桜の名所として知られる井の頭公園は、平日だというのに花見の人で賑わっていた。 3月に入ってからも雪が何度か降ったせいか、桜の花はまだ五分咲きで、蕾も目に付く。 ボート乗り場を通り過ぎて、狛江橋を渡り左に曲がる。 池を囲む柵の外に、一本だけ植えられたあの桜の木が目印だった。 桜の木のすぐ近くまで行きたいが、既に手前にシートが広げられて花見の宴の最中だ。 仕方なく道の向こうにあるベンチに腰を掛けそっと手を合わす。 永いこと待たせてごめんねと・・・・
「あの桜の木の下には亀の死体が埋まっている」 僕はその言葉に驚いて、弾かれる様に立ち上がると、目の前に見知らぬ男が立っていた。 そうあの桜の木の下には、僕が飼っていたシロクチドロガメが埋まっている。 随分と背の高いその男は、なぜその事を知っているのだろう。 僕しか知らないはずなのに、懐かしそうに僕を見詰める顔を眺めて、記憶を懸命に手繰り寄せるが、なぜか靄が懸かって想い出せそうにもなかった。
「君はだれ?」 ひなた 「俺はカメ吉だよ、会いたかった笹野日向君」
そう言って少し意地悪そうに微笑んでから、いきなり抱きついてきた。 長く力強い腕を背中にしっかりと廻され、きつく抱き締められてしまった。 僕は戸惑い、男の腕を振り解くことも忘れて、暫くその胸のなかで呆然と立ちすくんだ。
カメ吉は僕が物心付く前から家で飼われていて、小学校に上がってからはカメ吉の 世話は僕の役目だった。 当時、両親の離婚と親権争いとで、2人の間を行ったり来たりさせられていた僕のたった一つの心の拠り所だった。悲しくて悔しい時、いつも側にカメ吉がいてくれた。 そんなカメ吉が、北海道に在る母の実家に引っ越すという前の晩に突然死んでしまったのだ。
家から少し離れた場所にあった、この井の頭公園は、当時の僕のお気に入りで、よく友達と自転車に乗って遊びに来ていた。 水生物館があり、弁天池には沢山のクサガメが住み、よく甲羅干しをしている。 僕がたとえ来ることが出来なくても、仲間がいるから、きっと土の中のカメ吉は寂しく無いだろうと子供心に考えた。それに桜が毎年綺麗に咲いてくれる。
8年前の今日4月1日の早朝、引越しのトラックが着く前に、そっと一人で家を抜け出して、もう完全に動くことの無いカメ吉を埋めた。
カメ吉の名を語る男と僕は、何故か並んでベンチに腰を掛け、ピンクの雲が降りてきた様な桜を眺めている。
「日向君のコトなら、何でも知ってるよ。おへその横に黒子があることも、好きなものから一番に食べるとか、牛乳が苦手でしょ。それから俺の絵を描いてコンクールに入賞したコトもあったよね。画用紙いっぱいに大きく甲羅を描いてくれたよね」 確かにこの男の言うコトは当たっている。でも、だからってカメ吉の筈は無い。 ニコニコしながら嬉しそうに話しかけてくる。
「嬉しそうだね」 僕が無愛想につぶやくと 「とっても嬉しいよ。またご主人様と再会できて」 ご主人様と言われて・・・僕は呆れてしまった。
「僕のカメ吉は8cmでそんなでかく無いし、もうお爺さんだったよ」 それに、そんなにカッコよく無かったと、心の中で付け足す。 横に座るカメ吉くんは短髪で、涼しげな切れ長の眼をしていて、なんてコトない 長袖Tシャツにジーンズをおしゃれに着こなし、女の子にもてそうだった。
「じぁ、カメ吉でなければ、俺の名前は憶えている?」 「ごめんね、忘れてしまっていて・・・僕らは仲良しだったよね?」 カメ吉くんとは、確かに初めて会った気はしない。罪悪感が重く圧し掛かる。 あの頃は情緒不安定で、嫌なコトが多すぎたから、僕の記憶は少し曖昧だった。
「ねぇ 俺の知らない日向君の話してよ。付き合っているヒトはいるの?」 「今は、いないよ」
