ようやく手に入れたそれを、俺は手放してしまっていた。
「賢悟、珈琲でいいよな」 キッチンから聞こえる低い声に僕は同意の意思を伝えて、座ったソファの感触になぜか安堵していた。 ”僕”という存在が生まれたのがほんの3週間前。それまでの記憶は、ない。 というのも、どうやら僕は通学途中に交通事故にあってしまったらしく、それまでの一切の記憶が消えてしまっていた。 ”僕”は須永賢悟というらしい。そして、湯気を上げる二人分の珈琲を持って来てくれたのが”僕”の親友の戸倉大輔。今までのことを思い出せない俺を気遣って、居候させてくれるらしいのだ。 「まあ、今までも何度も泊まりに来てるし、お前の荷物結構置いてあるからな。今日は遅いし、何か必要になったら明日にでもお前の家に行こう」 そう言って、大輔は僕の迎え側のソファへと腰掛ける。 「ありがとう。頑張って…思い出すよ」 僕がそういうと大輔はどうしてか折角の男前を台無しにして、泣き出しそうな顔で首を振る。 「いや、無理しなくて良いんだ。先生も言ってたろ、気楽に構えるのが大事だって」 「うん…でも」 「賢悟。大丈夫だから、な?」 必死で僕を安心させる様に言う大輔の口調は、反面、自分自身に向けられているのではないかと思わされる。 「僕は…どんな人だったのかな」 珈琲にミルクを入れながら問いかけると大輔の答えはなく、どうしたのか視線を上げるとその目は僕の手に向けられていた。 「大輔君?」 「…あ、ミルク入れるんだな、と思って。前までは…入れてなかったからな」 苦笑する相手に僕もなんと言っていいかわからなかった。 それから大輔の話を聞いていくうちに僕は、本当に生まれ変わってしまったかのように、中身そのものが変わってしまったことを知った。
一番判りやすいところで、自分の事を、”俺”と言っていたらしい。
”俺”は大輔のことを君付けで呼んだりはしなかった。
”俺”は、何よりも大切なものを壊されてしまったらしい。
「大切なものって?」 僕の問いには大輔は視線を落とし、空になったカップを、そこに全ての問題があるかのように睨みつけていた。 「…賢悟が大事にしてたのは、心だよ」 「ココロ?」 「そう。それを、…壊された」 「…俺、虐待とか受けてたのか?」 慌てて自分の腕や、シャツを捲り上げて腹部などの肌を見るもなんの怪我の痕もなく、更に不可解なことに突然大輔に腕を掴まれる。 ソファの間に置かれたテーブル越しに身体を乗り出してきた大輔は必死な形相で、思わず気圧され何も言えないでいると慌てた様子で手を離される。 「…大輔君?」 「ごめん。…君、はいらないから。呼び捨てにしてくれないか」 誤魔化すようにそう笑って肩を竦める大輔に僕は、意味もなく泣き出しそうだった。
息が苦しくて、目頭が熱を持ち、軽い頭痛を覚える。
「賢悟?」 「…大丈夫」 「…もう、遅いし。寝ようか」 大輔の提案に僕は二つ返事で頷いた。 この苦しさから逃れたくて仕方がなかったからだ。 ベッドを使っていいと言われて、寝室に案内されるとそこにはキングサイズのベッドが鎮座していて、一瞬呆気に取られた。 「…寝相、悪いの?」 僕が冗談めかして問いかけると、大輔はなんとも言えない表情で頷く。 「大輔く…、大輔はどこで寝るんだ?」 「俺は…ソファを重ねるとベッドになるから、そこで寝る」 「…俺がそっちで寝るよ」 家主はそっちなのだから、という僕の主張に病人をあそこで寝せるわけにはいかないとの大輔の主張がぶつかり、結局キングサイズを利用して一緒に寝ることになった。 ”俺”は大輔と親友同士であったのだから、別に気にしないと思ったのだが、大輔は少し嫌そうだった。 そんな様子を垣間見るだけで、更に息が苦しくなって、僕はどうしていいのかわからなくなってしまう。 置いてあったらしい、”俺”の寝間着を着て、ベッドに入ると僕の意識は直ぐに沈んでいって、ただ、闇だけが訪れた。
"賢悟!!"
