「バカヤロー!!」 鏡を見なくても分かった。俺の顔は涙でぐちゃぐちゃだろう。泣き叫んで罵っても返ってくるのは自分の非を認める言葉ばかりで、俺にはそれが許せなかった。 「どうしてだよ?!あれだけ言ったじゃねえかよ?!!」 少し困った顔で俺を見下ろしている相手に言葉をぶつける。 信じたくなかった。絶対に嘘だと思いたかった。形の良い唇から、「冗談だよ」という一言が漏れてくることをずっと待っていた。 「ご免。こればかりは変えられない」 けれど、俺の耳に届いたのは絶対に聞きたくなかった一言だった。 思わず彼の服の胸倉を俺は掴み上げた。 見上げた目は深く澄んでいて吸い込まれそうになる。漆黒かと思わせる瞳が、実は光の加減で深い藍色に見えるということ。俺だけの秘密だったのに・・・。 深い藍色をじっと目を見つめても、彼が何を考えているのかなんてわかろうはずもない。振り上げていた拳を力なくおろして、俺は彼を睨みつけた。 「もういいよ。行けよ!!行っちゃえよ!!お前なんかもう知らねえよ!!」 睨んだまま彼を前に押しやった。 目を彼から逸らさなかった――逸らせなかった。少しでも気を抜けばその胸にすがって泣いてしまいそうだったから・・・。 行くな――と。絶対に行くな、と。 彼がいかに自分に良くしてくれていたか、親友という立場を利用して、自分がそれにどれほど甘えてきたか。今更になって情けなくなってくる。 「行けよ・・・」 だから彼に背を向けた。彼が行ってしまえば、後になって後悔なんてしすぎるほどすることは目に見えている。だけど、これぐらいしか俺にできることなんて無い。せめて笑顔で送ってあげるのが良いのだろうけど、そんなことは到底無理だから。
あまりに突然だった告白は、俺を奈落のどん底に叩きつけた。 「俺、アメリカに行くことにしたんだ」 いきなりだった。心の準備なんて出来ているはずも無かった。 だってそんな話、一度だって言ってなかったから。語学研修で渡米した先輩たちを、呆れた目で見ていた同士だったのに。 「嘘だろ?」 訊ねた俺の言葉は呆気なく否定された。 確かに彼は不言実行に近い気質の持ち主だった。が、こんな大きなことを三日前まで知らせてくれなかったなんて。それを俺の周りの皆はそれを既に知っていたなんて。今日始めて友達に聞いて、俺は目を丸くしたのだ。 ―――俺にはそんなこと言ってくれなかった。 放課後の部室で、俺は彼を問い詰めた。 もう何が何だか分からなくて、自分がどうして泣いているのかも分からなかった。とにかく悔しくて悔しくて・・・ 「行けよ・・・」 止まった涙がまた溢れてきた。どうして俺は泣いているのだろう。ふと考えて笑った。バカバカしい。そんなの答えはひとつに決まっている。 背後からふわりと抱きしめられて、思わず嗚咽が漏れた。あまりに優しくて。気持ちよくて。 ここが俺の居場所だと確信できるほどに心地よかった。 でも気が付いた途端、無くなるのだから。 「うん・・・」 これほどまでに俺は彼を思っていたのだ。それなのに、どうして今まで気がつかなかったのだろう。 彼女がいないことをお互いに馬鹿にしあい、朝日が昇るまで酒を飲み続けたり。いっぱいいろんなことをしていたのに、どうして気が付けなかったんだろう。 いつも一緒にいて、それが当たり前のように感じてしまっていた。既に俺の隣には、彼の居場所が出来ていたのに、気がつけなかった。 単純すぎる自分の気持ちに。この想いに。 俺は馬鹿だ。 「行くよ」 心に重く圧し掛かる言葉に、俺は小さく頷いた。頷くことしか俺には出来なかった。 止めることなんて俺には出来ない。 「泣くなよ」 降りかかってきた言葉はまるで溜息のようだった。 あまりに優しくて。 泣いてなんか無いと口を開きかけた俺は、不覚にも涙を溢れさせてた。 「泣くな」 俺は大きく首を横に振った。違う。 その声が、その言葉が、俺をおかしくさせているのだから。本当は泣きたいんじゃない。 俺は被りを振り続けた。 唇に押し当てられた感触に、俺は驚いて目を開けた。 続いて唇を割って入ってくるざらりとした感覚。 目を見開いた途端、整った顔立ちが目に飛び込んできた。 何をしているのか、何をされているのか。訳が分からなくて。ただ俺は放心したように立ちすくんだ。 「お前が泣いているのを見るのは嫌なんだ。だから、泣くな」 紡ぎだされる言葉は、少し苦しそうだった。 「だって、アメリカにお前が行くって言った・・・から」 ぎゅっと眉間に皺がよった。 ご免。きっと俺は気がつかない振りをしてた。心のどこかでは気が付いていたんだと思う。 俺が隣にいると、お前が苦しそうな顔をしていること。本心から笑ってないこと。 知っていたはずなのに。 ご免、本当にご免な。 「それは・・・決めたことだから。俺のためにも、和樹のためにもいいことなんだ」 見上げた俺をじっと見つめて、彼は話し続けた。 「きっと俺たちは近くにいすぎたんだ。お互いの距離が掴めなくなるくらい。俺がこのまま和樹の傍にいれば俺たち、二人とも駄目になっちまうよ」 そう、かもしれない。きっとそうなのだろう。 だけど、俺はその気持ちよりもずっとお前と離れたくない気持ちのほうが大きいんだ。 「手紙、書くから」 彼が残した最後の言葉はそれだった。 暗くなった部屋で俺は一人、それから長いこと佇んでいた。
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