荒かった呼吸が徐々に平静さを取り戻していく。 目の前にある広い背中も今はゆっくりと呼吸に合わせて上下するだけで、それもすぐに寝息に変わった。 規則正しい息を聞きながら椿はゆっくりと身を起こした。 布団は散々に乱れ、椿の着ていた着物も、帯もそこかしこに転がっている。 色とりどりのそれらは室内を妖しく、何処か排他的な雰囲気にさせていた。 「まぁその方が場所柄にも合ってるしね。」 口に出さずに一人ごちて椿は寝ている相手を起こさないように静かに上体を起こし、一番近くにあった敷布を適当に素肌に巻きつけ立ちあがる。 立ちあがった瞬間足の間をツゥと伝う感触と鈍い疼痛に思わず顔を顰めた。 後始末をしていなかった事を後悔したが今はそれ以上に新鮮な空気を胸一杯に吸いたくて、足は自然と窓へと向かっていた。 一歩、また一歩と歩く毎に下半身を覆う凝った熱は体積を増すかの様に感じられた。 やっとの思いで窓に辿り着く頃には、息もすっかり上がっていた。 「はっ。」 大きく息を吐くが、溜まった熱は二酸化炭素と一緒に出ていってはくれなかった。 それでも冬の冷たい寒気は椿を満足させてくれる物だった。 風が冷たくて頬を庇う椿の細く白い腕には先程の行為の跡が紫色に変色している。 見れば、痩身のいたるところに手酷い他者の侵略の証が刻まれていた。 溜息が出る。 これでは流石に今日、明日のうちは商売にならないだろう。 椿の客の多くは社会的地位が高い者達で、彼らは一様に自分以外の者の跡を酷く嫌うのだった。 椿は安らかな寝息の主を軽く睨んだ。 所詮は如何しようも無い事だとは椿自身良く分かっていた。 椿は自分の容姿が人に与える印象を誰よりも理解しているのだから。 細い首も、しなやかな腰も、幼さの残る面差しも全てが見る者の獣性を呼び起こす、良く言えば色っぽく、悪く言えばサディスチックな気分を刺激する。 全てを了解した上で自分自身を売り物にしてきた。 椿だけが特別なのではない。 ここ花街ではごく当たり前のことなのである。
遊女、色子が通りで華やかな嬌声を上げ、一晩情を交わした客に「また来るように」「他の相手を揚げないように」と誘い文句と流し目一つ贈って送り出していた。 椿はそんな様子を冷めた溜息を付きながら二階の窓から眺めていた。 今日の客は居続け(前金を支払い、何日も続けて遊郭に泊まる事)なので椿は外の列には加われないのだった。 「何を見ているんだ?」 不意に声をかけられて振り向くと寝ているとばかり思っていた客が起きていた。 「何でもありませんよ。 貴方と一緒なのに他に何を考えることがありましょう?」 思わせぶりな会話も椿の仕事の一部である。 相手も当然そんな事は承知の上で、ただ肩を竦め曖昧な笑みを浮かべるだけである。 「誰にでも同じ台詞を吐くのであろう」 疑問ではなく確認の口調と同時に伸ばされた腕に促されるまま、椿は上半身を客に預けた。 客の名前を馬場 雄一朗と云う。 噂によると昨今巷を騒がせている『妖花百選』と言う春本家らしい。 彼の作品はその名の通り遊女達の艶やかな姿を独特の文章と美しくも艶めいた絵で綴ったものであるのにも関わらず、一年ほど前からこの遊郭に打出入りし、あまつ色子である椿を毎度ご指名とは・・と言う話が花街の七不思議の一つに数えられているのだった。 しかし当人はケロリとしたもので、椿自身この一風変わった客にすっかり打ち解けていた。 物書きだと言われれば、あぁそうかも知れぬと思わせる繊細な指が椿の細い顎を捉える。 実に心得た仕草で口付けを促された。 よほど慣れているのだろうなと巧みな口付けの合間に椿はぼんやりと思った。 開いた方の手で着物の合わせを乱され、手が滑り込んできた。 「んぅっ!」 緩慢とした動きに煽られる様に口付けが深まってきた。 丁度その時、階下から世話役の声が聞こえた。 「お客さん。書生さんがいらっしゃいましたよ。 何でもお届け物があるそうです。入ってもよございますか」 椿は慌てた。 こんな状況を客以外の人、ましてやあの純朴そうな書生さんには見られたくないと必死に抵抗するが、如何せん口が塞がれているのでフガフガと意味をなさない音にしかならなかった。 