朝日がカーテンの隙間から、眩しく差し込んでいる。その光に起こされるように俺、篠崎織(シノザキ シキ)は目を開けた。そしてぼんやりと隣りを見る。 まだ、いる。 視線の先にいるのは俺の腰に手を回して眠る男の姿。 彼は眠っているにもかかわらず、どこか威圧的な雰囲気を纏っている。額にかかる黒髪は乱れ、野性的な男らしさを感じさせた。 …やっぱし怖い。 起こさないように静かに身を捩り、男の腕からすり抜けようとすると、逆に強い力で抱き込まれてしまった。 「どこ行くんですか」 「…起きとったん…」 「どこ行くんかて訊いとるでしょう。答えて下さい」 「学校行く準備する。今日は早いし…いろいろせなァかんことあるし…」 俺は身を固めながら極力男と目を合わさないよう、視線を逸らしながら言った。 「早よ用意せなかんのや…腕、放して…」 怯えながらも懇願すると、意外なほどあっさりと腕は解かれた。驚いて思わず男の方へ向き直ってしまう。 「…なんですか、その目は」 「ぃ、いや…」 敬語を遣っているのに丁寧に聞こえない口調。 前はこんなんやなかったのに…。 苦い思いを胸に感じながら、俺はベッドから這い出る。腰に疼痛を感じ、一瞬昨夜の情事を思いだした。
今日は俺の勤める公立高校の卒業式が行われる。 カーテンを開けると爽やかによく晴れた、薄青い空がある。 熱血タイプではないが生徒思いだと自負する俺は、恵まれた天気に安堵の息を洩らす。天気が生徒の先行きを暗示しているとは思わないが、曇りや雨よりは晴れがいいに決まっている。 「…先生」 「ちょっ…香坂(コウサカ)」 突然背後から抱き締められ、力強い腕の中でもがく。 「放っ…ドコ触ってんねんッ……ん」 パジャマの上から敏感な場所に触れられ、か細く喘ぎを上げてしまう。だが、その手は俺が拒絶を示す前に離れてしまった。それと一緒に彼自身も離れる。そしてクローゼットのハンガーに引っ掛けてある制服を手に取った。 彼の行動に違和感を感じた俺は香坂を凝視する。だが、俺に見つめられているのも気にとめず、彼はじっと微動だにしない。ただ制服を眺めているだけだ。 彼、香坂蛍輔(ケイスケ)は俺の担当クラスに所属している。要するに、本日の卒業式の当事者だ。 手早く朝食を用意すると、当然のように彼は食卓についた。俺が座ったことを目の端で確認すると、小さく「いただきます」と言って即席の和食を口にする。慇懃無礼な彼だがごく一般常識的なことは心得ているのだ。信じられないことではあるが。 この光景は、半年前から始まった。 俺が香坂に強姦された日から。
あの日、西側のやけに赤い空が目に痛かった。俺は顧問をしているサッカー部の部室で雑務をやっていたんだ。そのとき、突然現れた香坂に有無を言わさず押し倒された。 口に彼のカッターシャツを突っ込まれ、痛みの声も拒絶の言葉もすべてが呻きにしかならなかった。 『んっ…んンッ』 『すんません先生っ…大人しく、しとって下さ、…ッ』 俺を突き上げながら吐き出された香坂の声がひどく弱々しくて、俺は被害者なのに、彼が憐れで何も言えなかった。 それからというもの香坂は三日と置かず俺を抱いた。 生徒と教師のこの奇妙な関係は、憐憫と快感を伴いながら、俺からは切り離せないものとなってしまったのだ。それどころか、無理にでも身体を繋げられるようになるうち、いつしか俺は彼に対し憐憫とも愛情ともつかない感情を抱くようになってしまっていた。 だが、それらは諦めではなかった。男の、しかも生徒である香坂に組み敷かれる屈辱は耐えがたいものだったのだ。けれど、抵抗したとしても俺に分はない。体格があまりにも違っていたから。 香坂は見るからに『雄』タイプ。誰が見ても「男らしい」「カッコいい」など彼を褒める感想しか浮かんでこないだろう。 対する俺は、「もやし」などと呼ばれからかわれていた幼少期を持ち、成長した今でも薄っぺらいと生徒にバカにされるのである。 そんな二人の力はもはやどうしようもないだろう。 男同士の恋愛を否定しているのではない。俺自身、無理矢理抱かれる前は彼の男らしさに密かに憧れていた。だから同性に惹かれるということは実際あってしかるべきだろう。 だが、そんな理性や常識でものごとを割り切ってしまえるほどには、俺も大人ではなかったのだ。 だいたいにして、「好きです」の一言すらもらっていないのだから、恋愛も何もないのだが…。
