「ええ?斎斗くん帰ってきたの?」 居間にいる僕の耳に母親の声が届く。どうやら斎斗が帰ってきたようだ。三年ぶりか。あの時僕が小学校6年生だったから、3才離れた斎斗は十五歳の時にいなくなったことになる。 高屋斎斗は僕、宮本葵の遠縁にあたる人間である。これが大変の変わり者で、彼を一言で表わすとしたら『変人』が相応しい。 例えば彼はろくに学校に通わなかった。小学校時代で彼を学内で見かけたのは十本の指に満たない。別に嫌な事があるから通わないのではない。彼はその頃から物事をなにかと判断していたふしがあった。その証拠にある日僕を訪れた斎斗は、 「小学校は要らない。基礎は自分で学べるよ。葵も行く必要なんかないよ」 えらくはっきりとした物言いでいうものだから僕はやけに狼狽してしまった。 「ああ、でも葵は何も知らないから行くしかないね。いや、悪い事を言ったね」 目を白黒させた僕を落ち着かせるためか彼は僕の頭を撫でた。
「葵、斎斗くんが帰ってきたみたいよ。一体どこに行っていたのかしらねえ」 「―ああ、そうだね」 少し思い出していたところに母親に話しかけられて、僕はぼんやりとした顔つきでこれまたぼんやりとした返事しかできなかった。 「どうしたの?昔よく遊んでもらっていたでしょう」 母親は不思議そうな顔つきで僕を見た。居間から続く縁側で寝転ぶ僕はその顔をちらりと見て、昔とちっとも美しさが変わらない母親を斎斗が見たらどんなことを言うのかと考えた。 母親の紀美子は東北の遡れば華族に至る家柄の出身で、だからと言ってと言う訳ではないが、こうやって普通の一軒家で主婦をしているがさすがに常に高貴な雰囲気が拭えない。身内自慢をするわけではなく、そういう人間は存在する。現に彼がそうだが― 「斎斗くん、十九歳でしょう。三年間ずっと旅していたらしいの。高屋の優子さんからの電話だったのだけど―」 高屋優子は斎斗の母親だ。情報はまあ正しい方だろうか。僕は横たわったまま、庭の青い紫陽花を呆けた顔で眺めながら思った。ただ目に紫陽花が映っている、という表現の方がしっくりくるかもしれない。 斎斗は謎だ。一体何を考えているのか全くわからない。ただろくでもないこと、または僕には思いつきもしないことを考えているのだ。それは彼の家族も同じで、優子は自分の息子が何を考えているのかわからないと過去に話していた。けれど優子はそのわけのわからない息子をどうにかして知ろうとしなかった。放任主義とでも言うのだろうか。三年前、斎斗が家を出る時に彼女は止めなかったらしい。ただいってらっしゃいと言ったそうだ。 「あの人も変わり者だよな。ふつう、突然旅に出ると言う息子を素直に送り出すかな」 僕の目にはまだ紫陽花が映っている。 母親の返事はない。 「母さんだったらどうする?僕が突然斎斗みたいに出て行こうとしたら」 「送り出すでしょうね。そうね、連絡くらい頂戴と言うかもしれないけれど、優子さんみたいにいってらっしゃいと言うわ」 僕の母親は一体何を考えているのだろうか。 僕だったらどうするのだろうか。 わからない。
梅雨の時期は庭が一層美しくなる。 紫陽花は雨を吸い取り、内から開くように色鮮やかになる。ただ雨垂れを受けながら、ひたすら静寂を守っている。紫陽花の花言葉はなんだったか。―『耐える愛』だっけ。 雨が僕から見える全ての風景を縞模様にしている。あたりはしっとりとした鉛色で染まり、断続的に雨音が僕の耳を癒す。 僕はこの季節が好きなのだろう。学校のない日に縁側でこうしているのが最近の僕だ。ぼんやりと呆けた顔で、背後で動く母親のたてる物音を聞いたり、何か考えたり何も考えなかったりしている。 学校の課題はたいてい学校で終わらしてしまう。家でやるなんてばかばかしい。学校と家は区別しなくてはいけない。課題が出たからと言ってそれを家でやるのは異種混同していることを僕らは知らなくてはならない。 学業は僕の中ではごちゃごちゃしたお道具箱にすぎない。統一感のないそれは僕を惑わし、混乱させるのだ。勉強は嫌いじゃない。勉強ができないわけでもない。その証拠に僕の成績は学年で十番以内に入っている。 それはいいとして、学業から解き放たれたこの束の間は、僕にとってあの紫陽花にとっての雨だ。静寂。僕はこれが好きだ。 だから僕は高屋斎斗が苦手だ。 彼は統一感がない。言動が突拍子ないから混乱する。しかもいると騒がしい。彼は執拗に僕を構うから正直うんざりしていたのだ。そのせいだ。学校で変な噂がたった。僕が中学一年生のことだ。 思い出したくもない。
「葵、斎斗くんが」 僕はむくりと身を起こした。母親の物言いが気にかかる。 「あのね。母さん。中途半端に言葉を切らないでよ。気になるから」 やはり母親は困った顔をしている。母親に生き写しの僕が困った顔をするとこうなるのだろうか。というより、何があった?
