カバンに筆記用具と、参考書やバインダーをしまい――さて、家に帰って明日の予習復習をしようか。と、藤岡正義は教室を出ようとした。しかし。 「藤岡」 担任の田中が、来いと手招きをしている。嫌々ながらも級長という立場に立つ藤岡は、それに従った。 「何でしょう」 「あのな……ちょっと、こっち」 まだ教室内には、おしゃべりが盛り上がっている生徒たちがちらほらと残っている。聞かれてはまずい話なのだろう。ベランダに出て人がいないことを確かめてから、田中は口を開いた。 「……頼みがあるんだが」 この言い出し方で、それが藤岡にとって嬉しくない相談だと分かる。だが、人がいい藤岡は笑顔で返事をした。 「はい」 「夏目、いるだろ? 夏目かずさ」 「ええ」 藤岡は、あまり親しくないクラスメイト、夏目の顔を思い出してみた。 女子に人気のある、ちょっと中性的な顔立ち。傍を通るといつもタバコのにおいがする。しかし――悪ぶっているが悪じゃない。柔和な感じの美少年だ。 「アイツが、あんまり授業に出てないの、知ってるだろ? このままじゃあ、3年に進級できるかどうかも怪しい。一応進路希望に進学とあるから、ヤル気がないわけでもないと思うんだ。 しかし、学校にも来ない。何度電話しても出ない。家にも行ってみたが、ご両親とも留守で、もちろん夏目自身にも会えなかった。 だが今、屋上にいると教えてもらったんだ」 じゃあ、おまえがさっさと行けばいいじゃないか。藤岡は心の中で毒づいた。 「そこでだ。藤岡、ちょっと行って、話してやってくれないか?」 「俺が、ですか?」 さすがの藤岡も笑顔が崩れそうになる。なぜに、自分で行こうとしないのだ、このバカ教師は。ふつふつと湧き上がる怒りを押さえ込みながら、藤岡は田中の次の言葉を待った。 田中はふうとため息をつき、 「……アイツ、俺のこと嫌ってるからなあ」 「そんなことないですよ」 藤岡も、田中を教師としては尊敬していない。たぶん、クラス中がこの情けない事なかれ主義の担任をそう思ってることだろう。だが、愛すべきバカの田中は楽天家で明るい。それなりにクラスをまとめることもできている。 だからこそ、自分で行けばいいのに――と藤岡は思うのだが。 「おまえのことは好きらしいから」 「は?」 「夏目は、おまえを気に入っているらしい。だから、藤岡。おまえが行って説得してやってくれ」 「無理です」 「大丈夫だ」 その自信はどこからくるのか。そして、夏目が藤岡を好き――という発想はどこから生まれたのか。 どちらの質問にも満足な回答が得られないまま、藤岡は田中に押され、ムリヤリに屋上へ向かわされた。
屋上は、臭うような暑さだ。一歩歩くごとに、汗が噴出す。 「夏目、いるのか?」 扉を開けてすぐにそう呼びかけた。が、返事はない。 藤岡は、太陽の照りつける屋上を歩く。「いるなら、出て来いよ」 「……んだよ」 屋上なのに、さらに上から声がした。 どこだ、ときょろきょろする藤岡の頭に何かが投げつけられる。 「いたっ」 「痛くねえだろ。それ」 落ちたものを見れば、ビニール袋に入ったジャムパンだった。確かに全然痛くない。 藤岡は後ろを振り向いた。 屋上に一箇所出っ張っている部分。扉を四角く囲うコンクリートの上に夏目は足をぶらぶらさせて座っていた。 「よっと」 と、藤岡と同じ高さに飛び降りる。「どーしたの、級長さん」 向かい合うと、ほぼ同じ背丈だと分かる。藤岡は夏目の顔をまじまじと見た。
