その声を、
奪い去りたかった。
「お疲れ様!」 一斉にスポーツ飲料やお茶の入った紙コップを掲げて乾杯が行われる。 俺、奥村緑(おくむらりょく)も周囲に倣いお茶入りの紙コップを掲げそれを飲み干す。 ライブ後は喉が渇くため、ペットボトルで飲んでもいいとさえ思っていた。 そう、今は俺が所属するバンド「ICY」のライブ終了後のささやかな打ち上げ会の真っ最中だった。 やや大きめのコンサート会場でツアー最終日を迎え、後日にもっと大々的な打ち上げが行われる。 終了当日は後片付けなどがあって忙しいからだろう。 事務所のお偉いさんや会場スタッフなどに挨拶を終えたころ、各々が好き勝手に今日の感想や世間話を始めたので、ようやくバンドメンバーで部屋の片隅に集まることができた。 といっても、メンバーは俺を含めた三人で集まるというよりは喧騒を避けていつの間にかいた、という感じなんだけど。 「…大丈夫か?」 疲れたように壁にもたれて立つヴォーカルの比嘉義一(ひがよしかず)に声をかけるとうっすらと苦笑が返ってきた。 元から人込みが得意ではないし、こういった社交辞令の場も苦手だから実は会が始まるころから俺は気が気じゃなかった。 長身を歪めて壁にもたれ、いきなりその長い腕で俺の首に腕を回すとぐい、と引き寄せて抱き込まれる。 人目を気にしなきゃいけないんだけど、この体制だとギイチ(呼びやすいので俺はそう呼んでる)が疲れて俺にもたれているようにしか見えないから気にしないことにした。 まあ、俺とギイチはそんな関係。 「…緑、いちゃつくのは家帰ってからにしろ」 まったりしてると背中から羽嶋次郎(はしまじろう)の心底うんざりした声が聞こえてきた。 ドラム担当で、俺たちの関係も知っている数少ない理解者。 「いちゃついてないよ、ギイチが死にかけてるだけだ。ジロもふらふらじゃんかよ」 俺が不満げに言いながらギイチの腕を外すとギイチも不満げに鼻を鳴らす。 そして背を正しながら肩をすくめた。
「死にかけてねーよ。…ちょっと疲れただけだ」
ライブ直後の掠れきったギイチの声は耳に痛い。 心に突き刺さってくるようだ。
「まあ、ツアーも今日で終わりだしな。ゆっくり休もうぜ」 肩をすくめて次郎が苦笑する。 そんな俺たちの会話が聞こえていたのか、マネージャが近づいてきて俺たちの肩をポン、とたたいた。 どこかの社長でもやっていそうな風貌の真崎李緒奈(まさきりおな)さん。モデル出身とかいう噂もある。 「お疲れ様、今日はもうホテルのほうに戻っていいわ。明日の朝には迎えに行くからちゃんと起きてね。特に義一」 スケジュール帳を捲りながらハキハキと言って、最後にはしっかりとギイチに釘を刺す。 ギイチもそんな彼女に慣れているのか、片手だけ挙げて返事を返した。 「じゃあ、とっとと帰るか」 次郎があくびをしながら言うから俺もギイチも頷いて楽屋の荷物を取りに行く。 俺はどっちかというとまだみんなと盛り上がっていたい気もしたが、ギイチを放っておくことなんて出来なかった。 多分、真崎さんも次郎もそのことに気づいているけど、ただ苦笑するだけだった。
狂気的な歌声。
それが、ギイチにつけられたフレーズ。
ギイチの歌声は、痛い。
聞く人誰もが、魅了され、惹きこまれる。
でも俺には。
ギイチが何のために歌っているのかがわからない。
自分を追い詰めて追い詰めて、ギイチは何を得ているのだろう。
誰のために歌っている?
