このところ、店が酷く忙しい。どんな季節であっても週末は大概忙しいものだが、夏は特にそれが顕著になる。暑くなってくると、酒を飲みたがる人間が増えるからだ。それに、ここ数ヶ月、景気が上向いてきたと言う話だから、ボーナスの出た会社が多かったのかもしれない。 店を出るときに、アルバイトのボーイの一人に、食事に誘われた。24時間営業のファミリーレストランで、遅い夕食をとるつもりだったらしい。その申し出に惹かれないでもなかったが断った。千円札を何枚か札入れから抜き出し、ボーイに渡す。彼が一人で食事をするのなら、十分に足りる金額だ。私の代わりの誰かを誘うと言うならば、その相手の分まで出してやる義理はない。 「ご馳走様です」 ボーイは大きな声で礼を言い、子供のように頭を下げた。近所の大学に通う学生だったが、卒業しても町を離れず、結局そのまま店に残った青年だ。実家は、寒い地方だと聞いた覚えがある。雪の少ないこの町から離れがたいのだと言っていた。冬には水道管の凍る町を暖かいと言うのだから、よほど寒い町の出なのだろう。 「明日も遅刻するなよ」 「大丈夫ですよ。それじゃ」 青年は笑ってもう一度頭を下げ、店の脇の路地に止めてあったバイクに跨った。ボーイは酒を運ぶのが仕事だから、飲酒運転にはなるまい。私は手を上げて、宵闇に溶け込んでいく赤いテールランプを見送った。 店から私のアパートまでは歩いて20分程度だ。運動不足を解消するには丁度良い距離なので、私の通勤手段は専ら徒歩だ。幸いこの町は、歩道の整備が行き届いている。よほど酷い雨でも降らない限り、歩くに困ることはない。 5分も歩かない内に、背中を汗が伝った。昼間ほど気温は高くないものの、制服代わりの袖の長いシャツは、十分に暑い。耐え切れず、袖を捲くり上げた。首もとの釦も二つ開放してやる。熱気が、シャツの中から抜けていくような気がした。 「暑いな」 勿論口にしたところで暑さは変わらない。だが、深夜の暑い道を一人で歩くのに、愚痴の一つや二つ零した所で咎められる覚えはない。排気ガスの臭いのする空気が、全身にまとわりついた。 アパートに辿りついた頃には、既に日付も変わっていた。 町中至る所にある、鉄筋の2階建てアパート。住人の多くが学生なので、3年も住んでいると、殆どの住人の顔ぶれが変わってしまう。私は今の店に勤めだしてからずっとここに住んでいるから、これで5年動いていない計算になる。立派な古株だ。 廊下の向こうから、知らない娘がやってきた。新しい住人か、それとも住人の誰かの友人か。すれ違いざまに、警戒心を顕にした視線を私に送ってきた。どうやら、不審者と間違われたらしい。その視線に気づかない振りをして、ポケットから鍵を取り出す。金属音を立てて鍵を開けると、女は僅かに振り向いた。私がこのアパートの住人だと、彼女は理解したのだろうか。扉を引くと、玄関に灯りが点いていた。しかも、よく冷えている。 出かけるときには家中の電気を消す。長年の一人暮らしで身についた、私の習慣の一つだ。灯りが点いている方が泥棒が入りにくいという話しも聞くが、泥棒にとられるものよりも、電力会社に持っていかれる金のほうが多いことは明らかだ。消したはずの電気をつけたのが誰なのか、その答えもまた明らかだった。 「来るなら来ると、言ってくださいよ。驚くじゃありませんか」 後ろ手にドアを閉めながら、奥の部屋に声を掛けた。返事はない。いつものことだ。 「まったく、どの道うちに来るんなら、店の片付けを手伝ったらどうです?」 「そんなもんは俺の仕事じゃない。おい、なんか食うものは買ってこなかったか?」 「本当に勝手な人だな。冷凍庫にピザがあるから、あれでも焼いて食べてください。俺は風呂入ってきますから」 返事をする代わりに、頭の濡れた男が顔を出した。黒田だ。店でピアノを弾いていた時とは違うシャツを着ている。 「黒田さん、そのシャツ、まだ新しいんですけれどね」 「そうか。それは良かった」 「ちっとも良くありませんよ、まったく。ピザ、俺の分も焼いておいてくださいよ。俺だって何も食ってないんですからね」 わかっていると、黒田は答えた。悲しいことに、それがどれくらい当てにならない返事なのか、私には良くわかっていた。
案の定、私が風呂から上がると、テーブルの上には汚れた皿しか残っていなかった。 「黒田さん、俺のピザは?」 首に掛けたタオルで顔を拭きながらレンジを覗きこむ。勿論中には何も残っていない。 「おう、うまかったぜ」 「食っちまったんですか?」 「腹が減っていたんだ」 「勘弁してくださいよ」 予想していたこととは言え、ダメージは大きい。夕方からこっち、何も食べずにひたすらシェーカーを振っていたのだ。空腹だって、既に限界だ。 仕方無しに冷蔵庫を漁る私を、黒田はいつも通り無愛想に眺めていた。 「あんたの分は作りませんよ」 「作れよ。腹減ってるんだ」 「俺の分まで食ったじゃないですか」 「成長期なんだよ、俺は」 とうに不惑を迎えた男が、臆面もなく言ってのける。 「それから、なんか酒飲ませろ。口の中がニンニク臭くて叶わない」 黒田の長い指が、カチンと皿を弾いた。