何かにつけて奥手を自負するこの僕に、人生17年目にしてようやく遅い春が来た。
友達の紹介で付き合うようになった彼女は、高校2年になった今でもまだ中学生と間違われてしまうこの僕なんかとは全く釣り合いのとれない大人っぽい感じの美人で、名前を神崎美晴(かんざき みはる)さんと云う。
僕より3センチ身長の高い彼女は、僕よりひと月だけお姉さんで、笑うと両頬に深い笑窪が出来る。本当の話かどうかはともかく、笑窪が出来る女性はアッチの方もすごいなんていう下世話な話をどこかで聞いた事があるが、残念ながら、付き合い出してから3ヶ月にも満たない僕達は、未だそんな深い仲までは至っていない。
僕自身、こんな風に女の子と親しくお付き合いするのは本当に初めての事で・・・彼女と付き合うようになって、最初の一ヶ月間は同じ空間に居ながら、ほとんどまともに口も聞けなかった。それでも、彼女は嫌な顔一つせず、根気よくこの僕に付き合ってくれた。心の糸の塊を解きほぐすように、ゆっくりと時間をかけて僕の心を開かせてくれた。彼女みたいな人が、どうしてこの僕なんかと付き合ってくれているのか・・・僕からしてみれば大変不思議な事でもあったが、通学途中の満員電車の中で僕を見初めて、共通の知り合いを介して僕に付き合いを持ちかけてきたのは彼女の方が先だった。
最初は好きか嫌いかなんてよく分からなかった。ただ、とっても良い感じの人だな~と、漠然とそう思っただけで・・・彼女に限らず、僕は、これまで自分の周囲に居た女の子達に対して、強い執着を感じた事は一度もなかった。それは、僕達の年頃の男にしては由々しき事なのかもしれないが、別段、僕はそれを特別と感じた事もなかった。かといって、男が良いとか、そう云う事でもなくて・・・僕自身、人間という生き物に対する執着心が元々薄いのだと思う。別にあせらなくても、こう云うのは縁のもので・・・自分にとって本当にふさわしいと思える人と出会えた時にだけ、そう云うアンテナは上手く機能してくれればいい――僕にとっての・・・運命の人を逃がさない為にも
どうしてもこの僕が良い――友達としてでも良いから、それでも僕とつきあいたいという彼女の強力な押しに負ける形で僕は彼女と渋々つきあうようになった。
それが――今はどうだろう・・・?
つきあい始めて3ヶ月目を迎える今、僕の方が彼女にぞっこん夢中となってしまっている。彼女の優しい人柄に触れる度、彼女が僕の気持ちを思い遣った言葉をかけてくれる度、僕は彼女の笑顔にメロメロとなって・・・こんな切ない気持ちを僕は生まれて初めて経験した。
これが、きっと人の云う『恋』なのであろうと・・・今、現在、そんな状況に陥っている自分に随分酔っていたりもする。
つきあって2ヶ月目にして、僕達は初めて手を繋いだ。夕暮れ時の公園で、僕の手にそっと絡ませてきた彼女の指を僕がしっかりと握り返したのだ。僕の汗ばんだ掌とは全く対照的に、彼女のひんやりとした掌の感触がとても心地よく感じられた。
あれから1ヵ月――デートの際、互いの腕を絡ませて歩く事にようやく慣れた僕は、自分の心の中である大きな誓いを立てた。
それは――世の恋人同士達にとっては、何の障害もなくすんなりと自然な流れで出来る事なのだろうけれども・・・今まで一度だってまともに女の子とつきあった経験を持たない僕にとっては、口から心臓が飛び出してきてしまいそうなほど刺激的な事で・・・実際、自分の目の前に居る彼女とそうする事を考えてみただけでも、異常に興奮して倒れそうになってしまう。
そんなの、外国人にとっては挨拶みたいなものだし、今日日、ちょっとおませな小学生なら、とっくに経験済みかもしれない。
その・・・いわゆるキスという行為を・・・僕も愛し合っている彼女とこれからしたい訳で・・・
世間一般のカップルは、一体どういう過程を経て、そう云う結果に行き着くのだろう・・・?これからキスをするぞと意気込んだ結果、無事その行為を迎えられるのだろうか・・・?彼女と唇を重ね合わせる時、やっぱり目は閉じておくのが基本?でも、そうすると、彼女の顔の位置がよく分からないし・・・鼻と鼻がうっかりぶつかり合ってしまうなんて事はないのかな?僕の歯が彼女の唇に当たってしまって怪我をさせてしまったらどうしよう・・・?舌は・・・彼女の口の中に入れても良いのかな・・・?でも、やっぱいきなりハードなのはまずい・・・?て云うか、唇と唇を重ね合わせている間、僕は一体どこで息を吸えばいいのだろう・・・?鼻・・・?甘いムードの中で、あんまり鼻息を荒くしているのもね・・・