「先生、急がんでええんですか?」 「ぇ…あっ」 時計はすでに7時30分を示していた。俺は急いで朝食をかき込みバタバタと準備を進める。 歯磨きをしたあと鏡で顔をチェックする。俺はなかなか髭が生えないタイプだから、髭剃りはしなくても問題ないのだ。情けないことに。 パジャマを脱ぐときはいつものように躊躇った。香坂がこちらを見ているから。 「先生、早よ着替えんと出勤時間迫ってますよ」 「ぅ、うん…わかってる」 仕方なくパジャマを脱いだ。だけどなるべく香坂の視線から逃れられるよう、扉の陰に身体を隠した。 急いでスーツを着込む。ブリーフケースを掴んで玄関へ向かった。 「香坂、遅刻せずに来るんやで」 「わかってますよ」 「…それから、……」 先の言葉を続けるべきか少し逡巡し、そして意を決して言ってみた。 「戸締まりしたら、ポスト入れといて…」 けれど、香坂からの返事はなかった。その沈黙と香坂からの視線が、無性に俺を責めている気がする。 「…ほな」 耐えきれなくなって急いでドアを閉めた。視線が遮断され、圧迫感が一気に薄れる。香坂と言えども、物質を越えてまで存在感を示すことは不可能だったようだ。 学校までは徒歩10分。ゆっくり歩いても今ならまだ間に合うけれど、俺は足早に歩きだした。早く家から離れたくて。 だが、香坂との関係ももう終わる。卒業してしまえば、元教え子と元担任というだけ。 たったそれだけ。 身体を繋げたからといって恋人ではなし。俺の中にあるのは屈辱と憐憫と愛情。香坂なんて、俺に対して何を考えているか解ったものじゃない。 「…ええねん……もォええねん」 自分に言い聞かせるために声に出して言ってみる。 もういいのだ。 香坂が鍵をポストに入れた瞬間に、俺たちの関係は終わるのだから…。
「センセ、顔色悪いんとちゃいますか? しんどいんやったら向こうで休んでて…」 「いえ、もうすぐ…もうすぐうちのクラスの番ですから」 朝から少し身体がダルいと感じていたが、卒業証書を授与するときになって、それがピークに差し掛かっていた。 原因は多分、夕べのアレだろう。 タチ──いわゆる男役と違い、ネコはセックスの際かなりの重荷を背負う。精神的にも肉体的にも。前者の場合は解消されることもあるだろうが、真性の同性愛者、もしくは余程相手を愛していなければかなり無理がある。 後者は決して解消されることがない。本来とはまったく別の用途で使用する場所と、プラス腰に掛かる多大な負担。 今でこそ快感も感じえるが、最初の頃など本気で死ぬかと思ったほどだった。拷問だと断言できるくらい。 それに、昨夜はやけに香坂が強引だった。強姦されたとき以来なかば無理矢理の行為ではあったが、香坂はそれなりに優しく俺を抱いた。最初にあまりにも流血したのを気にしていたのか、挿入行為に入る前は特に念入りに、慎重にしていたのだ。それが夕べは、泣いて赦しを乞うてもやめてくれず、俺が果ててもどこまでも追い上げ続けた。 いったい何故、彼はあんなふうに俺を抱いたのだろう。 これまで何度考えても見出だせなかった答えを、俺は再び探そうとした。 「以上、3年2組40名。代表、青木眞治」 「ハイ」 俺の担当クラスは3組だから、この代表者が卒業証書を受け取って降壇している間に、生徒の名前を呼ぶためにマイク前まで行かねばならない。 ふらふら頼りない足つきでマイク前へ向かう。照明の下でクラス名簿に目を通す。 こんなとき真っ先に目に飛び込んでくるのは、出席番号1番の『石川秀人』ではなく、11番の『香坂蛍輔』。 不毛というか、アホというか。 嫌いになってしまえたなら、憎しみだけで終われるのに。 2組の代表者が降壇し、着席した。俺が名前を読み上げる番だ。 「…3年3組。