地下2階、地上10階のビルに、スイミングプール、マシンジム、スタジオ、テニスコート、スカッシュコートなどの各種スポーツ施設を備えている会員制スポーツクラブ。 ぼくはそこで、エアロビクスのインストラクターをしている。男性インストラクターは数少ないけれど、ありがたいことに、ぼくは週に6クラス受け持たせてもらってる。エアロビ愛好者向けの、レギュラーコース。 そして、もうひとつ。マシンジムフロアの片隅に設けられたスタジオで行われる、マシントレーニングに飽きた人たちが気軽に参加できるような初心者向けの軽いクラスも、ぼくの担当だ。 マシンジムコース利用者へのサービスで行われているそのクラスには、エアロビなんか一度もしたことないような中高年のおじさんが参加してきたりして、レギュラーのエアロビコースにはない初々しさとかなごやかさがある。 正直言って、レギュラーで持ってるクラスより、ぼくはこっちのクラスのほうが好きだった。そろわない足の高さだとか、すぐにずれてしまう動きだとかが、なんとも言えずユーモラスで、雰囲気が柔らかいのが気に入っている。それと……レギュラーのエアロビコースの生徒は女性がほとんどだけど、こっちは男性が主体っていうのも、ぼくがこのクラスを気に入ってる理由のひとつかもしれない。 別にぼくは女嫌いってわけじゃなかったんだけど……。エアロビのインストラクターってやっぱり女性が多いし、生徒も圧倒的に女性が多い。世の男性にはうらやましがられてしまうようなそういう環境に長くいて、ぼくはかえって女性に食傷気味になってしまったのかもしれない。若い女性の勢いのよさとか強さとか、そういうのにアテられちゃった感じかな。自分が好きなことに対してものすごく貪欲な彼女たちを間近で見ていて、女性に対する夢とかがなくなってしまった、そんな感じ。 同性同士ってやっぱり気楽で。 うん。 ぼくはそのクラスが好きだった。
その日も、ぼくはマシンジムの奥にあるそのスタジオでインストラクターを務めていた。 夜8時から始まるクラスは、その日の最終レッスン。参加者は管理職風の中年男性が3人だけだった。 「じゃあ時間なので始めまーす。まずストレッチから入りまーす」 ぼくは声をかけてレッスンを始める。 そこへ、 「すいません」 明るい笑顔と挨拶とともに入ってきたのは、『彼』だった。 日に焼けた浅黒い肌に、インストラクターの一人かと見紛うほどに均整のとれた筋肉をまとった彼。なにかずっと、野球とかテニスとか、そういう球技系のスポーツをしてきたんじゃないかと思える、フットワークの軽さも備えた彼は、ここ一ヶ月ばかり、このクラスの常連になっている。 年齢は……ぼくとそう変わらない、20代中ごろ? 男らしい、なかなか整った、はっきり言えばハンサムなその顔を認めた瞬間、どきりと心拍が大きくなったような気がした。かっきりした眉、切れ長の瞳、少し厚めの唇が肉感的で。でも、その印象は決して二枚目然とした冷たいものじゃない。どちらかと言えば、やんちゃ坊主系の……ハンサムだけど、親しみやすい感じ。 その彼を目にすると、なぜだか最近、ぼくはドキドキするようになってしまってる。レッスンしていても、ついつい視線が彼に向かってしまって、慌てたりするようにもなっていて。 彼は慣れたふうで、教室の隅にあるウレタンマットを取りに行く。 「はーい、ではまず、腕の筋肉からー」 ストレッチの指導をしながら、彼があいた場所にマットを置くのを目の隅にとらえる。 こら。 しずまれ、心臓。
マットを使ったストレッチの後は、アップテンポの曲に合わせたエクササイズに入る。 ぼくは時に生徒さんたちのほうを向き、時に鏡のほうを向いて、正確に大きく、リズミカルな動きを見せる。 ぼくがそうして、生徒さんたちのほうを向いてダンスしてる時はよかったんだけど。 鏡のほうを向いたとたんだった。 彼の視線がぼくの背中を捉えて、離れなくなった。 背後だからばれないと思っているんだろうか……鏡に映っているから、もろバレなんだけど……。 動きを追う、生徒さんたちの視線には慣れているけど、彼の視線は普通のそれとはちがう、なにか執拗さを持って、ぼくの背中から離れない。 まるで……視線で犯されているみたいな……。 ああ。視姦って言うんだっけ……。 この一ヶ月、決まったようにこのクラスに顔を出す彼の真意を、ぼくは聞いたことがなかった。どうして? どうしてぼくが指導しているこのクラスに? 彼の視線を受けて、背中どころか、全身がこわばるような気がしてくる。 だめだよ……だめだ、そんな目で見ないで……。 鏡ごしに、彼と目が合った。 彼は慌てたように視線を逸らす。 だけど。またすぐ、彼の視線はぼくの背中に戻って来る。――ぼくを見つめる、彼の視線。 ああ……。 背中が、焼ける……。
