「大加戸、シフォンひとつ貰ってもいいか?」
ぼんやりとしていたボクは、かけられた声にハッとして振り向いた。
スタッフルームから由利さんが顔を出している。
「うちの王子様のおやつ」
苦笑しながら、由利さんは右手で拝むような仕草をして、もう片方の
手で陳列棚からシフォンケーキを取り出した。
このゴールデンウイーク、由利さんは全日出勤で、どうやら遊びに行
く約束をしていたらしい甥っ子がずっとお店に居座っている。
今までも時々お店に来ていたことはあったけど、ここまで由利さんに
べったりな子だとは思わなかった。その上、由利さんが信じられないく
らい甘々だ。目に入れても痛くないという程の溺愛ぶりに、呆れるを通
り越して感心してしまう。
…でも、少し羨ましいけれど。
「生クリームもつけた方がいいですよ。ラズベリーソースもあります
し」
ボクは冷蔵庫からそれらを取り出すと、由利さんの持つお皿に取り分
けた。
「ありがとさん」
由利さんは小さくウインクするとスタッフルームに戻って行った。お
昼の休憩時間はずっと甥っ子とスタッフルームにこもっているけど、よ
く飽きないものだなと思う。昨日偶然見かけたときは、2人ともただ
くっついてお互いに自分の本を読んでいた。休憩時間の由利さんはと
もかく、高校生の甥っ子は他にすることなどないのだろうか。
…それだけ仲が良いのだろうな。
あれだけ年齢が離れているのに、ここまでべったりなのも珍しい。特
に、高校生にもなった男の子が、叔父に小さな子供のように甘えるのを
初めて見た。
「…ボクも、あれくらい素直な子供だったらよかったんだろうか」
ボツリと、言葉が漏れた。
どうしようもない今の状態も、ボクがもう少し違った対応をしていれ
ば…。
どうしようもない事だけれど、そう、考えてしまう。
◇ ◆ ◇
ボクは大加戸聖。21歳。「haunt」でパティシエをしている。
パティシエといっても、ただ決まったスイートを作るだけの簡単な仕事
だ。朝から夕方までの、何だかバイトのような勤務である。
シェフである由利さんもケーキは得意で、よく限定品、といってはオ
リジナルケーキを作っている。
「haunt」に果たしてボクが必要なのかどうなのかは疑問だ。い
るに越したことはないだろうけど、必ずしもいなければいけない、とい
うわけではないと思う。
ボクにこの職場をあてがったのは、義兄である大加戸正登だ。ボクよ
りも14歳年上で、今年で35歳。ホテルチェーンのオーナーである義
父の跡継ぎであり、既にその才覚は父親を凌ぐとの評判すらある。
スラリとした長身、外国人俳優のように彫り深い、整った容姿、大柄
なのに引き締まった体躯。年齢以上の貫禄と威厳のある様子は、彼を一
般人とは違った存在に見せている。カリスマ、という言葉が自然と浮か
んでくるような雰囲気があった。
そしてそれは、彼がずっと若い頃から変わらない。
初めてボクが正登さんに会ったのは、秘書をしていた母とオーナーで
ある義父が再婚した10年前だ。
ボクが11歳、正登さんが25歳だった。
正登さんは既に義父の仕事を手伝うようになっていて、ボクから見る
と、「お義兄さん」というよりは、「怖い大人の男の人」でしかなかっ
た。
母が新しいお父さんとお兄さんができるのよ、と言って、ボクはよく
分からないまま大加戸の家に入った。
今まで母と暮らしていた2Kのマンションとはまったく違う、大きな
一戸建ての家。それが結婚するにあたって新築されたものであることを
知ったのは、随分後のことだった。
ボクの部屋にと用意されていた部屋は、正登さんの部屋の隣だった。
3階建ての近代的な建物は、当時には珍しい建築デザイナーの設計した
家で、2階が家族団欒のスペース、1階が夫婦のスペース、3階が子供
たちのスペースと分けてあった。今ならそれも理解できるが、当時のボ
クにしてみれば、母と引き離された上に年の離れた義兄のすぐ傍にいる
のはすごくイヤなことだった。
何より義兄になった正登さんは、子供の扱いに長けてるとはいいがた
い人だ。多分今まで子供に接する機会がまったくなかったのだろう、い
つも不機嫌そうで、近寄りがたいものがあった。
でも、結婚しても秘書を続けていた母はあまり家にはおらず、義父が
出張の時は一緒に行ってしまう。そうなるとボクの面倒をみるのは正登