石川秀人、犬飼孝文…」 生徒の名前を一人ずつ呼ぶ度に、動悸が激しくなった。 体調が悪化しているせいだろうか。それとも、もっと別の理由があるのか。 声が震えそうになるのを必死に堪えた。香坂の前で、弱さをさらけ出すのは絶対に嫌だったから。 「久嶋充…」 次だ。 「…香坂蛍輔…佐藤義明」 呼べた。だけど、声は震えていなかっただろうか。香坂に怪しまれていないだろうか。 頭の中は不安や疑問符でいっぱいなのに、日頃のクセで名簿はなんなく読み上げることができた。 「以上、3年3組39名。代表、阿部幸子」 「はい」 すべて読み切ったときには、その場に崩れ込みそうなほど疲労を感じた。けれど、一年間見守ってきた生徒達の晴れ舞台だからと、気力だけで持ち堪えた。 マイク前から離れると、入れ替わりに4組の担任がやって来る。 「篠崎先生、会場出た方がええんと違います? 生徒らも心配してますよ」 「え?」 「名前呼ぶとき先生しんどそうやったから、体調崩さはってん違うかって。ほら、香坂なんかずうっと先生ンこと気にしてる」 「香坂…?」 驚いて顔を上げると香坂と目が合った。 極力彼のそばには行かないようにしていたし、香坂の方は見ないようにしていたから、彼を見たのは朝以来だ。 あの強い瞳に負けそうで、急いで目を伏せようとした。けれど俺がそうする前に、香坂が視線を逸らしてしまった。 香坂…? こんなこと初めてだった。 いつだって香坂は彼の方から目を逸らすことがなかった。俺が怯えて顔を背けるまで、穴が開くほど俺を見つめていた。俺には想像も及ばない、何かを孕んだ瞳で。 「3年4組、井上純一郎、遠藤一也…」 目を閉じて、浅い息を吐いた。 もう関係ない。 香坂が何を思っていようと、すべては終わったことなのだ。 胸が痛むのは体調が悪いせいだからと無理に納得して、俺は淡々と読み上げられる生徒の名前に聞き入った。
「シノセンセ、写真撮ろっ」 「ほな次先生こっちな!」 卒業式が終われば写真撮影会。これはどこにでもある恒例行事で教師の中でも暗黙の了解だった。本当はこの後も職員会議があるのだけれど、遅刻してもお赦しが出る。 体調の優れないときに振り回されるのは正直辛いけれど、生徒が自分を慕っていてくれる気持ちの現れだからと、有り難く生徒の輪に入る。 「シノちゃんさっき顔色めっさ悪かってんで。休んどらんでええの?」 「でもしのサンなよなよしとると色気あるし見とる分にはええカンジやった」 「…アホ、しんどがっとる人間に向かって欲情しなやァ」 口々に好き勝手言う生徒のあしらいにも、もう慣れた。昔は本気で反発してさらにからかわれていたけれど、こっちが受け流せば言葉遊び感覚で、お互い関係が巧くいく。 それを俺に教えてくれたのも香坂だった。 写真撮影会を終え職員会議に顔を出すと、丁度進路の決定した生徒の報告会になっていた。 「このところウチの学校は進学率が右肩上がりで、教育委員会でもウチの学校を見習おうて話が出とるらしいです」 自分の席に着席すると、隣席の松山先生がひっそりと教えてくれた。 「あぁ…それで校長、ここんとこ機嫌がええんや…」 「ウチの橘と先生ンとこの香坂があの名門でしょ。そら機嫌もよォなりますわ」 「…そォですね…」 香坂と橘という生徒は府下でもトップレベルの成績で、全国圏でも他県のトップと引けをとらない。見た目がチャラチャラとしている橘と愛想がなく高圧的な香坂だけど、ふたりとも考えが読めないという点ではよく似ていた。香坂は寡黙すぎて解らないっていうのがほとんどかもしれない。軽そうに見えて底知れぬモノを抱いていそうな橘とは互いに反発していた。 反発しあっているのに、彼らは同じ大学に進学することになった。誰もが知っている東京の国立大学。 「…東京…」 新幹線で約4時間。学割を使っても交通費は1万円を越す。そんな場所に行ってしまうのか。 昨日までのように、学校帰りに寄れてしまう距離ではない。 俺は何を考えてるんだろう。 もう終わったことだとさっき考えたばかりじゃないか。