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 (大学生×美大生/--)
スケッチブック


正巳はいつもスケッチブックを開いている。
なんのことはない、真っ白なただのスケッチブック。
彼の目にはどこかの壮大な美しい海でも浮かんでいるのだろうか。
オレはたまにそんな正巳を直視できなくなるのだ。

オレと正巳は恋人同士だ。もちろん男同士だが、それでもオレは正巳を愛してしまった。そして正巳もオレのことを一目惚れだったといい、応えてくれた。
彼は美大生だ。オレはただのしがない大学生。何も目的がなく、ただ何となく大学に行って適当に遊んで適当に勉強して、その日その日を怠惰に過ごしていた。このまま普通の企業に就職して、生涯生活できるくらいの金さえあればいいか、などと安易な考えを持っていたりもした。
ある日、友達に誘われて、日雇いの美術館の清掃アルバイトをした。そのバイトもただ何となくやってみただけだ。たいして面白くもない、過去の偉人と言われる人たちが描いた絵画。多くは作者が死んでから名を馳せた名作ばかり。
くだらない。死んでからの名声なんて欲しいものか。生きている今だからこそ、名誉が欲しい。金が欲しい。…光が欲しい。
掃除も馬鹿らしくなって、まだ客が入っていないはずの大ホールへサボりに向かう。
でもそこでオレは光を見た。
そこには大きなキャンパスに、ただただ真っ青な海。ところどころにきらめく太陽の粒子。何とも拙い素人丸出しの絵なのだが、ものすごく惹かれた。大ホールの入口には、『高村美大絵画展』と貼ってあった。
「きみ、この絵気に入ってくれたの?」
いきなりの声に体がビクつくほど驚き、その声のほうに振り返る。
「この絵、僕が書いたんだ。コンクールで金賞を取ったんだよ」
そしてこの絵の主にもまた目を奪われた。まるで、この絵から飛び出してきたような、太陽の粒子を体いっぱいに纏った姿に、眩しくて目を合わせられない。
「きみ、ここの人?」
彼はそういって床を指差す。
「…あ、ううん、今日一日だけのバイト」
どうしてだろう、うまく声が出なかった。
「そっかぁ、バイトね」
そういって彼はオレがサボっているのに気づいたのだろう、目だけで笑う。
「この絵、本当にお前が書いたのか?」
「うん、そうだけど…」
「すごいな、オレ、絵を見てこんなに感動したのは初めてだ」
思わず、本心が口から出てしまった。ハッとして絵の主を伺うと、顔を真っ赤にしてうつむいていた。そして、オレの視線に気づいたのか、勢いよく顔を上げ、
「ありがとう!僕もこの絵気に入ってるんだ」
本当に嬉しそうにはにかみながら笑った。
「僕は広川正巳。きみは?」
「オレ、大下海。この絵と同じ、海、だ」
「海…。また会えるかな」
「あぁ、きっとまた会えるよ」

それからオレたちの距離が縮むのはあっという間だった。お互い、同性を愛するのは初めてじゃなかったが、オレは正巳の行動、言動のいちいちに戸惑った。
彼は本当にオレを愛してくれてるみたいだった。体全部でそれをぶつけてきた。もちろんオレも正巳を愛していたけど、正巳ほど情熱的に愛せているか自信がなかった。
だからだろう、たまに正巳はオレに不安を投げかけた。
「海、僕のこと好き?」
「海、僕のこと離さないで?」
「海、もっと激しく抱いて」
そのうちオレたちは同棲するようになった。愛し合っているもの同士、当たり前のことだ。正巳は父親から譲り受けたという、アトリエつきの一軒家に一人で住んでいた。オレはそこに転がり込んだのだ。
最初は嬉しかった。絵を描いている正巳を見るのは、まるで初めて恋をした少女のようにドキドキしたし、たまにオレをモデルにするときには、正巳に視姦されているように感じてそのままベッドにもぐりこんでしまうほどだった。
オレは正巳の描く絵が大好きだった。全ての絵には海が描かれ、何となく正巳に自分の姿を写し取られているような気持ちになる。そんなやわらかな時間。オレは幸せだった。
でもそんな幸せも長く続かなかった。正巳の独占欲と嫉妬深さに気づかされたのだ。