女子たちが騒ぐのもうなずける。整った顔立ち。アンバランスに大きな瞳。アゴも同年代の女の子よりも細いのではないか。藤岡も自分の顔には多少自信があるが、“かわいらしさ”では夏目に完敗だ。 夏目は、藤岡の遠慮のない視線から逃れるためか、茶色に脱色した髪を億劫そうにかきあげて「……何の用?」 「おまえ、授業出てないだろ? 出ろよ」 「ん……かったるい」 「かったるいとかじゃなくて、出ておけばいいんだから。とりあえず。寝ててもいいし」 「級長さんが、そんなこと言ってもいいの?」 笑った。 にい……とあげられた口角がえくぼを作る。細くなり色っぽさが増した瞳に見とれながら、藤岡は説得を続ける。 「が、学校には来てるんだから、教室にも来いよ」 「うーん……あんまり、あのクラス好きじゃないんだ」 「誰かにいじめられたのか?」 藤岡は持っていたジャムパンを握りつぶした。 「あーあ……ジャムが飛び出ちゃってる」 「夏目! ちゃんと答えろ」 夏目の容貌に嫉妬心を抱く男は多いだろう。もしかしたら、級長である藤岡のあずかり知らぬところで、陰湿ないじめが行われているのかもしれない。背筋にいやなものが走った。 「級長ってやっぱり優しいな」 「やっぱりって?」 そういえば、田中が“夏目は藤岡を気に入っている”と言っていた。とくに夏目と関わりを持った覚えはないのだが、何か誤解があるのだろうか。 「なんでもねーよ」 夏目はそう言って、藤岡からジャムパンを取った。「見かけはこんなになっちゃったけど、味は変わらないよな。俺、これが今日初めての食事。腹減った」 ビニールを破って、中身を食べ始めた。 舌がぺろりと動いて、赤いイチゴジャムを舐め取る。 その舌の動きを、藤岡は追ってしまう。 「級長も食べる?」 「い……いや。いいよ」 夏目の顔が、いっそう艶かしいものに見える。暑さが、藤岡の脳をどうしかしてしまったのだろうか。 ――思考回路が危ない方を選びそうだ――
そうなる前にと、藤岡は話を進める。 「ま、こ、これで……俺の用事は済んだよ」 「え?」 「田中先生から頼まれてたんだ。おまえがあんまりにも来ないから、授業ぐらいでるように言えって……」
話しているうちに、夏目の顔が変わってきた。
あの可愛らしい優しい笑みは消え去って、残ったのはさすがに現役ヤンキーの鋭い眼光だ。 「……田中に頼まれたのかよ」 「え? ああ……」 「それで、来たのか。級長が自分で進んで来たわけじゃないんだな」 「うん」 「……ちっ」 舌打ちして、夏目は藤岡に食べかけのパンを投げつけた。 「夏目!」 「バイバイ」 夏目は手を振り、校舎内へと戻って行く。藤岡もパンを片手にあわてて追いかけた。 「待てよ」 「なんだよ。もーいいだろ。話は聞いてやったんだから」 「だめだ、おまえの返事を聞いてない」 カンカン、と激しい音をさせて、2人は競争しながら階段を下りる。 「おまえの仕事は、俺に“学校に来い”って田中の伝言を伝えるだけだったんだろ? じゃあ、いーじゃねえか。うるせえよ」 「夏目」 「しつこい!」 普段授業以外に運動をしない藤岡には、追いかけっこで勝算はない。 階段を下り、下駄箱に着く頃には、息をぜえぜえと切らしていた。 「ちょ……待って……」 藤岡は、タイムとジェスチャーした。 「俺……ほんとに、おまえに学校来て欲しいんだ」 「また、適当なこと言って。んなに、級長としての仕事をクソ真面目にこなさなくてもいいんだぜ? 別に俺、気にしないし」 と、夏目は笑い地面にスニーカーを落とす。 「違う。本当だって……おまえ、もっとクラスになじめるよ。うん……きっとみんなにも好かれる」 「……きゅーちょーさん、いい人だね」 「夏目」 ふざけた口調の夏目を、やっと息の整った藤岡は見上げる。 夏目は、さっきの“かわいらしい笑み”に戻っていた。 「じゃあさ、これから俺のすることを見ても……俺が普段何してるか知っても、そう言える?」 「……何?」 「それでも、級長が俺と話する気があるなら、聞いてやってもいいよ」 おまえのために言ってやってるのに、なんて傲慢な――と思いつつも、藤岡は夏目の笑顔に釣られてうなずいていた。