さんだった。
オーナーの息子である正登さんは、とても融通のきく立場だった。円
満な兄弟関係とはとても言えないけれど、それでもボクの面倒を家族の
中で一番見てくれたのは正登さんと言えるだろう。
そう、ある意味、ボクを誰よりも気にかけて育ててくれたのは、正登
さんだ。
物心着く頃には既に父はおらず、ボクは鍵っ子だった。キャリアウー
マンの母はそれでも精一杯ボクの世話を焼こうとしていてくれたけれ
ど、生活のためにも仕事が優先された。
再婚後も仕事を続けた母は結局家には居つかず、ボクは正登さんと2
人っきりの生活を送っていた。
あまり感情の起伏を面に出さない正登さんに、ボクは同居して数年
経ってもなかなか打ち解けられなかった。
何より、正登さんは何かとボクを管理したがったのだ。学校も塾も、
すべて正登さんの手配したところになった。それだけではなく、日々の
生活の何から何まで、正登さんは細かく指示してくる。ボクの持ち物は
もちろん正登さんが選んで揃えたし、食事やお風呂、見るテレビまで全
部正登さんが干渉してきた。
そして極めつけは。
…あれは、中学生2年の頃だった。
ボクは正登さんに抱かれた。
どちらかといえばボクは奥手な方だったし、そういったことに疎かっ
た。
だから、正登さんが何をしているのか分からずに、戸惑っている間に
すべて終わってしまっていたのだ。
それからずっと、高校を卒業するまで関係は続いて、高校を卒業した
途端、ボクは正登さんに何も言わずに海外に逃げた。
お義父さんにこっそりとお願いして、お義父さんのホテルのフランス
の支店で働かせてもらうことにしたのだ。以前から調理することに興味
があったから、シェフ見習いとして修行させてもらった。
結局、フランスのホテルのパティシエの下に付くことになって、ボク
は曲がりなりにもパティシエとして何とか形になったのだ。
でも正登さんは2年後、まるで何もなかったかのようにボクを迎えに
来た。
そしてボクは正登さんに連れられ帰国して、この「haunt」で働
くようになったのである。「haunt」のオーナーが正登さんの知人
だったらしい。オーナーの御崎さんはとてもいい人で、いったい正登さ
んとどういった知り合いなのか謎だった。
「あの、大加戸さん」
不意に声をかけられてハッとして顔を上げた。またもやぼんやりと思
考にハマっていたようだ。
振り向くと、由利さんの甥っ子である有里くんがニコニコと柔らかく
笑っていた。
「ごちそうさまでした。シフォンケーキ、おいしかったです」
どうやらさっき由利さんが持っていたケーキのお礼を言いにきてくれ
たらしい。
「ありがとう」
ボクも有里くんにつられたように小さく笑った。
有里くんは高校生とは思えないくらい小さくてカワイイ。すごく甘え
ん坊な感じがするけど、素直で人懐っこい雰囲気があって、人見知りぎ
みなボクでも構えることなく接することが出来た。
…ボクもこんなふうだったらよかったのかな。
有里くんとボクは、少し境遇が似てる。母親が再婚してできた義理の
兄に育てられたボクと、義理の叔父に育てられた彼。
でも、環境はまったく違ったんだろう。
有里くんが、叔父である由利さんのことが好きでたまらないのは誰の
目にも明らかだし、由利さんが彼を溺愛しているのもすぐに分かる。
何の意思表示もされないまま、肉体関係だけが続いているボクと正登
さんとはまったく違った。
とにかく正登さんはボクを管理したいのか、いつも監視されているよ
うな気持ちになる。出勤から帰宅の時間まで、逐一正登さんは確認して
くるのだ。私用で少し出かけるのでさえ、正登さんはいい顔をしない。
ボクはがんじがらめに縛られたペットのような存在なのだろう。
ため息が漏れそうになったボクの前で、先に有里くんがため息をつい
た。
「ホント、大加戸さんって綺麗ですよね。僕、今まで大加戸さんほど綺
麗な人って見たことないや」
「…そう?」
ボクは苦笑した。確かに昔からよく容姿は褒められる。自分ではよく
分からなかったが、ボクの容姿が世間一般的に整ったものであることは
事実なんだろう。
「お兄さんが心配して過保護になるのもわかっちゃいますよねー」
「え?」
ボクは有里くんが言った、思ってもなかった言葉に驚いた。
正登さんが、…過保護?