"違うんだ、賢悟"
"俺はお前のこと、本当は好きじゃ"
「っ…!!!」 苦しい。 呼吸が、出来なくて、一生懸命に酸素を取り入れようと口を開けようとするも、叶わなかった。 暗くて、何も見えず、何かが口を塞いでいて息が出来ない。 腕を動かすと右手は押さえつけられていて、左手だけが目の前の闇にぶつかった。 痛みに呻くように口を塞いでいたものが離れて、ひゅっと酸素が入り込み、喉が鳴った。 「っは、…な、に」 乱れた呼吸を整えながら暗闇に慣れてきた目を凝らすと、どうやら僕は寝ているまに誰かに馬乗りにされていたらしく、腹部に体重を感じた。 誰か。 「…大輔?」 「…呼ばないでくれ」 震える声は、酷く掠れていて、暗闇にも相手が泣いている事がわかった。 「…泣くなよ」 「…」 「頑張るから、…”俺”を思い出せるように頑張るからさ」 僕が必死にそう言うと大輔の右手が伸びてきて、俺の額に触れた。 「全部思い出したら、お前は俺を許さないよ」 「…でも、思い出して欲しいんだろ?」 「…っ俺は、…俺と賢悟は恋人同士だったんだ」 引き絞るような声は、悲痛な響きを持って僕の中へと入ってくる。 その内容は驚くべきことなのに、まるで嵌め込む場所がわかっていたパズルのようにすとん、と胸に落ちてきた。 「お前、俺のことすごく好きで。何度ふっても俺が好きで、俺は遊び半分で付き合った。お前は俺が何やっても、絶対に離れなかった。俺は、そういう所が気に入ってて、好き勝手やってお前のこと傷つけて、そうやって楽しんでた。だって、俺、お前のこと好きじゃなかった」 暗くて、その表情を見ることは出来なかったが、ポタポタ、と頬に落ちてくる涙の熱さが大輔の真実だと思った。 「だから、お前のこと大事にしなかった。女連れ込んでるところにお前を呼びつけて、お前のこと嫌いだ、って。そう言った。どうせ、また怒って、でも結局戻ってくると思ってたんだ。お前には俺しかいない、ってそう思ってたから」 大輔が話す内容は僕に何の感情も抱かせなかった。 ただ、可哀想な恋人が一人、目の前で泣く男によって傷つけられた、それだけのように思える。 僕とは他人の、”俺”。 「けど、一週間過ぎても帰ってこなくて。仕方ないからお前の家に行ったんだ。けど、まだ帰ってきていなくて玄関で待ってたら、俺に気づいて嬉しそうにしてるお前が見えた。だから、お前なんか好きじゃないって、…また、叫んでやった。…お前、すげー笑顔だった。何もかもわかってる顔で、笑って、そのまま走ってる車の前に飛び込みやがった」 「…大輔」 「そんなスピードじゃなかったし、傷もなかったからバカだな、って罵って。救急車呼びながらお前のこと、やっぱり傷つけてた。そしたらお前さ、”ばいばい”って言いやがって。そんなんじゃ死なねえよ、って笑ってたのに…」 「…”俺”は死んじゃった。僕が生まれてきちゃったから」 「…賢悟」 「…僕は、なんなのかな。二重人格?ただ、忘れてるだけ?…だって、僕は大輔のこと好きじゃない」 「っ…」 「胸が苦しくなったり、泣いてる大輔を見て、すごく悲しくなったりするけど…これは、きっと僕の感情じゃない。だって、僕は大輔のことを知らない。…僕は自由だろ」
君を想う、そのココロから解き放たれたのだから。
「…賢悟、放してやれない。自由になんてしてやれるかよ」 そう言って、大輔は僕の胸の上に倒れこむように額を押し付けてくる。 その体が小刻みに震えていて、僕は短い髪に指を絡めるようにして頭を抱きこむ。
意思はなく、ただ、体が自然と動いた。
「賢悟…」 驚いたように顔を上げるのが頭に触れた手でわかって、切なくなる。
ゾクゾク、と背中が震える。 愛しくて。 もう、恋に落ちてしまう。
何も、知らないのに。
”俺”が手放したものを、奪おうとしている。