初めての事ではあるけれども、どうせなら、やっぱり一生自分の心に残るような思い出深いキスにしたい。
そこで、僕はその事を、僕の一番頼れる友人である倉野聡季(くらの さとき)に相談する事にした。
「キスのタイミングー!?」
一緒に昼食を食べていた食堂で、いきなり大声でそんな露骨な言葉を喚いた聡季に、僕達の周りにいたみんなが一斉に注目する。ただでさえ人前で注目を浴びる事を苦手とする僕は、みんなのその視線に耐え切れず、真っ赤になって俯く事しか出来ない。その僕とは全く対照的に、聡季は、本日の定食に更にオプションとして付け加えたラーメンを音を立てて啜りながら、相も変わらず先程と全く同じ声のトーンで僕に話しかけてくる。
「で、彼女とのキスがなんだって?」
「聡季、声がでかいってっ」
まあ、こんな所でいきなりそんな話を切り出す僕もどうかと思うが・・・その手の話を聡季に相談する・・・たったそれだけの事であっても、内気な僕にとっては、清水の舞台から飛び降りる事に等しく、かなり勇気の要る事であって・・・
「つぅか、珠希(たまき)、やっと彼女出来たんだ」
「・・・その事は、僕、だいぶ前に聡季に話したと思うけど・・・」
「そうだったっけー?」
「・・・・・・・・・・・」
僕の話には全く気のない様子で、聡季は、まだ汁が半分残っていたラーメン鉢の中に無造作にご飯を放り込んだ。箸でくるくるとかき混ぜて米の粒をラーメンの汁に十分になじませた後、それをお茶漬けのように一気にかきこむ。
その垢抜けた出で立ちから、学年一のプレーボーイとして、学年中の女子達の注目を一身に浴びている聡季ではあるが、僕とこうして一緒にご飯を食べている時のこの姿ときたら・・・全くただのオヤジでしかない。僕と一緒にいる時の聡季は、おならは平気でするわ、笑えないギャグはしょっちゅう飛ばすわ、全くもって僕の本当のオヤジより性質が悪い。でも、まあ・・・これも、僕に対する聡季の友情の証であって、僕の前でだけ聡季が自然体で居てくれている証拠だと僕はそう解釈している。
そんな相手だからこそ、僕もここまでプライベートな事を相談出来るのであって・・・
「・・・聡季は・・・もちろんした事があるよね・・・?」
「するって一体何を?もしかして、キス?」
「!?」
聡季のその言葉に、周囲の人々の目が再び僕達に向かって一斉に注がれる。
「お前なあ、マジな顔して、一体誰に向かってそんなくだらない質問している訳?キスなんて――そんなもん、外国に行けば、ちょっとした挨拶代わりにもなるんだぜ――そう云う意味合いでなくとも、俺達の年ともなれば、もうとっくに経験済みって云うのが当たり前だろう・・・んなもん、今日日、小学生同士でつきあっているカップルだってとっくに済ましている事だぜ」
もちろん、この俺だって、そんなの今更数え切れないぐらいの回数経験済みだ――聡季はそう云って、少し誇らしげに笑った。
「・・・でも、まあ・・・それをお前に求めるのは無理があるかな・・・」
「・・・・・・・・・・・」
僕に今まで女性と付き合った経験が一度もないという事も、その女性達の事を、過去、僕がとても苦手としていた事も、この友人はよく知ってくれているから・・・思わず縋るような目で聡季の顔を見つめてしまった僕に、聡季は大きく頷いてくれた。
「よっしゃ、ここは俺が、俺の大切な友達である可愛い珠希の為に一肌脱いでやろうじゃないか」
「それ、ホント、聡季!?」
「ああ、珠希がその初めて出来た恋人と無事初キスが済ませられるよう、俺がいろいろとレクチャーしてやるよ――やっぱ、こう云う事は恋愛のエキスパートに聞けってね」
「ありがとう~、聡季~、やっぱ持つべき者は友達だよっ」
こうして僕は、友人聡季から、その道に関してのいろいろな技巧を学ぶ事となった。
「で?お前が今つきあっているその彼女って一体どんなタイプの子?」