そんな椿を諌めるように馬場は一層深く唇を犯し、椿の息がすっかり上がるのを確かめてから承諾の返事をした。 すぐに目の前に人影が現れた。 しかし、呼吸困難寸前まで追いこまれた椿の目には生理的な涙が浮かんでおり、人影を正確に捉える事は出来ない。 「先生、お遊びに出掛ける際には財布ぐらい持ち歩いて下さいとあれほどに・・」 声の主は椿の存在、引いてはいまの状況を理解したらしく言い終わらぬまま手にした包み(大方、揚げ代だろう)を入り口に置いて退散しようとした。 しかし馬場が許さない。 「笹間君、もう少し良いじゃないか。」 何でもないことのように言った言葉が椿と書生、もとい笹間 良彦を驚かせる。 《そんな!》 二人の抗議の声をものともせず馬場は続ける。 「笹間君も十八歳に成った事だし、そろそろ大人のイロハを 教えてあげなくてはと思っていたところなのだよ。」 親切心か下心か何にせよ椿には断れるはずも無かった。 だが、良彦は違った。 「勘弁して下さい。 私は一介の書生に過ぎず、一人立ちしてもこのような高級 な遊郭に出入りする日が来るとは到底思われません。」 「それだ!」 馬場が突然大声を上げた。 「君はどうも遠慮が過ぎる。 そんなでは色遊びの一つも出来ない偏屈な大人になって しまうではないか。」 その方が良いのではないかと椿には思われたが、そうだな?と同意を求められると金で買われた身としては「はい」としか答えようが無かった。 「ほうら。 椿もこう言っていることだし見学していきたまへよ。」 馬場の子供のようなはしゃぎ声とともに色事指南という名の妖しい夜の見世物の幕が切って落されたのだった。
室内には絡み合う二人と、居心地悪そうに座る一人の人間が居た。 「さあ、もっと足を開いて。 笹間君に良く見せてあげよう。」 同時に両腿を左右に大きく開かれ、羞恥に耳を真っ赤に染め上げた椿はせめて目を逸らそうと頭を動かすが、馬場の容赦無い力で強引に良彦と視線を合わせられる。 良彦はまだこう言った経験が無いのか酷く狼狽し赤面していたが、その瞳には乱れた己の姿が映っていた。 それを視界の端にチラリと捕えた瞬間、椿はこの場から逃げ出したいという衝動と戦わねばならなくなる。 椿の様子を逐一観察していた馬場はフフッと意味ありげに笑うと慎ましく口を閉じていた椿の後孔に指を潜り込ませてきた。 「あっ。」 反射的に上がった声を恥じるが、声はきっと良彦にの耳にも届いてしまっただろう。 椿に出来る精一杯の事といえば、これ以上浅ましい声を出さないように掌で口を押さえる事だけだった。 嬲る手はそのままに馬場は良彦に言った。 嬉しくて堪らないという口調であった。 「君のお陰だよ。笹間君。 羞恥が椿を一層敏感にしている。ほら、こんなに指に食い ついて。 今からこうでは本番はどんなになるか・・」 想像してごらんよと囁く声音に椿はいやいやと力無く頭を振るが聞き容れられない。 くちゅくちゅと湿った音だけが室内に響く。 良彦に見られていると思っただけで椿の体温は一度も二度も上昇した。 気の遠くなるほど長い時間指で慣らされた椿の秘めやかな蕾は熱を持って、もっと違うものを欲しがり始める。 中の具合からそれが分かるのか馬場は指を引き抜くと、自身の前をくつろげた。 「んぁ・・ぅ。」 指が出て行くその感触にさえ感じ入り堪えるような声を漏らして、椿は畳の上に突っ伏した。 着物は乱れに乱れ、前は辛うじて紐が結んであるだけの有り様である。 艶やかな媚態を見せ付けられた良彦はまずい気持ちになりかけ、そんな自分を叱咤した。 「苦しいなら自分で処理しても構わないよ。 何なら、椿に手伝って貰うかい?」 良彦の動揺に気が付いていた馬場はわざと意地悪を言う。 椿の美しい双眸が驚きに大きく見開かれた。 「ご冗談を。」 下手なつくり笑顔で嘯く良彦の返答に一方は安堵の溜息を漏らし、もう一方は残念そうに口を尖らせた。 「冗談のつもりは無いけどね。」 そうして、椿の腰を抱きかかえると、あぐらをかいた自身の上にすとんと下ろしてしまう。 爛れた内壁を灼熱が擦り上げる。 「ああっ・・いやあ。」 大きな悲鳴とお嬌声ともつかない声が椿の花びらの如き唇から零れ落ちる。 