* * * * * *
レッスンが終わった時だ、いつもならすぐにスタジオを出て行く彼が、妙にぐずぐずしていて。 何度かぼくに向かって話しかけようとはするんだけど、思い切りがつかないみたいで。 だから、ぼくはぼくのほうから、彼に話しかけてみる。 「よくこのレッスンに参加なさってますよね」 「え、ええ」 彼は少しびっくりしたふうで。 「エアロビ、お好きなんですか?」 サービスで設けられているこのクラスから、レギュラークラスに勧誘するのも、ぼくの大事な仕事のひとつだ。 「このクラスはいわば入門編を繰り返すだけだから、そろそろ物足りないでしょう? 一度、レギュラーのクラスに参加なさってみませんか?」 ぼくの勧誘に、彼は少し困ったように顔を伏せて……、 「……好きなのは……エアロビじゃないですから……」 思わずぼくが、「えっ」と聞き返さなきゃいけないようなことを口にする。 彼の顔が、ほのかに赤くなったように見えて。 その時。ふいに、ガラスで区切られたマシンジムフロアの照明が落ちた。ガラス壁の向こうが闇に沈む。 「すいませーん、フロアの最後、お願いできますかー?」 マシンジムの担当インストラクターがスタジオの扉を開けて、中を覗き込んできた。 「あ、はい! やっておきます!」 ぼくが応え、「じゃあお願いしまーす」と、ガラス扉が再び閉じる。 隣のフロアは、真っ暗で、もう誰もいない。 このスタジオに残っているのも、彼とぼくだけ。 急にあたりの静けさが濃くなった気がして、ぼくは落ち着かなくなる。 「じゃ、じゃあ、ぼくたちも、帰りましょうか……」 そう言って、ぼくは壁際にある、スタジオの照明スイッチへと歩み寄った。 パチ、パチ、パチ、ぼくがスイッチを押すたびに、スタジオのライトが、ひとつ、またひとつと、消えて行く。 最後に、一番前列の、鏡側のライトを落とそうと指を伸ばしたところで。 ぼくは後ろから彼に抱きすくめられた。
「好きです」 なんて。 耳元で囁かれた。 「おれ、先生が好きで……だからずっと、このクラスに来てて……」 ぼくの躯をあちこちまさぐる彼の手と、耳朶に吹き込まれる余裕のない声音に、ぼくはうろたえる。 「な…じょ、冗談が過ぎますよ……!」 「冗談なんかじゃないですよ!」 彼が怒ったような声を出す。 「先生、おれ、ずっと先生のこと見てたんですよ。先生、すんごい華奢で、同じ男とは思えないなって最初は思ったんだけど、腕とか、脚とか、やっぱ女とちがうんだよね。すらっとしてて、すごい綺麗で……おれね、おれ、先生、ずっと先生に触りたいなあって思ってたんだ」 こんなふうに……って聞こえたのは空耳だろうか。 彼の手が、ウエアを引っ張りあげて、あらわになったぼくの腹部に触れた。熱でもあるのかと思うほどに、その手は熱くて……少し湿ったその手に、おなかや胸を撫でさすられて、ぼくはたまらず身をよじった。 「だ、だめだよ! な、なにをする……」 「なにって、だから、」 彼の手がぼくのあごを捉えて、後ろを振り向かせる。すぐ間近に、黒々と光る彼の瞳があった。その目は全然、笑ってなくて。まっすぐにぼくの視線をとらえて来て。背中が粟立った。 「おれ、先生を可愛がりたいの。ずっとそうしたいって思ってたの」 もともと近くにあった顔が、さらにぐっと近づいて来た。 あ……。 ぼくの唇は、やっぱり熱い彼の乾いた唇に、覆われた。
『なにしてるんですか』なんて。 言いたいけど、もう言えない。 だって。ぼくの口は塞がれていて。 ぼくの舌は、吸われていて。 ぼくは抗議の声を上げることもできないまま、彼にディープなキスをされる。 でも……。自由に言葉を操れる状態でも、彼に抗議したかどうか……。 彼に背後から抱きしめられながら、唇を奪われるそれは、あまりに気持ちよすぎたりして……。
口付けひとつで、とろとろになってしまったぼくは、いつの間にか鏡の前まで連れて来られている。 やっぱり彼は背後からぼくを抱きしめていて……前に回した手で、ぼくを淫らに嬲る。 もう上着は脇の下までたくしあげられ、押し下げられたパンツからはぼくの性器が飛び出している。 かりっ。 耳たぶをかじられて、彼の手の中でぼくの肉茎はぴくんと跳ねる。 「アッ、だ、だめだよ、そん…っ」 「だって」 荒い息遣いとともに、彼の少し上ずった声が言う。 「先生、すんごいイヤラシイんだもん…可愛いし」 「あ、な、なに、バカなこと……」 「バカでいいよ、おれ。だからもっとエッチなこと、していい?」 理屈になってない理屈でねだられるようにささやかれて。 「はぁ…う、ん…」 ぼくの口からは情けないほど甘く蕩けた声がもれてしまう。 