「葵。なんで僕に気付かない」 瞬時に背筋が凍る。 後ろにいる。 僕の背後で 縁側に腰かけている。 「いらっしゃい斎斗くん」 母親は強い。突然の来訪にめげない。順応性が高いのか。 「来るなら来ると連絡くらいしろよ」 声は変になっていないだろうか。息がまともにできなくなりそうで不安だ。僕は振り向けずに母親の後ろ姿を見ていた。たぶん、斎斗に茶を出すのだろう。台所に入って行く。 背後に大きな塊を感じる。人間一人分の大きさだ。それも威圧感がある。
ふ、と彼が笑う。三年前の彼しか知らない僕は、脳裏で彼の姿を思い浮かべる。整った容姿。切れ長の目。すらりと背が高い。薄い唇。包容力のある長い腕。ぼさぼさに伸ばした髪は彼にとても―― ―変な、変なことを思い出してしまったじゃないか。 「冷たいな葵。僕と遊べよ」 濡れた手が僕の肩をつかんだ。わかった。母親はタオルを取りに行ったのだ。僕のシャツは簡単に雨水を吸い、肌に張り付いた。 「斎―」 次の瞬間に僕はしまったと思った。 斎斗に肩をつかませるといいことなど一つもないからだ。 確実に僕は唇を奪われてしまうのだ。 ちゅ、と音が鳴る。斎斗が離れる。 「ふつうこれくらい喜んでしなきゃ。何年ぶりだと思っているんだい」 髪は小奇麗に散髪されていた。濡れているから前髪をかきあげたのだろう。額があらわになって、凛々しい眉に、涼しい切れ長の目が僕を映している。 「たったの三年ぶりだよ。計算もできなくなったんだね」 嫌味の一つくらいお見舞いしなきゃ気がすまない。その効き目はなく彼はすごく嬉しそうにしている。 あの頃よりずっと男らしくなった。体つきが僕みたいに成長途中の未熟な体ではなく、大人の男の体にふさわしい完成体だ。肩をつかむ手も大きく、僕の肩をすっぽりと包んでいる。本当はもっと力をいれて僕を破壊することだってできるはずなのに。 そこまで考えて僕は下を向いた。 胸がざわついている。 やはり、彼は僕を混乱させる。 彼は突然すぎる。
「はい。これで拭いて。風邪をひいちゃうわ。よかったらお風呂に入って、今日は泊まって行くといいわ。あの頃みたいに葵と遊んであげてね」 「母さん、何を言って――」 母さんが差し出したタオルを受け取った斎斗はそれを首にかけるとにこりと笑った。 「ありがとう紀美子さん」 ああ。だめだ。つきあっていられない。部屋に逃げよう。いや、部屋はだめだ。もし斎斗が突破してきたら二人きりになってしまう。
僕は斎斗の手を外すと立ち上がった。そのまま玄関へ向かう。 図書館だ。図書館に行こう。あそこなら静かにしなければならない。もし斎斗がついてきても大丈夫だ。 「葵、出かけるの?」 出かけるよ。いてもたってもいられないから行くよ。彼がそこにいるなら僕が出て行くよ。 「葵」 僕を呼ばないでくれ斎斗。 君の側はいやなんだ。 落ち着かないんだ。 「僕と遊ぶのは嫌なのかい?」 まただ。 そうやって気になることを言う。 どうしたいのだ。 僕を引き止めるのはやめてくれ。 でも――気になってしまう。 玄関で僕は立ち止まる。靴、靴がない。ああ、なるほど。 「斎斗、僕の靴を返せ」 僕は振り向きながら声を発した。
僕の目には紫陽花が映っている。 「―――――?」 何が起こったのだ。 寝て――しまっていたのだろうか。 僕は縁側に横たわっている。 むくりと起き上がる。足を地面に下ろした。 「葵、起きたの?あら、ちゃんと上掛けをかぶって寝たのね」 母親だ。当然老いて、美しい顔に浅い皺が走っている。それでも美しいと思うけれど、では、今のはなんだ? ――夢か? じゃあ、じゃあ、彼は?
