夜中の公園。人気の無い場所にひっそりと立つ一本の桜の木。その木の下に一人の青年が立っていた。 「もうあの日から一年が経つんだね……」 その青年――隆起(りゅうき)は桜の幹にそっと触れると、頭上に広がるピンクの花弁を仰いだ。 「雪哉(ゆきや)さん……」 その隆起の声は切なく響いた。
雪哉とは一年前に交通事故で亡くなった隆起の恋人だ。 この桜の木は、隆起と雪哉が初めて会った思い出の場所。雪哉が亡くなってから、近づかなかったこの場所に隆起は今日、自分の意思でやってきた。 雪哉と出会い、それから幾日もの日々を過ごし、雪哉に告白した場所。それからこの桜が咲いたら毎年二人でお花見したりした。そして『一緒に住まないか?』と高校の卒業式の日に雪哉さんに誘われたのもこの桜の下だった。
「去年はお花見できなかったね…」 隆起は自分がが呟いた言葉に胸が締め付けられ、涙が溢れてきた。雪哉が亡くなってから一度も泣いてなかったのに…。 「雪哉さん……」 最愛の人の名前を呼んだ途端、風が吹き桜の木が揺れた。桜の花弁が風に流され、いくつも舞い散った。
『隆起』
「……っ」 背後で聞こえた懐かしい声。振り向くとそこには、あの頃と変わらない雪哉が立っていた。 「ゆ…き、や…さん…?」 信じられない思いで名前を呼ぶと、隆起の大好きな笑顔を見せた。 「ゆ、雪哉さんっ!!」 その笑顔を見た途端、隆起は雪哉に駆け寄り抱きついた。隆起より十センチ高い雪哉は隆起を包み込むように抱きしめた。 「雪哉さん…雪哉さん……」 嬉しさのあまり、何度も何度も雪哉の名前を繰り返す。その間、雪哉は優しく隆起の髪を梳いていた。
隆起が落ち着いたところで、雪哉がもう一度隆起の名前を呼ぶ。 『隆起…』 あの頃より少し掠れた声。少し聞き取りづらかったが、ちゃんと聞こえた。 「雪哉さん…なんで?」 先ほどは雪哉が現れたため頭で考えるより先に身体が動いたが、落ち着くと当然のごとく疑問が浮かぶ。 死んだはずの雪哉がなぜここにいるのか? 『隆起に会いに着たんだ』 「どうやって?だって雪哉さんは……」 死んだはずなのに…、続く言葉は口に出せなかった。それでも雪哉は隆起が言いたいことがわかったらしく、哀しげに微笑んだ。 『僕もわからない。でもなぜかここにいたんだ』 「雪哉さんは幽霊なの?」 『そうかもしれない。隆起…怖い?』 確かに本物の幽霊なら怖い。しかし、雪哉が本当に幽霊だとしても恐怖は感じなかった。 「ううん。全然怖くないよ。たとえ幽霊でも雪哉さんに会えて嬉しい」 そう言うともっと強く雪哉にしがみついた。
「俺…あの日、雪哉さんが車に撥ねられたって病院から電話もらった時、頭が真っ白になった。急いで病院に駆けつけた時、雪哉さんの顔に白い布がかけられてるの見て泣き崩れて……それから数日の記憶が無いんだ。気が付いたら雪哉さんのお葬式の日で、そこでもずっと泣きっぱなしだった。そんな俺を励ましてくれたのが、幸人(ゆきと)だったんだ」 幸人とは雪哉の五つ下の弟で、雪哉と隆起の関係を知っている隆起の同級生だった。 『知ってるよ…』 「俺、あれから一度も泣いてないよ。俺が泣くと雪哉さんまで哀しそうな顔するから…」 『知ってる』 「俺、雪哉さんのこと今でも好きだよ。一日も忘れたこと無い」 『わかってるよ』 雪哉は隆起の言葉に頷きながら隆起の髪を優しく撫でる。