やたらと人目が多い食堂から、がらりと場所を変えて、僕らは中庭にやってきた。校内にある憩いの場所としてみんなに利用されている緑多いその場所には、昼休みという長い休憩時間を利用してこっそり愛を囁き合うカップル達が既に何組か居て、それらのカップルの邪魔にならないように、僕らはその敷地の端の方にあるベンチに並んで腰を下ろした。そこから、それらのカップルの様子を目の端で観察しつつ、聡季は僕にいきなりそんな質問をしてきた。
「いい子だよ、とっても――僕なんかにはもったいないくらいの美人で性格もすごく良いし・・・」
「・・・ふうん」
なんて・・・自分から聞いてきたくせして――聡季は全く興味なさそうに僕の話を聞いている。つぅか、彼女と僕が無事キスを済ますのに・・・そんな事がいちいち関係あるのだろうか・・・?僕がその事を不思議に思っていると
「そんなタイプなら絶対初めてって事はないよな?」
「え?」
「だから、キス――お前みたく、今まで一度も誰ともした事がないなんて事はないよな?」
「・・・それは・・・どうだろう・・・」
正直――もし、そうであってくれれば、僕としては非常に嬉しいところなのであるが、まさか、あの彼女に限ってそんな事はないよね・・・?僕と付き合っている時もあんなに積極的な彼女に・・・全くその経験がないだなんて・・・
「だったら、彼女にリードしてもらえば良いじゃん」
「聡季っ!!」
それは男としての僕のプライドが許さない――つぅか、こんな僕にだって、男のプライドと云うものが一応ある。そう思った僕が、思わず声を荒げて叫んでしまうと
「ごめん、ごめん、今のはナシ――俺の失言――ほんのジョークだって」
聡季は頭を掻いて、そんな自分の発言を僕に対して一生懸命謝ってくる。周りのみんなの前では、いつもクールを気取っている聡季のこんな必死な顔を見られるのって、やっぱ友人としての僕だけの特権なのだろうか・・・
「・・・もう・・・」
ぷうっと頬を膨らませつつ拗ねる僕の顔を、聡季は眩しそうに目を細めて見ている。
「大丈夫、安心して俺に全部任せておけって――その相手が珠希の事を一生忘れられなくなるくらい素敵なキスの仕方を、俺がちゃんと珠希に教えてやるから」
「・・・聡季・・・」
やっぱ持つべきものは親友である。
「ほら、ここで、珠希がその彼女の肩を抱いて・・・」
「こう?」
「違う、違うっ――そんなぎこちない抱き方じゃなくて・・・ほら、もっと、こう」
「うわっ」
聡季にいきなり強く自分の体を抱き寄せられて、思わず驚きの声を上げてしまう。ふと、顔を上げた僕の目の前には、学年の女の子達のほぼ半分のハートは確実に射止めてしまっている聡季の精悍な顔があって・・・心ならずも僕はどぎまぎさせられてしまう。
キスの練習実践編と云う事で、僕は今、聡季を自分の彼女に見立ててその修行に励んでいる。僕の仮の彼女となった聡季の肩を自然な仕草で優しく抱いて自分の側に引き寄せて・・・静かに見詰め合った後、その唇をそっと重ね合わせる。その後、彼女が自ら僕の腕に自分の体を預けてきたりなんかしたら万事OKという事で・・・聡季が云うには、この段階で初めて舌を入れる事が許されるとか・・・
「まあ、キスの初心者にそこまで求めるのはちょっと無理があるよな」
なんて聡季は笑って云っていたが、人一倍自尊心が強い僕は――俄然、彼女とそこまでする気でいた。
だが・・・その――唇を重ね合わせるまでの初期の段階で、先程から僕はもう何度も聡季に駄目だしを喰らっているのだ。
「違うっ、違うっ、珠希っ――俺の話、ちゃんと聞いている?さっきから一体何度同じ事を繰り返し説明したら分かってくれるんだよっ」
「・・・・・・・・・・・・・・」
そうは云うけれども・・・女の子との経験豊かな聡季のアドバイスは、この歳になるまで一度も女の子と親しく付き合う機会のなかったこの僕にとっては非常に曖昧すぎて・・・僕の彼女の代わり役を演じてくれている聡季の事を、僕としては大変丁寧に扱っているつもりでいるのに・・・肩を抱くその仕草一つにしても、ひどくぎこちないとか、手に力が入りすぎだとか・・・先程から僕は聡季にそんな注意ばかりされている。