あんな非生産的な関係は、さっさと忘れてしまえばいい。 香坂もきっとそのつもりだ。あれから一度も目を合わさなかったし明らかに俺のことを避けていた。 後悔してるのか? 俺と関係を持ってしまったことに。 襲ったのは香坂でも社会的に非があるのは未成年の彼ではなく、聖職者の俺。 香坂が俺を訴えれば逮捕にはならなくても書類送検くらいにはなりそうだ。 後悔しているのならどうして俺を抱いたりしたんだ…。 ぐるぐると渦を巻く疑問。 今更考えてもどうしようもない現実。 ホンマにアホや、俺…。 自分自身の馬鹿さ加減に呆れ、自然溜め息が洩れた。隣席の教師が心配そうに俺の顔色を窺っているようだったけれど、誰かと話をするのも面倒で、気付かぬフリを決め込んだ。
帰り道になっても、気分など一向に晴れなかった。朝はたいして重いと思わなかったブリーフケースがやけに重く、足取りもそれに比例している。 家に帰るのが嫌だった。何が嫌かなんて考えたくもない。考えてしまうと、きっと余計に嫌になってしまうから。 肩を落として歩いていると、目の端に学生服が映った…気がした。 「こう…ッ…」 反射的に叫びかけ、学生服だと思っていたのは単なる黒い服だったと判明した。黒い服を着ているその男は、訝しげな目を俺に向けながら、横をすり抜けていった。 けれどそんな視線など気にもとめず、走り出した。 家に向かって。 息が切れ、動悸の激しさが直接脳に伝わるようになっても、走って走って、走り続ける。 家の前にある階段を一段飛ばしで上り、玄関の前で急激に失速した。 ドク…ドクン、ドクン…。響く鼓動。切れた息をゆっくりと飲み込む。 ポケットの中から鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。 「……」 かかっている。 その事実がやけに胸を衝いた。 普段は仕事から帰って来ると、連絡もしていないのに香坂が絶妙なタイミングで玄関を開けてくれた。けれど今日は自分で開けなくてはいけないのだ。 カチャ、と音を立て鍵を外すと、一層寂寥感がひしめいた。 玄関を開けると、暗い室内が視界の前を横たわっている。 ポストには香坂に渡した鍵が、紙に包まれて投げ込まれていた。その紙はルーズリーフの切れ端で、赤色のペンで走り書きがされていた。
『ありがとうございました』
たった一文。それすらも丁寧さはなく、雑然とした感じがする。 台所のテーブルの上に赤ペンが置いてある。俺が昨日、二年生の小テストの採点をしたとき使っていたものだ。多分香坂はあれで書いたのだろう。 「…なんの…礼やねん…」 鍵を返す上での社交辞令か。 強姦されても済し崩しのまま言いなりになっていたことか。 それとも他に何かあるのか? 考えたって仕方がない。すべては香坂にしか解らないのだから。 俺にはお前が解らへんよ、香坂。 自嘲的に笑って、イスに腰掛けた。 視線の先にあるのは赤色のペン。 香坂は俺にとって、あのペンと同じ、赤いイメージだった。それも明るい赤ではなく、極めて深い赤だ。 初めて彼と接した日から、そのイメージは変わらなかった。 物静かなのに、常に周囲に対し、威圧的で攻撃的なオーラを発している。そんな赤。 香坂に強姦された日に、無理矢理挿入されて傷ついた。そのとき出た、血の赤。 俺が家に帰って来たとき、玄関を開けて出迎えた。そのとき浴びていた、夕日の赤。 そして俺の心に灯した、炎の赤。 俺が考える暇もない程に、翻弄し、俺の心に侵入してきたから、彼に対する気持ちを見誤ってしまった。 最後になるまで気付けなかった。 「香坂……香さ…ッ」 ルーズリーフの切れ端を握り締め、ひとり涙をこぼした。 今なら、血の涙も流せる。 そんな錯覚さえ起こした。
彼は俺の中に、消されることのない炎を残して去っていった。 その赤は、きっといつまでも胸の奥で燃えているのだろう。
すべてはもう、終わってしまったことなのだけれど。
◇ fin ◇
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