「今日はどこに行ってたの?」
「…サークルの友達と飲み会だって言ってたじゃん」
「何か、男の臭いがする」
これじゃ、まるでオレが浮気しているみたいじゃないか。
またある日は、
「これ、行くの?」
そう言って突きつけられた浅黄色の封筒。
「ん?」
「同窓会だって。海が来るの楽しみにしてるってよ。早川真美、だって」
「お前、勝手に開けたのか?!」
いくら同棲してるとは言え、オレへの郵便物を勝手に開けるなんて。
「海って、男も女もイケるんだよねぇ?この真美って子、海狙い?」
「お前、いい加減にしろよ!!」
こんなことが多々続いた。オレは何も疑わしいことはしていない。断じて正巳を裏切ったりしていない。でも、正巳はオレを信じてくれなかった。
「海は、もう僕のこと好きじゃないの?あんなに愛してるって言ってくれたじゃん!」
「今でも愛してるよ、正巳。ただ、お前のその独占欲にどうしていいかわからないだけだ」
「どうして?好きになったらその人のこと全部欲しいでしょ?僕は海の時間も空気も全てを僕のものにしたいんだ」
正巳は瞳にたくさんの涙をためて懇願する。
「そんなの無理だよ。オレにはオレの時間がある。オレだけの空間も必要だ。正巳だって絵を描く時間をオレに取られたら嫌だろ?」
「いいよ!僕はそれでもいい!絵なんか描かなくてもいい!海さえ居てくれれば何にもいらない!」
パシンッ…!
その瞬間、オレは正巳の頬をひっぱたいていた。
「お前、そんなこというなよ!オレがお前の絵が大好きだってことわかってんだろ!オレはそんな絵を描くお前が好きになったんだぞ!」
「海…、僕を嫌いになるの?」
「……」
オレはそっぽを向いたまま返事ができない。このまま正巳と付き合って行ったら、きっと正巳はダメになる。絵を描かなくなって、お前の才能を埋もれさせることになる。
「嫌いにはならない。ただ、しばらく離れよう。正巳はオレといるとダメになる…」
「イヤだ!僕は海がいなくなるほうがダメになる!」
正巳はそう言って、強引にオレを押し倒し、激しいキスをする。歯列を割り口腔内を貪り、まるでオレを吸い取ってしまうかのような。
でもオレは無理矢理正巳を押しのけ、体をひきはがす。
「ごめん、正巳。しばらく離れよう。冷静になったらまた戻ってくるから。だからお前も少し頭を冷やしたほうがいい」
オレは立ち上がり、簡単に荷物をまとめ玄関の扉に手をかけた。正巳はその間、オレの行動を目をそらすことなく見つめていた。あの視姦するような目で…
いたたまれなくなり、すぐにでも正巳をベッドに運びたい気分になったが、理性を総動員させて何とか思いとどまった。
「正巳、オレはお前を愛しているよ。これは本当だ。正巳が疑うようなこともしていない。ただ、今の正巳の気持ちがオレには少し重いみたいだ」
「う…み……」
か細く響く正巳の声を聞きながら、オレは扉を閉めた。

あれから1ヶ月、正巳とは何の連絡もしていない。でもオレは一日たりとも正巳を忘れたことなどなかった。正巳にとってのオレ同様、オレのなかの正巳もそれとは比べ物にならないほど大きくなっていた。もう戻ろう。正巳に会いに行こう。気持ちは十分整理できたし、何より正巳の顔が見たい。
オレはすぐさま、愛しい家へと向かった。
ピンポーン…
何度かチャイムを鳴らすが、反応がない。思い切って扉に手をかけると、あっけなく開いた…
少し不信に思い、恐る恐る玄関に踏み入る。
「正巳?いるんだろ?」
夕方、もうすぐ日が沈むころだ。部屋の中は薄暗く、間接照明のひとつもついていない。
「正巳?」
そういって、手近にあった照明にスイッチを入れる。
「正巳?!」
そこには正巳が虚ろな目でボーと座っていた。
「おい!オレだ!海だよ!」
少し乱暴に正巳の肩を掴み揺さぶるが反応がない。目の焦点が合っていない。
でも乱雑に広がる食べ散らかしたパックや衣類の様子から、それなりの生活はしてきたみたいだった。
ふと視線を落とすと正巳の足元にスケッチブック。
真っ白な何にも描かれていないスケッチブック。
オレがそれに手をやろうとすると、先程から想像できないほどのすばやさで抱きかかえる。
「正巳…?オレだよ、海だ。正巳…」
そう言って正巳がスケッチブックを抱えるように、優しく正巳を抱きしめる。
すると一瞬その虚ろな瞳にオレを写し、ふわりと笑った。

