朝のランニングも兼ねて、けっこうな急斜面を走り、舗装されていない道を進み、周りを木に囲まれた林の奥にどんどん向かっていく。 まだ日が昇り始めたばかりの時間帯は薄暗く、けれど日の光にうっすらと空が明るくなていく光景は爽やかな朝そのもので、ひんやりとした空気もまた心地よかった。 農作業で鍛えたがっしりとした体躯と日本人にしては恵まれた標準以上の身長。 原里人(はら さと)は無地の白いシャツの上にスポーツウェアを着込んだ恰好で、首にはタオルを巻いているという、センスや流行も無視した機能性だけを重視した恰好をしていた。 家からずっと走り続けているために、健康的に焼けた肌に汗が滲んでいる。 荒く息を吐く少し開いた唇の隙間からは真っ白な歯が覗いていて、真っ黒な瞳はまるで仔犬のような愛らしさがあった。 年は二十台半ばほどであろうか。どこか純粋さを残した子供のような雰囲気を持っている青年だ。 林をもうしばらく走ると、急に前が開けて見慣れた小さな古い家屋が現れる。 ほとんど毎日と言っていいほど、彼が訪れている場所だ。 もとは里人の曾祖父母が住んでいた家だそうだが、もうすでに彼らは他界していた。祖父母・両親・そして里人を含めた兄弟たち三世代は、ここよりもっと下にある部落に家を持っておりそこで暮らしているため、このただでさえ広いだけで人口密度の低い村のさらに辺鄙な場所にある家をどうしようかと持て余していた。 そして彼は、ふらりとこの村にやてきて里人の住んでいる部落に現れたのだ。 村役場で原家が家を持て余していることを聞いてやってきたらしい彼は、原家の家長である祖父にあの家を貸して欲しいと頼んだ。 もちろん断る理由のない祖父は、ほとんどもらってないような破格の家賃でその家を彼に貸した。 そういった経緯で、彼はこの家に住むようになったのだ。 彼は何か仕事をしているわけでもなく、ただ家でじっと過ごしているだけのようで、何だか気になって里人が様子を見に行くと、必ず家にいた。 車は持っているようで、ぎりぎり車一台何とか通れる道を登らせて、広い庭には一台彼の車が止まっている。 まるで世捨て人のような隠居生活を送る彼に興味を持って、里人は何かと理由をつけては訪れるようになった。 年は離れていたけれど、人懐こい里人の性格のおかげですぐに仲良くなれた。 荒れ放題だった畑も耕して、勝手に野菜を育てだした。都会に出て勉強するわけでも就職するわけでもなく、高校を出てすぐに家の農園を手伝っていた里人は、そうやって農作業をするのが一番好きなのだ。苦労して育てた野菜が育って大きくなってゆく姿を見るのが楽しくて、彼にも色々と教えながら畑を広げていった。 里人は走りながらその畑を通りすぎて、鍵なんてついていない古い扉を叩いた。 今にも壊れそうなくらいにがたがたと揺れて、鈍い音を出す。 「一路さん、おはようございまーす」 少し待つとゆっくりと歩いてくる小さな足音が扉の向こうから聞こえてきて、建てつけが悪いのかただ単に古いからなのか、なかなか開かない扉を何とか開けて彼が顔を出した。 寝起きではない。彼は里人と同じくらい朝が早く、すでに顔も洗って着替えたあとのさっぱりとした表情だ。 「おはよう」 彼の名前は赤羽一路(あかはね いちろ)と言い、白髪の混じった柔らかな髪の毛に薄っすらと皺の刻まれた白い肌を持つ四十代前半ほどの中年である。背は、彼らくらいの年代の人間ならその程度だろうという程で、しかし里人から見れば十分低い背で大きな二重の垂れ目がいつも眠そうな感じで可愛らしい、親父臭さを感じさせないタイプだ。 彼の左手の薬指には、プラチナの指輪が嵌っている。 「ずいぶんと汗かいてるね。お風呂沸かしてあげたいけど、時間がかかるから……」 そりゃそうだろう。ここのお風呂は薪で沸かすため、シャワーもなく汗を流すには時間がかかってしまう。沸くのを待っていたら汗がひいてしまうのだ。 「いいですよ。ちょっと流し借りますね」 断ってから家に上がると、洗面所もないため古びたステンレスの流しに水を流して、その水流を手ですくって顔を洗った。