夏目に連れてこられたのは、公園だ。 夕方のこの時間、子供たちに混じって迎えに来た親同士もおしゃべりを楽しんでいる。制服姿の藤岡と夏目は浮いた存在だ。 「ここで、何するんだ?」 夏目はニヤニヤするだけで、答えない。 藤岡は、しかたなしに木製のベンチに座る。隣に夏目も腰を下ろした。 「級長ってさ――生まれながらの級長だな」 「なんだそりゃあ」 褒められたのか貶されたのか微妙なラインの台詞に、藤岡は笑った。しかし、横を向いて見た夏目の顔は、不真面目さの欠片もない真摯な瞳で藤岡を捉えていた。 「夏目……?」 「俺さ、こんなヤツじゃん? はっきりいって、人とかかわるの苦手だし。1人でいると悪い奴らしか寄ってこなくて――それを振り払う勇気もないし。でも、級長って、誰とでも仲良く話しできるし、明るいし……。俺とは大違い……」 ここにきて初めて、藤岡は夏目が決して自ら望んで孤立してるわけではないと知った。無表情の冷たい王子様だと、外見から来るイメージでそう決め付けていたのだが、それは傷つきやすい心を隠す仮面だったというわけか。 「夏目。少しでもうちとけたなら、クラスのみんなはおまえを好きになると思うよ」 「そうかな……」 と、地面に伸びた影を見つめる。 寂しそうに笑う唇。つらそうに寄せられた眉。夏目は傷ついている。自分の感情をうまく表せないことに……。 藤岡の胸は、鷲づかみされたように苦しくなった。 「明日の朝、お前の家に迎えに行くよ」 「え?」 「一緒に教室に入れば、自然に挨拶もできるし。な? そろそろ夏休みだろ? その前に友達作って、休みはみんなで遊ぼうぜ」 「級長……」 夏目の瞳が、潤んだ。それは夕日に照らされて、宝石のようにきらきらと輝く。
――美しい――
藤岡の胸がまたドクッと鳴った。 危ない、危ないぞ――頭の中の危険信号が点滅する。
「級長、やっぱり優しいんだな」 「そんな……俺は、ただ」 当たり前のことを……と続けようとしたが、伏せられた夏目の瞳を追って、藤岡の口はだらしなく開いたままになる。
キスしたい。
はっと頭に浮かんだ言葉を、藤岡は必死で訂正する。 いくら可愛くても、綺麗でも、夏目は男だ。自分も男で、お互いにアレが付いてるんだぞ! 自分を落ち着かせるために夏目の全裸を想像したのだが、なぜか逆に興奮が増してしまう。 しかし、そんな藤岡をよそに、夏目は俯いてつぶやいた。 「……でも、これからのこと見たら、そんな気なくすと思うよ」
気が付くと、あたりは真っ暗だ。 はしゃいでいた子供たちも、その親もいない。広い公園のベンチに藤岡と夏目だけ。 「これから、住人が入れ替わるんだよ」 「住人? 入れ替わる?」 「明るいうちは、子供たちのための公園だけど――夜になるとね、ある種の性癖を持ったやつらの社交場になるのさ」 意味が分からず、藤岡は繰り返し夏目の台詞に出てきた未知の単語を考えてみる。 公園の住人。性癖。社交場。 一体なんだ?
「あ……来た」 夏目に腕を取られ、ベンチの後ろの草むらに引きずり込まれる。 「夏……」 「しっ!」
しばらくじっとしていると、ベンチに誰かが腰掛けた。2人のようだ。 「……いい?」 と、男の声。 「うん」 もう1人も男だ。
2人は無言でごそごそと何やら始めた。 藤岡は夏目を見てみるが、彼はベンチを燃えるような瞳で見つめていて、藤岡をかまってはくれない。 藤岡も、ベンチに視線を戻した。
ベンチの背に、服がかけられた。
脱いでる……? 藤岡は目を凝らしてベンチの上を観察する。 公園内の明かりで映し出された2人のシルエット。藤岡たちの位置からは、胸から上が見えるだけだが――2人が抱き合ったのは分かった。 「げっ!」 「静かに!」 夏目に頭を押さえ込まれる。
ベンチの上の2人は、抱き合い、キスをし――また身体を離す。 1人が立ち上がり、もう1人の上に向かい合わせで座った。 さすがにここまで見せられれば、藤岡も何が起こっているのかわかる。
公園の夜の住人は、同性愛の相手を探しに来ているのだ。そして、見つけた相手と真っ暗な中で関係を持つ。 ある種の性癖をもつ人たちの社交場――とは、こういうことだったのだ。
ということは。 藤岡はたどり着いた結論を確かめるために、夏目を見た。 「……わかった?」 夏目の顔が、逆光でよく見えない。 「ああ……」 「気分悪くなったら、帰っていいよ」 「夏目……その、おまえも、こんなことを?」