あれから更に一週間が過ぎた。正巳は相変わらずだ。何も喋らず、真っ白なスケッチブックを眺めているだけ。ご飯を与えれば食べはするが、それ以外は何もしない。
唯一オレが安らげるのは二人でお風呂に入っているときだった。以前のようにオレに体を預け、寄りかかってくる正巳は出会った頃より少し痩せたが、それでも愛しさは変わらない。
「正巳、愛してるよ」
たまに呼びかけると、やっぱりふわりと笑うだけで返してはくれない。
それでもオレは正巳のそばにいようと思った。あの時、正巳の愛から逃げたオレへの戒めだ。いや、それよりもオレ自身、正巳のそばにいたいと思った。
「正巳、寂しい思いをさせてごめんな。オレ、お前の気持ちにきちんと応えられてるのか、正直自信がなかったんだ。だから逃げ出したんだな。最低だよな、オレ…」
「……」
「でも、これからは一生正巳のそばにいるから。あの美術館でお前と会ったとき、オレ、お前がオレの光になってくれるって、そう思ったんだよ」
すると正巳がオレの顔を覗き込み、そしてアトリエから青の絵の具を数種類もってきて真っ白なスケッチブックに描き始めた。
たくさんの青をのせたそれはいつの間にか海へと変わり、そしてまるであの美術館の絵のように太陽の粒子をまとってオレの前に表れた。
それは今まで見たどの海よりも深く、青く、そして壮大だった。
「海…、僕、迷惑ばっかりかけてごめんね」
正巳の声を久しぶりに聞いたオレは、すぐには信じられなくて、一瞬スケッチブックの海が凪いだ音かと耳を疑った。
「海…、僕、海を愛しすぎて愛しすぎて怖かったんだ。自分でもわかってたんだよ?海が嫌がることしてるなって。このままじゃ嫌われるかもって思ってた。でも海がいなくなるまでは、現実になるなんて考えてもなかったんだ」
オレの目をしっかり見つめて一気に吐き出した。これが正巳の本当の声…
「海がいなくなって、もうなにもかも要らないと思った。でもね、そう思ってたんだけど、頭に浮かぶのは海のことと、僕が描いてきた海のことばっかりで何も手につかないんだ。海がいなきゃ僕は絵を描くこともできないし、視界に何かをうつすことすらできない」
「正巳、もういいよ。わかったから。これからは一緒だから」
「こんなに海に依存してる僕でもいいの?」
「ああ。そんな正巳だからこそ好きになった」
正巳の瞳からは大粒の涙が零れ落ちる。後から後から落ちてきて、オレは思わずそれを唇ですくった。
「甘いよ、正巳」
「海ぃ、もういなくなっちゃいやだぁ…」
正巳はオレの胸にすがりつき大声で泣き叫び続けた。

あれからオレたちはベッドへ移動し、久しぶりの行為に酔いしれた。そして正巳は今、オレの隣で深い眠りについている。
ベッドの中で約束を交わした。ひとつは正巳がオレのプライベートに干渉しすぎないこと。もうひとつはオレがいつまでも正巳の海でいること。
今日からまたオレたちの新しい人生がはじまる。
正巳と二人で描いていく海の絵は、きっとこれから果てしなく増え続けていくだろう。

「つまらない拙い文章ですがありがとうございました。」
...2004/12/21(火) [No.153]
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