「絵は描いている?」 「うん、今年M美大に入学するんだ」
「カメ吉くんは油絵描いているでしょ?」 さっき抱き締められた時、テレピン油の匂いがした。 カメ吉くんはフフッと笑っただけだった。
「日向君、今、幸せかい?」 「あの頃より、ずっと幸せだよ」
本当に桜が綺麗だ。 桜は見るヒトの心を、もっとも投影する花だと僕は思う。 嬉しい時に眺めると美しい花だと思う。 寂しい時に眺めるとうら悲しく感じてしまう。 ヒトの心に沿う花だ。
不意に涙が頬を伝わって落ちた。 カメ吉くんが僕の着ているブルーのパーカーのフードを被せてくれる。 「日向君、泣けるようになったんだね。よかった」 大きな手でポンポンと頭を叩いてくれた。 その手の優しさに涙が止まらなくなり、泣き続けた。 あの頃の僕のために、可哀想だった僕のために。
僕とカメ吉くんは井の頭池に架かる七井橋の上から、お麩を池に投げ込んでいた。 鯉と鴨が懸命にお麩を追いかける、鯉がごぼっと音を立て、水と共にお麩を 飲み込んで水底に姿を消すと、池の上まで枝を広げた桜が水面で揺れる。
「実は僕、子供の頃いせやの焼き鶏に憧れていたんだ。吉祥寺駅の側は、すっかり変わっていたけど、いせやの美味しそうな匂いは当時のままだね」 僕は鯉の旺盛な食欲に釣られ、どうしても焼き鶏が食べたくなった。 「俺はビール飲みたいかな」 花より団子、どうやら同じコトを考えていたようだ。顔を見合わせ微笑んだ。
「僕、焼き鶏買ってくるね」 「俺はビール買ってくる。ここに集合な」 互いに背を向けて、橋を反対に渡る。 振り返るとカメ吉くんの背中がゆっくりと遠ざかる、桜が風に揺れる。 この一瞬を、あの背中を、僕は確かに覚えている。 カメ吉くんとあの朝、ここでさよならをしたんだ。
さと兄・・・カメ吉くんの本当の名前は竹宮 智だ。 やっと想い出せた。どうして忘れることが出来たんだろう。 僕はさと兄と呼びながら急いで、後を追いかけた。
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約束のおかげで俺は、毎年満開の桜を見ることができる。 今年は少しばかり淡い期待をしていた、再会できることを。 日向君は18歳になった。 東京の大学を選んでいたとしたら、きっと今日ここにカメ吉に会いに来るはずだ。
俺の想い人は桜並木で百面相をしていた。 お目当ての桜の木の下には先客がいるらしい、諦めてベンチに腰を下ろした。 幼い頃の面影を残した横顔を眺めると、時間が戻って来た気がする。 18に成ったのに日向君は子供みたいに無防備だった。素直そうな黒い髪に、大きな黒目がちの眼、色白だからか、ぷくっとした唇の赤がやけに目立つ。 かばんを肩から下ろし、ベンチの上に乗せる。手を合わせてから眼を伏せる。 性格もあまり変わってないようだ。かばんを置きっぱなしにして、本当に危なっかしい。
あの朝、俺は姉貴と犬の散歩に来て、桜の木の下にしゃがみ込み、根元に枝で穴を掘る日向君を見つけた。 日向君の手は汚れ、爪の中まで土が詰まっていたけれど、穴はまだまだ浅かった。 お菓子の空箱の中には、ティシュに包まれたカメがいた。 俺は姉貴を先に帰してから、ゴミ箱の上に乗せてあった空き缶と、プラスチックのアイスのカップを拾って、日向君の横にしゃがみ込み穴掘りを手伝った。
「さと兄・・・・カメ吉が死んじゃった」 心細そうに俺に言った。 「早く埋めてあげよう」 土は固く、思うように進まなかった。掘り進むとパシッと音を立てプラスチックが割れる、それでもやっとカメ吉が入る位の穴が出来た。 カメ吉に土を掛け、埋めたことが判らないよう上から落ち葉を乗せた。
