命令して。 司、オレに命令してよ。
人の未来を映し出す水晶玉みたいな透明な瞳にオレだけを映して聖が言う。 だけどその瞳は現実を映してはいない。
早く。 司が命令してくれないと、どうにかなっちゃう。
その表情のどんなところにも情欲を感じさせないくせに、誘いをかけるのをやめない。
「じゃあ、下だけ脱いで」 少しも躊躇いを見せずに自分のズボンに手をかける。 細い足が露になって、Tシャツの裾のあたりに薄い茂みと肉棒が見え隠れしている。 そんな姿は扇情的というよりも、ただ痛々しい。
「床に座って、自分でして見せて」 言われたまま、そこが冷たいリノリウムの床だということなんか気にならないというように、尻をついて膝を開き自分の股間のものに手を触れる。 「気持ち、いい?」 聞いてやると、聖は目を潤ませてうんうんと頷いた。 けれど聖のそれはなんの兆しも見せていない。
「こっちに、来て」 手を差し延べるように、聖を呼んで、オレも聖と同じように座った。 聖は手を床につけて、犬のように這ってオレの側に来る。 「いい子だ」 小さな顔を両手で包んでやると、手のひらに頬をすりつけてきた。 本当に、聖が犬だったら良かったのに。 悲しみなんて感じない、ただ本能で生きようとする動物だったら。 背中に腕を回して聖を抱きしめる。 涙が込み上げてくる。 泣いてもなんの解決にもならないということはもう何百回も痛感した。
聖は、抱擁の意味なんか理解しない。 オレの腕の中で、自分の萎えたペニスを握って、早く快楽という感情を麻痺させる薬をくれとねだっている。
「司。命令して」 「オレの足の間に座って」 聖の背中を自分の胸にもたれさせて、後ろから回した両手で、聖の芯を扱いてやる。 両脚をオレの脚にかけて大きく広げさせる。 少しづつ息づいて、それは段々堅くなった。
「あん…は、ぁ…はぁ…はっ」 短い喘ぎ声をあげながら、オレの肩に頭を預けるように顔が上向きになる。 形の良い唇からこぼれる吐息を、オレは見つめた。 「聖。気持ち、いい?」 「はっ…いいっ、…気持ち、いいっ」 目尻に涙が浮ぶ。 快楽に溺れる表情は、辛くて泣いたあの日と同じに見える。
本当におまえは今解放されているのか。 苦しみから、逃げることに成功してるのか。 どうして聖はあんなふうに、失わなければならなかったのだろう。
北の街の寒い駅前で歌って1年。 ライブハウスを満員にするのにまた1年。 上京しメジャーデビューして3曲目のシングルがヒットしたのは、バンドを結成してから5年目だった。 はじめての全国ツアーは上々の出来でゴール間近だった。
どうして聖はあんなふうに、失わなければならなかったのだろう。 祥也を、海斗を、そして達也を。 事故と、不幸な事故だったと一言で片付けてしまうには、聖には亡くしたものが大き過ぎた。
『明日はオレたちだけ、一足先の便になるらしいよ』 『なんで』 『知らない。座席が確保できなかったんじゃないの』 『ウソだよ。スケジュールの都合だって言ってたじゃん』 『知ってるよ、そんなこと!』 海斗の真面目な口調、達也のおどけた声、そんなやりとりを見つめている祥也の静かな眼差し。 『あの街で演奏するの、久しぶりだから楽しみだな』 そう言った聖の笑顔。 『あそこは、オレたちの出発点だもんな。ライブ、絶対成功させような』
成功させような。 最後に交わした会話と、場面が、頭から離れずに何度も何度も頭の中で再現される。 傷がついて同じところを永遠にリピートするレコードみたいに。 なんでそんなつまらないことしか思い出せないんだろう。 もっといくらでも印象的な出来事はあったはずなのに。 オレたちが積み重ねた時間は計り知れないほどあった。 けれど終ってしまえばそれは色褪せるしかない。 人の記憶の中で、心の中で。 オレたちの心の中で。
なあ、聖。 オレたちはどんな風に終るのが正しかったんだろうな。 おまえは終りなんて考えてもいなかったかもしれない。 でも、いつか、それはあったんだとオレは思っていたよ。 それでも、喩え、オレたちを表現する言葉がなくなっても、オレたちはずっと続くんだと思っていた。 おまえはそうは思えなかったから、形に拘ったんだ。 だけど、オレたちがこんなふうに終るなんて世界の誰も思ってなかったんだろうな。
あれ以来、聖は少しづつ、精神を病んでいった。 オレの焦燥なんて少しも理解しようとはせずに、おまえは勝手に一人で暗い道を行く。 まるで狂うのが当然のような顔をして。 狂えないオレの方が間違っているのか? あんなに大切なものを失って、それでも正常でいられるオレがおかしいのか。 だけど聖。おまえがいるから。 オレにはおまえがいるから、それがすべてだから。
「司…司…」 オレたちがまだなにも失っていなかった頃、おまえはオレのものになろうとはしなかった。 どんなに真剣に気持ちを打ち明けても、本気にさえしなかった。 でもオレはおまえの気持ちなんか誰よりもわかっていた。 ただおまえは、オレたちの間に変化があるのを恐れたんだ。 なにも得ず、なにも失わず、現状維持だけが聖の望みだった。
司、命令して。 司の好きにして。 オレは司の好きなように、どんなふうにも変わるから。 だから側にいて。ここにいて。
そんな悲しいことは言うな。 オレはそのままのおまえで充分だったのに。
なにが欲しいの。 キスが欲しいの。 あなたのキスが。 ただでちょうだい。 見返りなんか望まないで。 あげられるものなんてもう心しかない。 傷ついて痛みきった、悲しい心しか。
床も壁も真っ白な音のない部屋で、聖を抱く。 この部屋には時間さえないような気がする。 分刻みで動いてたオレたちの、ここが辿り着いた部屋。 熱にうなされたように、聖はオレに抱かれながらブツブツと意味のない言葉を紡ぐ。
返してください。返してください。 繰り返し、そんなことを言ってる。 どんなことでもします。 だから、達也を 。祥也を。海斗を。司を、オレに返してください。 司をオレに返してください。
聖にはもう、オレがわからない。 おまえの側にいるのに。 こんなに側にいるのに。
見回りの看護婦が1時間置きに部屋を覗いて行き、医者は日に3回、様子を見にくる。 「…先生。今、ここに司がいたような気がします」 医者は気の毒そうな顔を見せる。 「美神さん。もう自分を責めるのはやめなさい。あなただけが事故機に乗ってなかったことは、あなたのせいじゃないんですよ」 聖は首を振って、自分の唇に触れた。
「司がいた。オレに、オレの唇に、触れていったんです」 本当です。 他の誰の気配もわからなくても、司ならわかるんです。 交わしたことはなかったけれど、司のキスだけはオレにはわかるんです。
交わしたことは、なかったけれど。
|