「嫌じゃないだろう。吸い付いてくる。」 馬場が椿の耳元に熱い息とともにそんな睦言を吹き込む。 只でさえ神経が尖って些細な刺激も快感に変換してしまう椿は。馬場を締め上げた。 「うっよく締まる。いいよ椿。」 馬場は無意識に閉じていた椿の膝に手をかけ、繋がっている所が良彦にも見えるように大きく開かせた。 「笹間君。憶えておくといい。 普通色子を抱くときは後ろから、挿入もごく浅くするものだ。 だが、椿のように慣れた色子だと深くするのを好む者もい る。 相手が何を望むかを感じ取る事が大切なのだよ。」 講釈を垂れながら大きな律動を送りこんでくる。 快感の源を散々に掻き乱されては、椿はもう理性など保っていられなかった。 「あっ・いあ・・ああ。」 律動に合わせて淫らに声を上げるだけで。 馬場の手は前に回した手で敏感な処を残らず弄り、椿に良い声を上げさせ続ける。 きつい締め付けに満足な様子の馬場は声高に宣言した。 「夜は長いよ。」 声とともに狂おしく長く、同時に濃密な夜は更けていくのだった。
何度目かの昇天の後、先に意識が戻ったのは椿の方であった。 隣に眠る馬場の息はすでに寝る者のそれへと変わっていた。 良彦が見当たらない。 椿は辺りを見回すと部屋の端に置かれた屏風の裏に動く気配を感じた。 ああ、そう言うことかと納得した椿は重い下肢を引きるようにして気配の主に近づいた。 屏風の裏では思った通り良彦が自身を慰めていた。 「椿さん!」 闖入者の存在に気が付いた良彦は慌てて無防備な前を隠そうとするが、夜目にも白くたおやかな腕がそれを遮った。 「・・?」 不審な目つきで椿の真意を探ろうとする良彦に椿はキッパリと言い放つ。 「私の仕事ですから。」 椿は躊躇いも無く、若い欲望に口を寄せた。 舌で触れた刹那、「そんな:」という情けない声が頭上から降ってきた。 椿は口にいれた物を一旦出し緩々と撫でながら自嘲的な笑みを濡れ濡った唇の端に浮かべた。 「私のような下賎の色子に触れられたくないか・・。」 呟きは、良彦の快感に濁った耳には入らなかったようだ。 「でも。 それでも。プロですから。お任せ下さい。」 改めてにっこりと笑うと椿は良彦自身を口に含んだ。 舌を使い、手で幹を擦り上げて咽の奥深くまで良彦を迎え入れた。 「椿さん・・椿さんっ。」 切羽詰った声を上げながらも良彦の腰は自然と揺れている。体は自然と本能の赴くままに快感を追いかける術を心得ているのだろう。 快感に弱い年頃だ。 嫌悪しているだろう自分の手に触れられても、躊躇いなど何処かへ飛んでしまっていると椿は思った。 少し痛んだ胸を無かったことにして、一層強く椿は吸い上げた。途端、口の中に暖かい奔流が迸る。 荒い良彦の呼吸を聞きながら椿は襲ってきた睡魔に逆らうことなく、深い深層世界へと落ちて行った。
良彦は椿の美しい寝顔を暫くの間惚けたように見入っていた。 初めて会った時からなんて綺麗な人なんだろうと思った。 先生と懇ろな関係であると知っても、驚きはしたものの気持ちは揺らぎなどしなかった。 でも所詮自分は一介の書生で、高級遊郭の椿を請け出す権力も金も無い。 色事にいくら不慣れな良彦でも身請け代、即ち遊女や色子が親から背負わされた借金が並ではないことは分かっていた。 こんな無力な自分では想いを伝える事すら出来ないと良彦は溜息を吐いた。 八方塞がりなのだった。 目の前を煩くしている前髪を掻きやる良彦の手の間から花を思わせる椿の唇が覗いた。 己の唇を椿のそれに重ねたのは無意識だった。
「ま、そう言うことなんだろうね。」 暫くの後、良彦が寝入った頃合いを見計らったように馬場が体を起こす。 実は全て聞いていたのだった。 「売れっ子の色子と書生。話の種にはなっても報われない二 人か・・ 切ないな。青い春って奴かな。」 口元に綻ばせ、遠い目をした馬場は自身の苦い思い出でも味わっているのだろうか。 「さて。如何したものかぁ~。」 間延びした独り言は誰にも聞かれはしなかった。