しばらく黙りこくっていた雪哉は、突然とんでもないことを言った。 『隆起……。僕のことは忘れてよ』 雪哉の一言に隆起は弾かれたように顔を上げる。 「なんでっ!何でそんなこと言うの……。嫌だよっ。雪哉さんを忘れるなんてできるはず無いじゃん!」 『でも、隆起には未来がある。隆起の傍にいてあげられない僕より、隆起の傍にずっといてくれる人がいるだろう』 「……」 『隆起だって気づいているはずだよ。本当は誰が好きなのか…。でも、僕のこと忘れられないから答えが出せないんでしょ?』 「……違う。そうじゃない。そんなんじゃなくて……、ただ…幸人と雪哉さんを重ねているんじゃないかと思うと、本当に幸人が好きなのかわからなくなって…。それに幸人に答えたら雪哉さんのこと裏切ることになるんじゃないかとも思っちゃって…」 隆起の言葉に雪哉は笑顔で言う。 『隆起が幸人と付き合って、幸せになれるなら僕を裏切ることにはならないよ。隆起が幸せなら僕も幸せだし、隆起が笑っていてくれるなら僕も嬉しいから…』 「雪哉さん…」 雪哉の変わらぬ優しさに涙が溢れてきた。
雪哉の肩に顔を埋め、声を殺して泣いていると、雪哉がそっと身体を離した。 「雪哉…さん?」 『ごめん、隆起…そろそろ時間だ』 「嫌だっ。雪哉さん。もっと傍にいてよ」 『隆起……。ごめんね』 哀しげに微笑む雪哉に縋りつく。 「じゃあ、最後にキス…して。お願い……」 『隆起…』 隆起は目を瞑り雪哉のキスを待つ。そんな隆起の頬を両手で挟むとそっと口付けた。そのキスは唇を合わせるだけの拙いキスだが、二人とも唇を離せなかった。 そんな二人を包み込むように、桜の花弁が舞い散る。 しかし名残惜しげに雪哉が身体を離したことで永遠とも思える時間は終わった
「雪哉さん…」 『隆起、僕はいつもでも隆起のこと愛しているから……。幸人と幸せになってね。……バイバイ』 最後に一言残すと、すっと暗闇に溶けるように雪哉は消えた。 「雪哉さん……」 涙とともに零れ落ちた言葉は、誰の耳にも届かなかった。
それからどれくらい経っただろう…。不意に遠くから声が聞こえた。 「隆起~…」 その声はいつも聞きなれた声。雪哉と少し似ているが全然違う幸人の声だ。振り向くと幸人がこちらに向かって走ってきた。 「隆起…。ここにいたのか。探したぞ」 「ごめんね。幸人」 「いや、いいけど…でも、まさかここにいるとは思わなかったな……。隆起ここには近づかないようにしてただろ」 幸人は桜の木を見上げながら言う。 「うん。でもね、さっきここに雪哉さんが来てくれたんだよ…」 「兄貴が!?……そっか…」 幸人は驚いたが、やがて納得したような声を出した。 「疑わないの?」 「いや、兄貴ならありえるかなと思って…。いつでも隆起のこと見てたからな」 そう言いながらまだ桜を見ている幸人の肩に頭を乗せる。隆起の甘えるような仕草に幸人は少したじろいだが、そのままにさせておいた。
「雪哉さんね…。俺が幸せなら自分も幸せだって言ってくれたんだ。幸人と付き合って俺が幸せになれるならそれでいいって…」 「………」 「だからね、俺自分の気持ちに正直になろうと思うんだ」 「隆起……」 隆起は幸人の肩から顔を上げると笑顔で言った。
「幸人のとこ好きだよ」 その言葉に幸人は隆起をそっと抱きしめる。
桜が揺れ花弁が舞い散る。隆起は雪哉とともに桜もこの恋を祝福してくれているように見えた。
<FIN>
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