「母さん・・・」 心臓が痛い。僕は起き上がった拍子につかんだ上掛けを見下ろす。 ――かぶって寝た記憶はない。 どうなっている? 「斎斗はどこに」 母親はまた不思議そうな顔をしている。 ――また? 「斎斗くんがどうかしたの?」 胸がきりきりする。 ――これは誰のだ? 僕はこんな上掛けを持っていない。こんな、ふざけた柄入りの上掛け。 「今、ここにいたんだろう?」
なぜ、そんな困った顔をするのだ。 斎斗はいたんだろう。だからここに、座っていたんじゃないのか。 僕は覚えているぞ。唇に感じた。肩にも彼を感じた。背後に気配さえ感じたのだ。あの手をこの手で払ったのだ僕は。 「どうして何も言ってくれない。いただろ、ここに」 「――いたの、かもしれないわね」 「斎斗は、一体どうなってしまったんだ?!」
棚についた硝子の引き戸に人が映る。 誰だ? 斎――いや、僕だろうか? そこに映っているのは。未熟な体ではない。細めだが、これ以上身長も伸びない。痩せた、けれど大人に成長した体――。 「母さん、僕は今何歳だ」 「――?二十六歳でしょう。やだ、自分の年を忘れちゃったの?」 二十六? 「斎斗は?」 まただ、また、そんな顔。 「葵。斎斗くんは十九歳よ。そういえば、前にこんなことあったわね。葵がそこに寝てて、斎斗くんがびしょ濡れで縁側に突然現れて」 「嘘だ!」 「斎斗が十九歳なわけないだろう!」 「僕が二十六歳なら斎斗は二十九歳だろ?」 「それに僕はこの上掛けを知らない!これは斎斗のだ!」 「なんで僕に嘘を吐く!?」
母さんが泣いた。泣かせたのは僕だ。怒鳴ったのはいつ振りだろう?いや、今まで怒鳴ったことなどないかもしれない。 斎斗は、死んでしまったのだ。 優子さんが斎斗を止めなかった理由はそこにある。 彼は十五歳で癌におかされてしまっていたのだ。彼は変人だったが、やりたいことがたくさんあったのだろう。見たいことが見きれていなかったのだろう。若年性の癌は進行が早い。斎斗の癌は末期だったから、気づいた時には体中に転移して、医者にもお手上げ状態だった。だから、斎斗は旅に出たのだ。満足を得るため、命のもつ限り色々なところを巡った。 巡り巡って彼はようやく帰ってきた。僕が十六の頃だ。彼は寝ている僕の目の前に現れた。梅雨の時期、随分と痩せてしまった斎斗はずぶ濡れで、背景に青い紫陽花を抱えていた。 土産だと言って僕に変な柄の、この上掛けをかけた。僕は斎斗の病気を知らされていなかった。もし斎斗の病気のことを知らされていたとしても、知ってしまった僕のように正気を失っていただろう。 僕は濡れ鼠みたいだと言って、笑ったはずだ。斎斗も変わらない笑顔で笑っていた。隣に腰かけた斎斗にキスをされた僕は、恥ずかしくなって下を向いた。その時母親がタオルを持ってきて、僕は斎斗から逃げ出したのだ。
『僕と遊ぶのは嫌なのかい』
――耳に残るあの声は、雨音に混じっていたにも関わらず、すんなりと僕の耳に届いた。
僕は未だに彼を忘れられずに過去と今を行ったり来たりしているのだ。十六歳に戻ったり、今のように年齢を訊いてやっと認識するのが現状だ。
斎斗。 僕は君が好きだ。君を思い出すこの時期が、好きだ。
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