雨雲の奥に常に太陽は万全の準備で待機していたらしかった。僅かばかりの雨の留守にこれでもかというほど暴れまわっている。峻烈な日差しを避けて、僕は廊下側の壁に凭れて下敷きをぱたぱた言わせていた。ちょうど登校してきた風早が僕に疑問の目を向ける。 「瘡蓋、掻きむしりたくなるんだよ。」 先回りして答えた。衣更えを終えたはずの僕がどうして再び長袖カッタシャツをひっぱりだしてきたか、そんなことは会う人会う人に尋ねられて聞き飽きていた。もっとも最初のほうこそ正直に答えていたが、途中からは半袖全部洗濯中で、なんて適当な答えを返していた。瘡蓋、と言えばどうしてそんなものができたのか説明することになる。それは聞く側にとっても話す側にとっても災難だ。朝の時間は非常に貴重だ。 「フウソに訊かれるのは変な感じだけれど。」 僕が言うと、確かに、と風早が笑った。彼も長袖のカッタシャツを着ているのだ。 「まだ治ってないんだ、」 風早が僕の右腕を見て言った。風早には説明の必要がない。僕がすっ転んだとき、その場にいたのだ。そして僕の自転車の車輪が風早のそれにぶち当たり、数秒遅れて彼も横倒しになった。一昨日、土曜のことである。 「フウソは、」 「肘は擦ったけど、瘡蓋はできなかったよ。」 僕のこけ方が器用だと言いたいのだろうか、などと思うのは考えすぎか。そして僕は思い至る。 「フウソは一昨日も長袖だったもんな。」 「日焼け止め塗るより楽だから。」 おかげで今まであまり瘡蓋作ったことはないと言う。真っ白な肌をして、几帳面そうな顔の彼は実のところ結構なズボラなのである。 「それに、ナヅは砂利に投げ出されたけど僕は草むらだったから。」 やはり先ほどのは僕の被害妄想だったらしい。僕の反省など知らぬ風早は首を巡らせ、黒板の上にかかった時計を見た。あぶれた風が彼の前髪を微かに揺らした。 「あれ、ナヅ、今日、早い?」 目をそれに固定したまま風早が言った。 「長袖だと暑いだろうと思って早めに出たんだ。」 僕はフフンと笑って言った。気づくの遅いよ、フウソ、と風早を見る。いつもは風早のほうが早く到着するのだ。 「でも、その分だとあまり効果はなかったみたいだね。」 風早は忙しなく動く下敷きを見ながら言った。
その後、気温は遠慮なく上がり、僕は雲の有難味というものを思い知った。昼休みともなるとグラウンドの地面は輝き、それを囲む流麗な枝垂れ柳も足元に小さな影を宿すのみとなった。 「暑い! 六月かよ、これが。」 渡り廊下を歩きながら、下敷きを教室に置いてきたことを後悔していた。地球温暖化め、と僕は呟く。グラウンドにはバレーボールをして遊ぶ生徒がいて、この炎天下にと目を疑った。 「腕、まくったら、」 二歩ほど先を行く風早が振り返って言った。只今の体感温度、二十度、とでも言いそうな顔だ。地球外生命体め、と僕は呟く。バレーボール集団然り、だ。そして万に一つ聞き取られた場合に備えて休みなく言葉を繋いだ。 「瘡蓋取りたくなるんだよ。」 どうにもムズムズして、実際無意識のうちに手を伸ばしてシャツの感触にはッとすることが何度もあった。 「取ってやろうか。」 「は、」 驚いて右腕から風早に視線を移した。瘡蓋、と風早は僕の右腕を見て言う。微妙に噛み合わない。会話も、視線も。 「いいよ。」 僕は右腕を左手で庇って言った。遠慮する、遠慮したい、全力をもって避けたい。その思いは伝わらなかったらしく風早が一歩後退した。つまり、僕らの距離が一歩縮まった。やっぱり、噛み合わない。 「お前、汗ひとつかいてないな。」 僕がそう言っているうちにも風早は僕の右腕を掴み、手早くカフスのプラスティクス釦を外した。