そのうち、そんな僕の態度に相当いらいらと来てしまったのか、聡季は
「あー、もうっ、いいっ――一度、俺がちゃんとした手本を示してやるから、今度はお前が女役になれ」
「ええーっ!?」
そんな・・・その行為を自から仕掛けなければならないのは僕の方なのに・・・
「そんな・・・聡季・・・」
「ほら、つべこべ云わないでさっさとやる――ミサキさんだか、ミハルさんだか知らないけど、お前はその彼女とキスがしたいんだろう?だったら、一度お前がその彼女の立場に立って物を考えてみろよ」
「・・・・・・・・・・・・・・」
師と仰ぐ聡季に真剣な顔でそう云われてしまったら、僕としてはもうその言葉に従うしかない訳で・・・
「ほら、珠希」
「!?」
――とは云うものの、やはりその行為自体にはかなり激しい抵抗がある。友人相手の代理行為で何をそこまで照れる必要があるのか・・・両手を添えていきなり強く抱きしめられた肩に、僕は必要以上に大袈裟な反応を見せてしまう。
「うわぁっ」
――などと、大仰な悲鳴を上げつつ、その腕の中から逃れようとして暴れる僕の体を聡季はすかさず押し留めた。
「こら、珠希――今更、何照れているんだよ、そんなんじゃ、全くお前の練習にならないじゃないか」
聡季にそう云われて、僕はそんな自分の行動を必死に思い留める。そうだった・・・今、僕は聡季の彼女役で・・・
「ほら、そんなに緊張しないで、軽く肩の力を抜いて」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
済ました顔で僕にそうアドバイスする聡季の顔を、僕は恨めしげに見上げてしまう。この状況をよっぽど恥ずかしく思ってしまっているのか・・・自然と涙目になってしまっている自分が本当に情けない・・・
「そのまま、俺の方にゆっくりとしなだれかかってこいよ――大丈夫、俺がちゃんと珠希の体を支えておいてやるから」
聡季の言葉に従って、僕はぎこちなくその腕の中に自分の身を預ける。僕よりも随分逞しい聡季の両腕が僕の体を優しく包み込んだ瞬間、自分の体の中を鋭い電流が走った。あれ・・・今のビリビリは一体何・・・?聡季の声や吐息が驚くほど僕の近くに感じられて・・・それを意識すればするほど、僕の意志とは全く関係なしに胸がドキドキと高鳴ってしまう。
「・・・や・・・」
「赤い顔して・・・珠希、マジ可愛い・・・」
「!?」
聡季がそう云ったように聞こえたのは、僕の気のせいだろうか・・・?
「・・・好きだよ、珠希・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
いくら代役でも、そんなに真剣な目で・・・僕に呼びかけるのはちょっとやめて欲しい・・・
熱のこもった聡季の目にじっと自分の顔を見つめられて、僕はそのまま少しも動けずに居た。この状況で・・・自分の腕に抱いた彼女を一体どうやってその行為にまで導いていくのか・・・それこそまさに、その道に関する聡季の腕の見せ所である。
こうやって間近で改めて見つめ直してみると、聡季って本当に良い男だよな・・・クラスの半分以上の女の子がみんなキャーキャー騒いでいるその理由が僕にもよく分かるような気がする。小さい頃から童顔で、実年齢より必ず3つは若く見られる僕なんかとは全然違う・・・聡季の顔には、何と云うかその実年齢を超えた逞しさがある。今は僕と同じ制服を着てはいるが、上背も肩幅も僕と比べ物にならないくらい立派な体躯と垢抜けた容姿を持つ聡季は、私服で街を歩いていると必ず年上の女性にナンパされてしまう。僕なんか・・・補導員に捕まった事はあっても、街を歩いていて女性に声を掛けられた事なんかこれまで一度だってないのに・・・同じ男である僕の目から見ても惚れ惚れする聡季の場合、自分がつきあいたいと思う女の子だって選り取りみどりで・・・同じ男として・・・これってすごく不公平な事な事だと思わない・・・?小学校の頃からずっと、「前に習え」ではなく「横に習え」だったこの僕の背が、せめてあと5センチ高ければ・・・僕も今より少しは積極的になれたかな・・・?今の聡季のように、スマートに女の子をリードするようになれたかな・・・?