彼の指先で、ぼくの乳首がこれ以上ないほど、赤くなってとがっているのが鏡に映っている。 上気した顔、乳首をくるんとこねられて、鏡の中のぼくが口を開く。 いやらしい喘ぎ声が耳朶を打って、ぼくはたまらず目を閉じる。 「先生、……ここも、すごい」 うながすような彼の声。 おそるおそる目を開けば、彼の膝によって大きく広げられた脚と、彼の手にくるまれて、ひくひく言ってるペニスの先端が目に入る。ソレがもう浅ましいほどにたらたらと雫をしたたらせているのまで、鏡には映っている。 「イヤッ…!」 思わず叫んでうつむいたけど、彼の手がぐいっとぼくのあごを持ち上げる。 「だめだよ、先生、ちゃんと見て。……ほら、すごく綺麗だよ?」 たったひとつ、残ったライトの光の中で。ぼくの躯は淫らにくねる……。
* * * * * *
曲が変わったのに気づいて、ぼくははっとする。 なんて妄想に浸っていたんだ! 気づくなり、かっと顔が焼け付くような羞恥が襲ってくる。 「はいー、ステップ、右、右、左、左、腕を大きく振ってー」 わざとらしく大声を上げる。 やばい。 なんて想像しちゃってたんだか! 身体のほうはなんとか決まった動きを追っていてくれたみたいで、参加者の顔を恐る恐るうかがってみたけど、不審そうな表情でぼくを見てる人はいなかった。 ほっとした次の瞬間。 また、ばっちりと彼と鏡こしに目が合って。 ――ダメだよ、そんな。 ぼくはぼくを不埒で淫らな妄想に引きずり込んだ、熱く絡みつくような視線を送る彼から、意識して目を逸らした。 視線でぼくを犯す、彼から逃げたくて……。
レッスンが終わった時だ、いつもならすぐにスタジオを出て行く彼が、妙にぐずぐずしていて。 それはぼくが想像にふけってしまっていた時に見た、彼の表情とまったく同じで。 ばかばかしい! 自分で自分を叱るんだけど、心臓が勝手にどんどん早くなった。 彼がもし、本当に、あんなマネを仕掛けてきたら……ありえない、否定するのに、ぼくの心拍はどんどん上がってしまう。 彼がついに、意を決したようにぼくのほうへ歩み寄って来て、 「…すいません」 思い詰めたような口調でそう切り出した時には、もう心臓が口から飛び出るかと思った。 「あの、」 彼は声をひそめて、ほとんどつらそうに、ぼくに告げた。
「値札、ついたままですよ」
うん? いいんだ。 どうせオチはこんなもんだって、ぼくはちゃんとわかって……。
泣いていいですか。
* * * * * *
いつもに倍した疲労感と脱力感に悩みながら、ぼくは通用口から外へ出た。 ……考えたら。 ぼくは別に男が好きってわけじゃないし。 あんな想像しちゃったのは、そう、事故みたいなもんだし。 おろしたてのウエアにタグがついたままっていうのは、そりゃ赤面モノの失敗だけど。 だけど別に、レッスンに支障を来たしたわけじゃないし。 うん。 別に。 ぼくはなにもなくしてないよ。 そう自分に一生懸命、言い聞かせながら歩いていたら……。 「…あの、」 街灯の下に立っていた男に、突然声をかけられた。 えって驚いて目を上げたら。スーツに身を包んだ彼が立っていた。 「すいません、驚かせて。待ち伏せちゃいました」 彼は笑いながら明るくそう言うと、ちょっとかがんでぼくの顔をのぞきこむようにした。 「おれのこと、ご存知ですよね? いっつも、先生のクラスを受けてる……」 「あ、はい…」 彼の意図がわからなくて、戸惑って彼を見上げるぼくに、彼はちょっと表情を改めた。 「その、今度一緒に、お食事でもいかがですか?」 「は?」 聞き返したぼくはかなりマヌケな顔をしていたと思う。 「食事。ってか、おれ、はっきり、先生を一度デートに誘いたいんですけど、いかがですか?」 直球の誘いを投げてきながらぼくの目を見る彼の瞳は、想像の中の彼と同じ真剣さを底に秘めてて……。 「でも、ぼく、値札…」 ぼくは思わずつまらないことを口走った。 彼は吹き出しながら、うなずいた。 「あれね、先生、すごく可愛かったですよ? おれ、あれ見て、こうして先生に声かける勇気が出たんです。先生、今まではホント、スキがないっていうか、おれなんかには高嶺の花って感じだったから」 ねえ、先生。 そう、ぼくの耳元に口元を寄せるようにしていう彼の声は、ぼくの想像のなかのものより、うんとセクシーに響いた。 「はいって言ってください。おれと、デートして?」
……まあ。 こういうオチなら、悪くないかも。 ぼくはうなずきながら、自分の手の甲をつねってみた。 うん。 現実だ。
了
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