影が小さくうなずいた。
「……知らない誰かと、こうやって……その……」 「ああ、エッチするよ。だって、なかなか見つけられないから。そういう相手って」 夏目は再びベンチの方を向いた。「クラスにいると思う? 俺以外に、男とこうしたいって思ってる男が、さ。いないだろ? だから、こういうところに来て、せめて身体だけは満足させたいんだ」 暗いけれど、どんな顔をして話しているか分かる。さっき見せたつらそうな悲しそうな笑い顔だ。 「夏目」 「級長さんは帰りな。俺は……用事があるから」 「用事って、あのベンチのやつらがしてるようなことか?」 「そうだよ……何? そこまで級長さん、口出しする気?」 「やめとけよ」 「うるさいなあ。俺の勝手だろ」 「よくない。こんな……不特定多数との関係なんて」 ふん、とバカにした笑いが聞こえた。 「そういうけどね、級長さん。あんただってオトコノコならわかるだろ? 我慢できねえんだよ。エッチしたいの。相手は女じゃだめなんだ。あんたが、女じゃなけりゃだめなようにね」 そう言って夏目は立ち上がった。 「待てよ」 制止を聞かずに夏目は暗がりから出る。街灯に照らされたその腕を藤岡は掴んだ。 「何?」 振り返った夏目の顔……きらきら光る瞳は、涙で濡れていた。はっと目を伏せた夏目の頬に一筋流れる。 「夏目……」 「は、放してくれよ。頼むから」 「放したら、誰かを探してする気だろ」 「ああ、そうだよ! だからなんだよ!」 語気は荒いが、夏目の顔は自分に助けを求めているように見える。藤岡はいっそう強く腕を握った。 「痛っ」 夏目が身をよじる。が、藤岡の方が目方が多い。両腕を捕らえれば、夏目を縛り付けることが出来た。 「夏目」 「え……」 藤岡は薄く開いている夏目の唇にそっと唇で触れてみた。そこは思っていた以上に柔らかい。一度離れ、驚きで見開かれた夏目の瞳を見つめながら再び口付けた。 「んっ」 女の子にするようにしても良いものだろうか。多少の戸惑いを感じつつ、藤岡はぎこちないキスを続ける。
ほ……と息をつき、2人の唇は離れた。 「知らない男にこういうことさせるの止めて……」
――俺にしておけよ――
そんな無責任な台詞は言えない。 だが――先ほどのキスで夏目には伝わってしまったようだ。 「俺にこんなこと言える権利は無いかもしれないけど……」 「……同情でこういう事されても……」 「そうじゃない。俺は、その」 夏目に惹かれている。自分でもこの気持ちをもてあましているのに、夏目に巧く説明できるだろうか。 黙ってしまった藤岡を、夏目は笑って見つめ、 「無理しなくていいんだぜ」 「無理なんかじゃないよ」 「……級長さん。優しすぎるのは逆に意地悪だ。ほんと、そういうこと言われると……自分が情けなくなるからさ」 自分の性癖を恥じているのだろうか。夏目は藤岡から視線をそらし、うつむく。 もしかして、その所為でクラスに溶け込むことを遠慮してるのでは。 「夏目」 「だから、やめろって。……期待させるなよっ」 うつむいている夏目の頬が、赤い。それは、街灯の所為だけではない。 「期待って?」 「いいから、放せよ」 しかし抵抗は弱い。本気で逃げようとしているわけではなさそうだ。 囚われた子羊のようなか弱さ。藤岡の体温が上がった。 「夏目……」 もう1度キスを迫る。顔をそらせる夏目の口を追って、捕まえた。藤岡は夏目の身体を両腕で強く拘束し、口を深く犯す。女の恋人としているときよりもずっと情熱的に求めた。夏目もそれに応える。 2人は長くそうしてキスをしていた。
あいたベンチに再び座り、藤岡と夏目は気まずく黙っている。 キスのあと、それ以上先に進むことも抵抗があったし、だからといってそのまま帰るのも名残惜しく、互いに何も言えないままこうしていた。 沈黙に耐え切れなくなったのか、夏目が口を開いた。