日向君と俺は学校の登校班が同じだった。 2学年違っていたので遊ぶことは少なかったが、それでも共に学校の絵のコンクールに入賞して、表彰式に出席したのを境に一緒に過ごすことが多くなった。
よくスケッチに出かけた。俺は日向君の絵が好きだった。 どの絵も一番印象に残ったものが、より大きく、しっかりと描かれている。 あひるは黄色の口ばしが鮮やかで、鳴き声が今にも聞こえてきそうだ。 ウサギの眼はまん丸で、黄色みがかった赤が血の色みたいだった。
一人っ子の日向君はさと兄と呼んで甘えてくる。 末っ子の俺は弟が出来たみたいで嬉しかった。
「日向君のカメ吉の絵、大きな甲羅が迫力あってカッコよかったよ」 「カメ吉は離婚したお父さんから貰ったんだ。普段はのろいくせに、脱走する時は すばしっこくて、なかなか捕まらないんだコイツ」
笑顔でカメ吉の話をしてくれる。 でも俺には日向君が笑っているのに、泣いていることが判った。 カメ吉は日向君の心の支えだった。あまりにも辛すぎて泣けずにいる。 日向君の心が痛くて、俺が変わりに泣いていた。 顔を覗き込むように大きな瞳が近づいてきて、心配そうに見ている。
「さと兄はやさしいね」 「だれにでもやさしわけじゃないよ・・・毎年、一緒にお墓参りをしよう・・・・」 涙で声が詰まる。 日向君はその言葉に何度も何度も頷いた。 俺は初めて人をキレイだと思った。 桜を美しい花だと思った。
新学期が始まり日向君が引っ越していったことを知った。 それから毎年、俺は一人でカメ吉に会いに来ている。
日向君は俺のことをすっかり忘れてしまっていた。 かなり落ち込むけれど、あの頃の日向君のことを考えると無理もないことかもしれない。 それでも今、ベンチに並んで二人同じ桜を眺めている。 頭上の桜を見上げれば、ピンクの間にブルーの空が抜けるよう。 こうして、また再会できた偶然を神様に感謝せずにはいられない。
「カメ吉くんこそ、彼女いるでしょ。もてそうだね」 「そんなことないよ。日向君なってくれる?」
「僕でいいのなら」 日向君はおどけて答えて、ククッと微笑み返す。 俺の邪な言葉を、ジョーダンだと信じて疑ってさえいない。
この8年、いろいろなコトがあった。恋もしたし、彼女もいた。 だからこそ、俺はあの朝に初めて芽生えた、雨あがりの澄んだ空気のみたいな 気持ちが、恋だとわかった。 小さな心にある冷たい痛みの欠片を、溶かしてあげたかった。 楽しいコトもいっぱいあるコトを、日向君に教えてあげたかった。
日向君の記憶をとり戻そうとして、公園の中をあの朝の道のりでゆっくりと歩いた。 七井橋までたどり着く、ここでおしまい。 また直ぐに会えると思っていたから、またねと笑って手を振ってお別れをしたんだ。
水面の桜は、池を淵からピンク色に染め上げる。 日向君は池の鯉にお麩を投げる手を止めて、嬉しそうに俺を見て言った。
「カメ吉くん、桜が満開になったらスケッチにこよう。僕は空と桜のコントラストを 描きたいな」 日向君らしい。きっとはっきりとしたキレイな色合いになるだろう。 なにがあっても混じらない、日向君の心の強さのような絵に。
「俺は、淡い桜色が出せるよう頑張るかな」 桜色は元来、ソメイヨシノの色を指す。ほんのりと淡いピンク色を創ろう。
すぐ側に日向君がいる嬉しさに、こんなにも胸が弾む。 ひとつも憶えていなくても、何も変わらない気がした。 俺が憶えているから、永遠に忘れたままでもいい。やっとそう思えた。 そして随分と長く、間の空いた初恋の続きを、また一から始めることにした。
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