「・・・目、閉じて・・・」
耳元で囁かれるまま、僕は聡季のその言葉に素直に従ってしまっていた。僕自身、この雰囲気に相当酔ってしまってはいるが、口から泡を吹いて、今にもその場に倒れてしまいそうなほど激しく緊張してしまっている。
「!?」
向かい合っている2人の間に、一瞬、そよ風が吹いてきたように感じられた。でも、それは実際には聡季の吐息だったようで――次の瞬間には、僕達の唇は、互いのそれにしっかりと重ねあわされてしまっていた。
(・・・・・え・・・)
それは羽のように軽いキスではあったけれども・・・僕自身、こうして誰かと唇を重ね合わせたのは本当に初めての事で・・・いわば、これは、僕にとってのファーストキスとも云える行為で・・・それを・・・僕は今、自分の友と慕っていた男と交わしてしまっているのだ。それも・・・こんな・・・ごく自然なタイミングで・・・そりゃあ、聡季のリードが抜群に上手いせいもあるだろうけれども・・・この状況はなんか根本的に大きく間違っているような・・・
(・・・だめっ――)
そう思っているはずなのに――僕はなかなか聡季の腕の中を抜け出せないでいる。聡季の唇を振り払えないでいる。こんなの・・・こんなの、おかしいよっ――聡季は僕の親友で・・・同じ男で・・・
「・・・や・・・」
そう思うと、自然と目元が熱くなってきてしまう。自分では全く意識していないうちに僕の目元からは涙が零れ落ちていたらしくて、それが僕と唇を重ね合わせている聡季の頬を静かに濡らしていた。
「!?」
その事に気付いた聡季が、僕から慌てて唇を離してくれた。
「・・・ごめん・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
勝手に泣いてしまっているのは僕の方なのに・・・キスを教えてくれとせがんだのは僕の方なのに・・・聡季は何も悪い事をしていないのに・・・なのに・・・どうして聡季が僕に謝るの・・・?
「・・・ごめん・・・いくらシミュレーションでも、ちょっと強引だったよな・・・俺・・・」
バツの悪そうな顔をして頭を掻く聡季の言葉を強く否定したくて、僕は必死になって頭を大きく左右へと振った。怒ってなんかいない――僕は・・・ただ、ちょっとびっくりしてしまっただけで・・・聡季があんまり真剣な目で僕を見つめるから・・・聡季とのキスに自分の体が思っていた以上に反応してしまったから・・・
「・・・・・・・・・・・・」
キスの余韻で濡れた唇が、淡い熱を持ってまだじんじんと疼いている。お世辞ではなく――聡季の今のキスは最高だと思った。今、この瞬間に味わった聡季の唇の感触を、僕はきっと一生忘れられないと思う。
「珠希?」
「!?」
心配そうに顔を覗き込んできた聡季に呼びかけられて、僕ははっと我に返った。
「・・・珠希・・・大丈夫・・・?」
「な、何がっ?」
「・・・声・・・微妙に裏返っているみたいだけれど・・・」
「・・・・・・・・・・・・・」
聡季にそう指摘されてしまった僕は、そんな自分自身の心を落ち着けるように、大きな深呼吸を2、3度繰り返した後、改めて聡季に向き直った。
「大丈夫」
「・・・・・・・・・・・・・」
一体、何が大丈夫なのか・・・自分でもよく分からないのであるが・・・
その場の気まずさを誤魔化す為か、尤もらしく、こほんと咳払いした聡季がそのまま言葉を続ける。
「・・・で・・・一応参考になった?キス・・・」
「も、もちろんっ、すごく参考になったよっ」
キスをされる側の当事者としての気持ちは大変よく分かった。
「じゃ、もう大丈夫だな」
「ああ、もう全然大丈夫だよっ」
――なんて、一応答えてはおいたが、本当は・・・何が何だか未だに良く分買っていない・・・キスというその行為自体に僕が舞い上がってしまっていて、その行為に至る手順も、実際唇を重ね合わせるタイミングも、その実、僕は何も学習していないような気がする。でも、もし、今ここで、僕がその事を聡季に正直に話せば、今の行為の復習と称して再び同じ行為を強要されるかもしれない・・・それだけは、ちょっと・・・
「じゃ、もう用事済んだ?俺、もう行くね」
「・・・え・・・」
そう云うと聡季は、あっけなくその場から走り去ってしまう。キスの余韻で一人頬を熱くする僕をその場に残して――自分は何事もなかったような涼しい顔で――そうだよね・・・こんなの・・・変に気にする方がおかしいよね・・・聡季はただ・・・僕の親友として、その行為をレクチャーしてくれただけなのに・・・物分りの悪いこの僕の為に親友として一肌脱いでくれただけなのに・・・なのに・・・僕は一体何をこんなにも気にしてしまっているのだろう・・・?