「前にさ……授業が終った後に教室に忘れ物取りに行ったんだ。そしたら、まだ数人残って話してた――」
夏目が教室の扉に手をかけると、中から笑い声がした。夏目は表情を曇らせ手を引っ込める。 クラスになじんでいない夏目は、なるべく級友と顔をあわせたくない。だから、わざわざこの時間を選んで来たというのに――まだまだ中の会合は続きそうな気配だ。夏目は廊下にしゃがんで彼らが出てくるのを待った。
中にいるのは、どうやら男が3人と女が2人のようだ。女の子たちのはしゃいだ笑い声が無人の廊下に響く。 「……ね、いいよね」 1人がそう言って、もう1人の女の子も相槌を打ったようだ。 しかし、男子生徒からはブーイングが起こる。 「どこが? ただ暗いだけじゃん」 「暗いんじゃない。ああいうのは、寡黙って言うの。寡黙よ、寡黙。わかる? 意味」 バカにされた男子生徒の1人が息荒く反論する。 「わかるよ、そんぐらい。ていうかさ、結局顔なわけ? 基準は」 「そーだよ。顔がよければ、他も良く見える」 そう言って女の子たちは再び笑った。 「でもさあ……夏目って男には全然好かれてないぜ」 いきなり出た自分の名前に、夏目は制服のズボンをぎゅっと握り締める。 「だから?」 「同性の友達がいないヤツなんて、性格に問題ありなんだってば。な? 級長?」
夏目は級長と呼ばれた男の顔を思い出す。 いつも人に囲まれて笑っている藤岡。自分とは正反対の性格。明るい声に表情。その明るさにつられてクラスメイトたちは街灯に群れる蛾のように寄って行く。 嫌いじゃない。けれど、向こうは自分のことなど眼中にないだろう。と、夏目は思った。
だが、次に藤岡が発した台詞はその予想を裏切ってくれた。
「そうでもないと思うよ。夏目は――たぶん、きっかけがないだけのことだと思う」 どくん、と血が流れる。夏目は思わず教室を振り返った。 「夏目って、言うほど冷たい感じはしないな。じっくり話してみたわけじゃないけど、ちょっとしゃべった感じではどっちかっていうと優しいっぽいけど」 「あーれー。級長も女子と一緒で外見につられてんじゃねえの?」 からかうような調子の男子生徒の台詞に、藤岡は真面目に答えた。 「だから、外見で判断してるのはおまえたちのほうだろ? 夏目が冷たいとかクラスの男をバカにしてるとかそういうのって」 みんな黙ってしまった。 しばらくの沈黙の後、気まずそうな声で男子生徒が言った。「じゃ、帰るわ」 「私も」 私も、俺も――と、口々にそう言い歩いてくる音がしたから、夏目は隣の教室に逃げ込んだ。 「ん、じゃーな」 今のしらけた空気を吹き飛ばすような明るい調子で藤岡が声を上げた。本人は、自分の台詞でみんなが帰ると言い出したことに気づいてないらしい。 藤岡って、天然なのかもな――呆れている夏目の横を通り過ぎる彼らは、その声に毒気を抜かれたようで、 「うん。明日ねー」と、また元気になってそう言った。
公園を出て、藤岡は前を進む夏目の背中を見ながら歩いている。 「夏目……明日は学校来るよな」 「行くことは行く」 「教室にも顔出せよ」 夏目が振り返った。 街路灯の下で、夏目の白い肌がぼんやりと浮かんで見えた。 目の前の夏目は、固い殻を破ったような。2人の間に1枚あった薄皮がはがれたような、そんな心地よい空気を感じさせている。藤岡は嬉しくなって、頬を緩ませた。 「なんだよ」 夏目はまだ持っていた食べかけのジャムパンを藤岡に投げた。 今度は巧くキャッチする。 藤岡はそれを食べながら、 「……家こっちか?」 「うん」 「じゃあ、帰りも一緒に帰れるな」 藤岡はにっこりと夏目に笑いかける。 「小学生じゃあるまいし」 と、夏目は1人で先に歩いていってしまう。 「待てよ」 早足の夏目を追いかける藤岡。
その足音を聞きながら、夏目も頬が緩むのを隠せなかった。
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