冷たい水に火照った肌が冷やされて、ぞくりと首筋が粟立つ。 首にかけていたタオルで水を拭うとさっぱりして気持ちが良かった。体の汗は、家に帰ってからシャワーを浴びれば問題ない。 「ごめんね、毎朝毎朝。早く私も作れるようになればいいんだけど」 「俺が好きでやってるんですから、そんな気にしないでください。一路さんのためなら、何だってしますよ」 にっこりと笑って、里人は勝手知ったる台所で自分には少し小さいエプロンをつけて、ごそごそと冷蔵庫を漁りだした。毎朝彼がこうして訪れるのは、一路に朝食を作ってあげるためだ。今まで料理をほとんどしてこなかったという一路が、今こうして一人暮らしをし始めて、コンビニもない山の中では自炊しかなく困り果てていたところに里人が来て朝食を作ってくれるようになったのだ。 ちなみに、昼用にお弁当も作ってくれて、夜は夜でまた作りにきたり家に呼んだり残り物を持ってきたりしている。まるで通いの家政夫のように一路の世話をしていた。 もちろんそれは、下心あっての話。 「何でもって……」 「言ったでしょう。俺は一路さんのこと好きだから、一路さんのためにできることなら何でもするって。そうやって一路さんの役に立てることが嬉しいんです。俺、こういう料理とか農作業とかくらいしかできない男ですから」 何故、十以上も年の離れた中年男性の一路が気になって、興味が湧いて、ここに足を運んでしまうのか。 あまり恋愛経験というものがなかった里人がその気持ちを理解するのには時間がかかったけれど、理解してしまえばそうだったのかと納得できる。 里人は、一路に恋愛感情を抱いていた。それだけのことなのだ。 生活能力がないくせに、こうして不便な場所で一人暮らしをする無謀な人。おっとりとした柔らかな態度。枯れ木のように細く脆そうな身体。もう人生を諦めたような態度と、たまに見せる思いつめて泣きそうな表情。思えば全てが愛しくて堪らなかった。 一路の左手の薬指に結婚指輪が嵌っているのも、もちろん知っている。それが、交通事故で亡くなった奥さんとのものだというのも本人から聞いていた。その事故で、一人娘もまた失っていることも。 彼に受け入れてもらったときに、その話をしてもらったのだ。 今、二人は遅い春のようにゆったりと穏やかで静かな恋愛をしている。 「すぐできますから、待っててくださいね」 「……うん」 結婚暦があるくせに、妙に純情な一路は、好きとか愛しているとか里人が言うとすぐに顔を赤くして、もじもじと恥ずかしがる。それでよく子供まで作れたな、と里人は可笑しくなるのだ。そしてそんなところが可愛いのだと、一人惚気る。惚れた欲目というやつだろうか。 そんな状態だから、もちろん身体の関係まではいっていない。あってキスだけという、いい年した大人二人は清らかな交際をしているのだった。 料理は上手いがレパートリーの少ない里人は、お味噌汁と白ご飯と外の畑で取れた野菜の浅漬けという簡素な朝食を用意した。三日に一度はこのメニューである。 ちゃぶ台にそれらを二人分並べて、里人と一路は向かい合わせに座った。 外はだいぶ日が昇ってきて、一段と冷え込む時間帯だ。明るいけれど、晴れた空に空気は冷える一方。 障子越しに太陽に明るい光が差し込んできて、部屋は一気に明るくなった。 「いただきます」 「いただきます」 二人揃って手を合わせてそう言うと、ほんのりと味噌の温かないい香りのする朝食に手をつけた。
ひっそりとした世界で、二人は小さな愛を育てている。 恋に気づいた彼らは、新たに愛を生み、それを大切に大切に育てている。 大切にしすぎて、互いにそれ以上一歩前に踏み出せないくらいに。 家にある唯一の柱時計が鳴った。耳を澄ませば振り子のかちこちという音が聞こえてくる。 時計の音は、二人の世界の時を刻んでいた。
ボーン、ボーン、と二人を急かすように鳴り響くのは、誰の意思だろうか。
end
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