ぐい、と袖をたくし上げられ、瘡蓋に布が触れて背筋に戦慄。 「莫迦、」 風早がぼそりと言った。それがやけに近くて驚いた。しかし、布が瘡蓋に擦れるそれは、痒くて痒くて仕方がなかったところに薬用ムヒを塗る感覚に近いのだ。はっきり言って気持ちいい。そう弁解しようと思ったが、風早が更に近づいてきたので反射的に口を閉ざして腕を引こうとした。無情にも風早はそれを掴む。僕が転んだのはナヅのせいだよ、と軽く脅しまで口にする。 「下手に剥がすと血が出るんですよ、フウソさん。」 僕は自分が妙な具合になっていることに気づいた。きっと身の危険からだろう。 「あ、既に出てる。」 げげ、と思った。シャツの上から引っ掻いていたのか。カッタシャツが汚れていたら母親の大目玉は避けられない。 「スプラッタ、」 「いや全然。」 風早の白い指が僕の腕に伸びる。触れるか、触れないか。また、戦慄。 「ワー。」 何かを発散させるように、僕は言った。一定の音程のそれは音楽の授業を連想させた。風早が顔を上げて不思議そうに僕を見た。僕はかまわず、またワーと鳴いた。おかしいという自覚はあったが、たぶんこれが最善の策だと思った。放出しないと、更におかしくなってしまう。 風早の手がすこし遠のいたのですかさず間に左手を滑り込ませた。 「瘡蓋取りたいだけだろう、」 僕は非難の目を向ける。 「あんまり作った経験がないんだよ。」 悪びれもせず風早は答える。それはもう聞いた。何が、取ってやろうか、だ。 「日焼けはするだろ、」 僕が睨むと風早はすこし驚いた顔で首肯した。あれで皮が剥けるのと、同じような感じだよ、と言うと風早は顔を顰めて、それは厭だな、と言った。最初に思い至れ! と思ったが言わない。丸く収まりそうなところに追撃は無用だ。 「カッタ、汚れてない、」 僕は気になっていたことを訊いた。大丈夫、という風早の言葉を聞いてやっと怒れる母の顔を脳内から削除した。 「そういや、一昨日、緑色になってた。」 風早は自分の肘を見せて言った。風早は草むらに転んだから、シャツにその緑がついたのだろう。 「瘡蓋、取ってやろうか。」 肘を下ろして僕を見る。怪我してないくせに、という僕の反撃は無効、非常に分が悪い。風早が近づく。僕はまた何か、発散させるべき何かを感じる。 風早はぴたりと止まった。 「冗談。」 そう言って、笑った。気が抜ける。同時に、風。枝垂れ柳の淡緑も揺れている。 「あ、風は涼しい。」 土曜も日差しはきつかったが風は清かだった。水を張った田を横目に畦道を疾走すれば、その風が僕らを擦り抜けていった。転んだ先が田んぼの中じゃなくて良かった、と風早と僕は心底思ったのだ。風早は特に、僕だって日に強いほうではないが、やはり雨より晴れ間が良い。 「なんで水無月って言うんだろな、雨ばっかなのに。」 「水の月でミナツキだったらしいよ。」 国語の時間、寝てたね、と風早が笑った。自分のことなのに、と言うので僕は外方を向いた。 予鈴が鳴って、バレーボールが終わった。風早と僕も歩き出した。次は、何だっけ、と考える。 「あのシャツさ、洗濯機入れる前に手で洗ったんだよ。そしたら、すごい、ブンガク的に言いますと、水無月の香り?」 風早が笑って言った。 身の危険などは確かになかった。 だけど僕は再度、ワーと叫びたい気分になった。
切って切られて風薫る / The Cutter in A Kindly Breeze
本名とあだ名は、水無月→ナヅ、風早→フウソ。
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