「じゃあ、”僕”と浮気しよう?俺のことを思い出せるまで。”俺”に、戻れるまで」 濡れる頬に舌を這わせながら言うと、大輔は絶望的な顔になって、そして、再び僕の胸に顔を埋める。 僕は比較的細いほうで、体つきのいい大輔がそうするとしがみついているようにさえ見えてしまうだろう。 「賢悟…俺は、どうすればいい?」
「大輔」
ただ、手に入れたい。 この、傷ついた魂を。
自由になっている左手を伸ばし、大輔の下半身へと這わせると驚愕に体を震わせて何度目かにまた、大輔が顔を上げる。 「っ…賢悟」 「”俺”のものだった、大輔を僕が奪ってやる、全部。離れられないのは、大輔のほうにしてやる」 言い切るようにして布の上から自身を刺激してやると、その手に大輔の手が重なって揉むように動かされる。 もう、涙を零してはいなかった。 「賢悟、…俺は、謝らない」 「大輔?」 「お前は、…残酷だ」
「っふ、ぅ…んぅ」 口腔内に入り込んだ大輔自身に舌を絡めて、吸い上げると内腿が震えて、その快感を知らせた。 じゅ、ちゅ、と卑猥な音が室内に響いて僕は自分も興奮してきていることを痛感する。 きっと、記憶が戻る日は近い。だって、男同士だろうと、なんだろうと、大輔が気持ちよければいい、そう考え始めてしまっている。 「っ…賢悟、厭らしい」 甘く掠れた声がそう言って、僕の下肢に手を伸ばし既に反応しだしていた自身を握りこまれる。 「ぅ、っぁ…ふ、くぅ」 濡れた音を立て始める自身を扱かれながら蕾に大輔の舌が這って、思わず口から大輔自身を取りこぼしたが、すぐに口に含みなおす。 そのうちに濡れた後腔に指が入り込んで、僕はそれだけで一度放ってしまった。 こんな快感知らない。けど、身体は従順に、慣れたもののように受け入れ、先を求めていく。 「っぁあ…、ゃあ…ぁ」 ぐちゅぐちゅと出入りする2本の指に既に大輔に愛撫を与えることも出来なくなって、僕はただ、その刺激だけに神経を集中させられていた。 「賢悟、起きろ」 腕をとられ、抱き寄せられて向かい合わせに座り込んだまま口付ける。 舌が絡んで、唾液と大輔自身から零れていたものが混ざり合って喉を下っていく。 そのうちにいつの間にか大輔の膝を跨ぐような体勢になっていて、僕はただその瞬間を待つように口付けに没頭していた。 「ッ…入れるぞ」 ちゅ、と音を立てて軽いキスでそう言われ、頷こうと思った瞬間には膝が折れた。 熱い、その熱が身体を焼くように入り込んでくる。 「っぁあ、ゃ、ッ…ぁ」 深々と大輔を呑み込んで、痛みよりも壮絶な熱に体が震える。 そのうちに小刻みに揺らされ、先ほど放ったばっかりの僕自身が主張を始め、段々と大きく上下する動きに合わせて大輔の固い腹筋にこすり付けてしまう。 「っん…ぁ、ぁあっ…ひ、ぁ」 「…賢悟、賢悟」 「大すっ…けぇ、ゃあっ…もぉ、っ…や、だぁ」 「やだ?…嘘つくな」 低く喉で笑う、大輔にフラッシュバックが起こるように僕の身体に電気が走る。いつだって、余裕たっぷりの大輔の顔。 加えて、腰を掴まれ、更に激しく腰を揺らされ際限なく自身からトロトロと白濁が溢れ始めた。 「イキそう?」 「っん、も、出ちゃっ…ゃあ、ィクっ…あぁっ」 「賢悟…、覚悟しろよ」 「は、ぁ…っぅあ、ゃあ…も、ぉっ…や、ぁああっ」 一際強く最奥を穿たれ、僕は勢い良く白濁を吐き出して達し、その直ぐ後に大輔が体を震わせて、体内に熱い奔流を感じた。 「…大輔、僕、っ…僕は」 「…ん?」 ぐったりと大輔の肩に凭れる僕の頭を撫でてくれながら大輔が顔を覗き込んでくる。
「僕は、大輔が…、嫌いだよ」
そう言った僕に大輔は、どこか幸せそうに、優しい口付けと微笑みをくれた。
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