「だって、お兄さんってめっちゃくちゃエリートって感じの仕事できそ
うな人なのに、大加戸さんのこと迎えにきますよね? 夕方、仕事終わっ
たらすぐに来てるんだろうけど、そんなに定時で仕事って終われないと
思いますよ。大加戸さんのこと心配だから、毎日のように迎えにくるん
じゃないですか? っていうか、もしかして大加戸さんのこと送ってか
ら仕事に戻ってるんじゃないかな」
「………」
確かに、正登さんはボクを家に送り届けたら大抵またすぐに出かけて
しまう。
「それに、迎えに来ない日って必ず電話あるんでしょ? 清蔵ちゃんに
かかってきて、大加戸さんのこと明るいうちに帰してくれって言ってく
るらしいですよ」
「え…?」
そういえば正登さんの来ない日、由利さんはボクを早く終わらせてく
れていた。
「それに、毎朝お兄さんが車で送ってくるし」
「…それは義兄の勤務先がこの近くだから…」
「ふーん? じゃあ、大加戸さんがお兄さんのコネでこのお店に来たのっ
て、それが理由なのかな? ほんと、大加戸さんのお兄さんって、大加
戸さんのこと大事でたまんないんですね。溺愛ってこういうこと言うん
だなー」
「え、…え?」
ボクは思ってもいなかったことを言われて思考が追いつかなかった。
溺愛?
それは由利さんの有里くんに対する態度の方なんじゃ?
出勤や帰宅のときに顔を出すのは、ボクを管理していたいからじゃな
かったんだろうか?
「あ、大加戸さん、お迎えがきたみたいですよ?」
混乱しているボクに、有里くんが入り口の方を指差した。
そこには、相変わらず整った容貌に冷めた表情を乗せている義兄の姿
がある。
正登さんは躊躇う様子もなく厨房に入ってきた。
「聖、帰るぞ」
低い、威圧感を感じさせる命令口調だ。
でもボクは、たった今有里くんに言われた言葉が頭の中をぐるぐる回っ
ていて、すぐに反応できない。
「聖?」
いぶかしげな声音で呼んで、正登さんがボクの顔を覗き込んでくる。
ハンサムな顔だ。はじめて見た時から、カッコいいと思っていた。少
しも笑いかけてくれないことが悲しかった。
「あ…」
ボクはいつになく混乱して、ふいと顔を背ける。
「聖、着替えてくるんだ。今日は時間がない」
正登さんは腕時計に視線を落として、すぐに視線をボクに戻して言っ
た。
ボクは言われるままスタッフルーム行き、慌てて着替えると正登さん
のところに戻る。
「行くぞ」
正登さんは顎でしゃくるようにボクを促して、背を向けるとさっさと
歩き出してしまった。
「おつかれさま、大加戸さん」
ひらひらと手を振る有里くんに挨拶を返して、ボクは店の前に止めら
れた車に乗り込んだ。
正登さんが車をスタートさせる。
「今日は遅くなるから、先に寝ていなさい」
真っ直ぐ家に向かって車を走らせながら正登さんが言った。
ボクはそれにうなずいて、でも、初めて正人さんの行動の意味を考え
た。
時間がないと言いながら迎えにきて、ボクを送ったあと、多分遅くま
で仕事があるだろう正登さん。
管理されていると思っていたけれど、…本当にそうなんだろうか?
「戸締りには気をつけるんだぞ」
家に着くと、正登さんはそう言ってボクに軽くキスをすると、そのま
ま車から降りもせずに行ってしまった。
それを見送って、ボクは不思議な感情がわきあがってくる。
「正登さん…」
胸が苦しいような、不思議な気持ちだった。それが何なのか知りたい
ような、知りたくないような気持ち。
「正登さん」
小さくつぶやいて、でも、ボクは考えるのをやめる。なぜか考えるの
が怖い。
ただ、さっき触れた唇が、ジンとしびれているような気がした。
END
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