ピアニストと言うやつは、誰でもこんな指をしているのだろうか。 「どうしたバーテン。シェーカーの持ち方を忘れたか?」 「お客さん、今日はもう店、閉めたんですよ」 「知っているさ。安心しろ、金は払わない」 その図々しさには、呆れるのを通り越していっそ感心してしまう。 「うちにはビールしかありませんよ」 「ならビールで良いさ」 「冷蔵庫を開けるくらい、自分でやったらどうです?」 私の苦情が黒田に聞き入れられることは殆どない。厚顔のピアニストはもう一度皿を弾き、早くよこせと催促をした。 仕方がない。これ以上何を言った所で無駄と言うものだ。とは言え、何もかも思い通りにいくのだと思われても困る。 私は冷蔵庫からビールを取り出し、黒田に見えないようによく振った。缶ビールの良いところは、中身がどんな状態になっているか、開けて見なければわからないところだ。 「黒田さん」 私の投げたビール缶を、黒田は器用に利き手で受け取った。にやりと口角を上げ、グラスは要らないぜ、などと嘯いている。 黒田がプルトップに手を掛けたのを横目に見て、私は控えめに笑みを浮かべた。
黒田は私から奪い取ったタオルで頭を拭きながら、缶の底に残ったビールを啜った。ずぶ濡れのシャツは、洗濯機の中だ。換えのシャツを出せと言う要求は、無視することで却下した。私がそうすることは予測していたらしく、黒田はそれ以上何も言わなかった。 ディルソースを絡めたパスタを皿に取り分け、片方を黒田に渡す。黒田は犬のように慎重に皿の匂いを嗅いだ。そうしてそれが食品であることを確認すると、私が席に着くのも待たずに食べ始めた。 「少しは労ってやろうという気が起きないもんですかね」 「にんにくの入れすぎだ。胡椒も少しきつい。塩加減は丁度良い。夏はこれくらい必要だ」 「批評しろと言ったわけじゃないんですが」 「注文が多いな」 黒田はにやりと笑った。そうすると、いやに男くさい。笑うといい男になりすぎるから笑わないのだ。黒田を、そう評した男がいた。それほどのものではないと思う。だが、悪くもない。 「いい加減、エアコンを買ったらどうです?毎年毎年夏が来るたびに居候されたんじゃ敵いませんよ」 「馬鹿野郎。そんな金はねえよ」 「じゃあオーナーの家に帰れば良いじゃないですか。あそこならエアコンくらいあるでしょう」 「幸子?そりゃ駄目だ。あいつは新しい男ができたばかりだから、叩き出されるのがオチだ」 店のオーナーの幸子とこのピアニストの関係は、正直な所私にも良くわからない。私が初めて黒田に会ったのは5年前。新しい店のことで、幸子の家に呼ばれたときのことだった。私は最初、彼を幸子の夫だと思った。結婚しているという話を聞いたことはなかったが、そうであっても不思議のない年齢だったからだ。しかし彼女は笑ってそれを否定した。 「こんな男と結婚する馬鹿な女はいないわよ」 酷い言い草であったが、黒田は全く気にした様子もない。 「ヒモみたいなものだけど、ヒモですらないから何の役にも立たないのよ」 その役立たずの入れたコーヒーを飲みながら、幸子は言った。 その後暫くして、黒田は幸子の家を出た。しかし幸子が新しく始めた店には、黒田の姿があった。 「一応断っておくと、そのタバコは俺のなんだが」 黒田は私の咥えたキャメルをフォークで示した。言われるまでもなく、そんなことはわかっている。私は応えた。人の家に勝手に上がりこんで遣りたい放題している男が、たかがタバコ一本に文句をつけるのか。 黒田は諦めてフォークを下げ、テーブルの端に置かれていたジッポーを、私の手元に滑らせた。 「ありがとうございます」 「サービスだ」 随分と安いサービスだ。笑った私の口元に、黒田が手を伸ばす。 「やっぱり返せ」 奪われたキャメルは、そのまま黒田の唇に咥えられた。 「酷いな黒田さん」 黒田はもう一度、にやりと口角を上げた。確かに良い男だが、決して良い人間ではない。大変悔しいことに、私はそういう人間に惹かれるきらいがある。 黒田の咥えたタバコに、私は職業的な習慣から火をつけた。もしかしたら彼が私にジッポーを渡したのは、こうさせるためだったのかもしれない。まったく食えない男だ。 黒田の吐き出す煙が、私のところに届いた。大量の毒を含むその煙は、人間の体だけでなく心も犯す。紫煙にどろりとした疲れを溶かされながら、私は正面に座る男をぼんやりと眺めた。 私にも、テレビに出てくるような同棲生活に憧れた時期があった。勿論今よりずっと若い時分のことだ。可愛らしい恋人が、玄関で「お帰りなさい」と言ってくれるような生活。それは、そんなに難しい夢ではなかったはずなのに、三十路を遥かに行った今、私を迎えてくれるのは、家主に無断で家に上がり込む、むさ苦しい中年の男一人だ。いや、むさ苦しいと言うのは訂正するべきかもしれない。彼はきれいに髭を当てていた。そうしてそれは、彼が私に示す唯一の心遣いなのだ。 私は黒田からタバコを奪い返した。肺の奥まで煙を溜め込むように、大きく深く息を吸う。 「……にんにくの臭いがしますね」 「気のせいだろう」 ピアニストの長い指が、私に向けて伸ばされる。
エアコンは、一晩中つけたままだった。
|