(・・・聡季・・・)
触れ合った唇が未だ熱を持ってジンジンと疼いている。かつて――ここまで僕の心を揺さぶるショッキングな出来事があっただろうか・・・?
「・・・・・・・・・・・・・」
この胸のときめきを一体何と云って表現したら良いのか・・・まさか、恋とも呼べるはずもなく、赤い顔をしたまま、僕はずっとその場に突っ立っていた。
その後、僕と美晴さんの初キスが一体どうなったかというと・・・親友の僕の為に、体当たりでその指導に当たってくれた聡季のレクチャーの甲斐あって、それはまずまずの大成功だった。
聡季と既にその行為を一回済ましていたせいか、僕は驚くほど落ち着いた態度でその行為に挑む事が出来た。僕より3センチ背が高い美晴さんを相手に、お互い立ったままのキスは当然無理だったけれども、夕暮れ時の公園で人気のない場所のベンチに並んで腰掛けていた僕達は、沈み行く夕日をバックに、それは、それは素敵なキスを交わした。もちろん、それは・・・僕にとって、女の子と交わす初めてのキスで・・・女の子の唇があんなに柔らかいものだったなんて・・・僕は初めて知った。
生まれて初めて体験したその行為は、僕のこの後の人生において、きっと一生忘れられない素敵な思い出になるだろう。けれども・・・それ以上に僕の心を惑わせていたのは・・・その数日前に交わした聡季とのキスの方であって・・・実際、僕は彼女と唇を重ね合わせながらも、その事ばかりをずっと考えてしまっていた。
僕のつきあっている相手は美晴さんで・・・聡季は僕の親友のはずなのに・・・その親友をこんなに意識してしまう自分が恥ずかしくてならない・・・僕は一体どうしてしまったのだろう・・・?僕は・・・僕は・・・どこかおかしくなってしまったのだろうか・・・?
「これ、約束のブツ」
「うわー、本当に良いの~、今年出たばかりのプラダの新作の財布、私、これムチャクチャ欲しかったんだよ~」
「良いよ、お前、俺の云うとおりにちゃんとやってくれたから」
「・・・でも、分かんないなあ」
「何が?」
「珠希くんの事――好きなら好きでさっさとそう告白しちゃえばいいのに、何もいとこの私を使ってまで、こんな下手な芝居をうたなくたって・・・」
「分かっていないなあ・・・お前――」
「分かるって一体何を?」
「珠希の事――純粋培養で育ったあんなピュアな奴にこの俺の切ない恋心が理解出来るかよ・・・」
「恋・・・ね・・・」
「何だよ、その含みのある云い方は」
「・・・別に・・・ただ、珠希くんも相当性質の悪い奴に目を付けられちゃったなと、そう思って」
「ブランド品欲しさに、その俺の片棒担いでいるのはお前だぜ?」
「まあ、そうなんだけどさ・・・珠希くん、本当に可愛いから、私、最近すごく罪の意識感じちゃて・・・ねえ、一体いつまで私にこんな役をやらせる気?」
「もう少しだけ・・・もうちょっとだけ、俺と珠希の純情につきあってやってくれよ」
「ま、私は別にいいんだけどね・・・貰えるものさえ貰えたら――じゃあ、次は思い切ってバッグにしてみようかなあ・・・」
「調子に乗るなよ、馬鹿っ――一体、いくらすると思っているんだよっ」
「じゃあ、本気で珠希くんの事を好きになっちゃおうかなあ・・・」
「あ、それは駄目っ――それだけは絶対に駄目っ――もし、お前の方から珠希に何か仕掛けたりしたら、俺、間違いなくお前の事殺すからなっ」
などという物騒な会話が、僕の親友である聡季と僕の愛する彼女との間で密かに取り交わされていた事を・・・僕は未だに知らないでいる・・・
Fin
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