は始まるんだ。 主人公はね、とてもいい目と耳、それから心を持っているんだよ。彼のそばには心の捻じ曲がった男を置こう。生きることに疲れを抱いている男だ。けれど、彼は少年の影響で、次第に美しい風景を取り戻してゆくんだよ。 ありふれた話だとおもうかい?」 「先生が執筆されるものならどんな題材でもきっとすばらしい作品になると信じています。ですけど、その主人公に先生はもったいないと思います。それにきっと木内さん、驚かれますよ。これまでの先生の作品とは趣が違うから」 彼は首を振りつつも、不安や当惑を隠せない表情で言った。 言いたいことは私にもわかる。私はこれまで、どちらかというと性悪説の概念を元に作品を書いてきた。登場人物は誰もが胸に一物を抱え、腹の探り合いばかりをするような、露悪的な人間ばかりだった。私の作品はそういう類のものとして認められ、かつ期待されてもいたわけだ。彼の驚きも無理はない。 「私だって、時には違ったものも書きたくなるさ。木内には悪いが、今回はあまり稼ぎにならないかもしれないな」 悪い、と言いながら、一向に悪びれない口調で笑う。 たまにはそんなものもいいだろう。 人間、闇にばかり紛れていると、光の当たる場所に近づけなくなってしまう。 私には幸いにも彼がいた。 光を本当に恐れ、闇に溶け込んでしまう前に、私も光を見ておこう。 私の見える光を、書き綴っておくのだ。 「今はまだ夏の始まったばかりだが、書き終えるころには夏も終わっているだろう。時期としては悪くない」 「……楽しみにしています」 「あぁ、木内よりも先に君に読んでもらうから、心しておいてくれ」 私の言葉に、彼はやっと晴れやかな笑みを漏らした。 箸を置き、「ごちそうさま」と一言言って立ち上がる。 話が決まれば書き始めるだけだ。 さっさと書斎へ足を向ける。視界の隅に庭が映り、思い出したように踵を返した。 「そういえば、庭の茄子がずいぶん大きくなっていたね」 「あ、そうなんです。こんなに巧く育てられたのは初めてだったから、先生にぜひ見ていただきたくて、採らずにそのままにしていたんですよ」 彼は言った。 私は瞠目し、思わず噴き出してしまった。 「私も君に喜んでほしくて報告したんだよ」 「え?」 呟きは小さなもので、食器を鳴らしながら片付けていた。彼の耳には届かなかったようだ。 私は何も言わず笑みを浮かべ、背を向けた。 背中に少年の視線を感じる。 彼は今、おそらく不思議そうな顔をしているだろう。 その表情を想像すると、我知らず顔が緩む。
庭には茄子。彼の育てた名も知らぬ花々。 緑陰を落とす木々が大空の青に滲まぬよう、背を反らして佇んでいる。 私は書きかけのまま机上に置いてある原稿をその辺に放り出し、何も書かれていない真新しい原稿を広げる。 この作品に資料など必要ない。 すべては私のみが知る。 喜びも哀しみも、痛みも苦しみも。私の抱く、遣りきれない切なさも。 梅雨は明け、蝉が騒ぐ。 これから夏本番だ。 半夏生の昼下がり。 なんとも言えない清々しい気持ちで、私は筆を執った。
fin
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