次の日、目を醒ました椿と良彦に馬場は事も無げに言った。 「昨日はとても善かったよ、椿。 勿論笹間君にも礼を言う。 しかし、残念なことに私はこれから数日の間、北の方へ取 材旅行に行かなくはならない。居続けの代金はあと一週間 分も残っているのに・・ね。 そこで私の可愛い愛弟子の笹間君に私の代わりに楽しんで もらおうと!と、こう思った訳だよ。」 少々芝居がかった口調には隠し切れない色悪さが覗えた。 「先生!」 恥ずかしい提案に上ずった声を発した良彦は泣き出しそうな顔をした。 良彦がどんなに馬場はあくまでマイペースだ。 胸の懐中時計を探ると、「急がねば」とか言って、古びた鞄一つ手に出て行ってしまった。 残された二人はただ呆然と馬場の後ろ姿を眺めるだけであった。
その夜。 思いもよらない事件が起こった。 眠れないのである。 左右の部屋から絶え間無く艶かしい声や息遣いが聞こえるからだ。 こんなに声が響くものなのかと・・椿も改めて驚いた程であった。 普段は自分もこの刻限には同じような声を上げさせられている為だろうかと椿は自問自答した。 布団を頭から被っても高い声は綿の壁など容易に透過してしまうようで、何の役にも立ちはしなかった。 諦めの嘆息を吐きながら何度も寝返りを打つ椿よりも余程危機迫った人物がいた。 言わずもがな良彦である。 慣れない布団に加え、長年染み付いた香りは日干しした位では消えるはずも無い。 そうした全ての要素が良彦に健康な男子としてはどうしようもない衝動を掻き立てる。 しかし、自分で慰めるには部屋は余りにも狭すぎた。 今朝のように椿に見つかってしまうだろう。 物慣れない良彦は誰に咎められた訳でもないのに赤面した。 そして・・またあんな風に椿の可憐な唇を己の劣情で汚してしまうのは良彦には耐えられない。 自分の考えを自ら打ち消しながらも若い体は本人の意思を裏切り、強烈な快感を思い出しては益々欲望を募らせた。 不意に椿が立ちあがった。 まさか自分の疚しい考えに気が付いたのでは、と良彦は身を硬くしたが、どうやら杞憂に過ぎなかったようである。 椿は良彦の布団の横を通りすぎると暗闇とは思えないほど慣れた足取りで入り口付近にある押入れの前で立ち止まった。 目を凝らしてみると、椿が小さな箱を手にしている事が分かる。 漆塗りの小さなそれは所々塗りが剥げ落ちていて、随分使い込んである。 極自然な手つきで椿は燭台を引き寄せ、短くなった蝋燭に火を燈した・ するとおもむろに自らの着物の裾を大きく開き足の間を覗きこむように上体を屈めた。 目を見張った良彦は遅まきながら椿の意図にに気が付いた。 昨夜の度重なる情交が椿の細い体にダメージを与えていない筈が無いのに、良彦が居た為に今まで治療が出来なかったのだろう。 悪いことをしたと後悔の念に駆られるのとは裏腹に、良彦はあの時馬場によって無理矢理に見せられた椿の桜色をした粘膜を様様と思い出してしまう。 居ても立ってもいられなくなった。 手にした箱から軟膏を指に掬えるだけ掬って、痛む箇所へと丁寧に塗りこめる。 作業に熱中していた椿は人の気配が背後にまわって初めて気が付いた。 「良彦・・君?」 他に誰が居るとも思えなかったが、何時もの良彦の雰囲気とはかけ離れた気配であった。 みっともない格好を何とかしたいが、どうする事も出来ないままに椿は暗闇へと声をかけた。 途端、伸びてきた腕が椿を捕える。 「なっ何?」
答えは言葉ではなくもっと分かりやすい形で与えられた。 良彦の腕は燃えるように熱い。 明らかに昂ぶっている人の体温だった。 椿の咽が恐怖にヒクッと戦慄く。 こんなにも不躾な、荒々しい熱に触れられた随分久しぶりだ。 「分かるでしょう」 声さえも違っていて欲望に掠れている。 「慰めて下さい。お仕事でしょう?」 椿の美しい瞳から大粒の涙が零れ落ちた。 何の為の涙なのだろうか。 落ちぶれた自分を嘆くため? 好意を寄せる相手に故意に酷い言葉で傷つけられたから? 次々と浮かんでくる理由はどれも正しいようで、全て違うようでもあった。 十数時間前には自ら触れた良彦自身に今は強いられて触れさせられる。 涙は後から後から溢れた。 決意の赤・前編〈完〉
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