その痛みは、いったい誰のものだ。
狂気的で、自虐的。それでいて綺麗。 どこまでも堕とされる。
その声に。
「…緑、おい」 ホテルに戻ってぼーっとしていると本当に意識が飛んでしまっていたらしい。 ソファで不自然な体勢で寝てる俺をギイチが乱暴に起こす。 一応俺の部屋もあるんだけど、荷物だけ置いてギイチの部屋に入り浸っていた。 ライブの後は絶対にそうしている。 ギイチを、一人になんかしたくなかった。 「ごめん、寝てた」 「ああ…、ベッドで寝ろよ。体痛くなるぞ」 「んー…わかってる」 軽く目をこすりながら伸びをしてソファから立ち上がると、その手をとられて目元に唇が降りてくる。 「ギイチ、…寝たほうがいいよ」 頬や首筋にも触れるそれに俺はやんわりと告げたが、ギイチは聞こえていないかのように唇を重ねる。 俺はそれに抗う術を持っていないから、結局ベッドに押し倒されてしまう。 「ギイチ、…っ」 段々と熱を上げられ、思わずその長めのぼさぼさの黒髪に指を埋める。 すると見上げるようにギイチが視線を上げて。 俺と視線がかち合うと、もう駄目だ。 貪欲になることしか出来ない。
「っぁ、あ…ギ、ィチっ」 自分のものではない熱に意識を支配されて、湧き上がる快感に声が零れる。 普段は冷たい印象しか与えないギイチの表情も、熱に浮かされたように欲情していて。
ただただ、息を呑む。
「っ…緑」 ライブのせいか、行為のせいか掠れきったギイチの声。 両腕を伸ばして引き寄せて、その喉に噛み付いた。
その声を、奪ってしまえればいいのに。 その苦しみから、奪ってやりたい。 歌から、ギイチを奪ってやりたい。
「っ、緑…こら」 仕返しとばかりに首筋に歯を立てられて涙がこぼれた。 ギイチは何もわかっていない。 俺の勝手な思いにも、俺の独占欲にも気づかない。
けど、それでよかった。
やっぱり、ギイチの歌が好きだから。
「んっ…も、ギィ、チ…ぁ、っ」 高まる鼓動に、加速する律動に、呼吸を奪われて。 救いを求めるようにその背中にすがりつくと耳朶を噛まれた。 「緑、ッ…俺から離れるなよ」 射抜くような視線でそう告げられると、俺にはもう頷くことしか出来ない。 「っふ、ぁっ…っあ!」 お互いの熱を発散して、口付けを交わす。 呼吸も魂も全部交換して、自分のものにするかのように。
俺たち「ICY」は俺と次郎の二人で高校生だったころに始めたバンドで、ギイチとは俺が川原で出会った。
本当に運命的に出会った。
橋の上でぼんやりとギターを抱えて(俺はギター担当だから)空を眺めていると突然その歌が降ってきた。 やるせなさと愛おしさと、切なさと、痛みを含んだ声だった。 オリジナル曲ではなくて、洋楽のカバーだったけど。 俺には隕石が降ってくるより劇的なものだった。 それからすぐに周囲を見渡して、橋の下にいることがわかって駆け下りて。 転んで石に足をぶつけて流血沙汰になったところを助けてもらってから、そのままバンドに引き込んだ。 もとからバンド仲間を探していたようだし、俺たちはヴォーカルを探していたところだったからタイミング的にもばっちりで。 インディーズで活動しているうちにギイチの評判は広がり、次郎の曲も評価され、メジャーデビューとなった。 そして、今では武道館も夢じゃないバンドになった。
時折思う。いや、ふとした瞬間常に。
ギイチはこれでよかったのだろうか。 歌うことを求められる。 その状況がつらくはないのだろうか。
ギイチの歌は俺にとって常に痛みを伴うから。
「…緑?」 俺がぼんやりとギイチを眺めていると訝しげにギイチがこちらを向き、視線を合わせてくる。 疲労感と倦怠感の中、俺はギイチに寄り添うように体を寄せる。 その、低い体温を少しでも上げてあげられるように。 いつも、考えてしまう。
ギイチは、幸せ?
「…」 腕が伸びてきて、俺の髪を梳いて頭をなでてくれる。 「緑、おやすみ」 掠れた声は音にならなくて、それでも俺は小さく頷く。 この声を奪ってしまいたいのに。
その声を聞けないのはひどく悲しい。
「――――」
音にならない子守唄。 歌詞もない、ただの音階。 どうしてこんなに、この人の歌声は。 愛しいのだろう。
朝になり目が覚めるとギイチはまだ眠っていて、俺は散らばった服を身に着けながらギイチを見つめた。 もうすぐ真崎さんが来て、ギイチを起こしにくる。 俺がギイチを起こしてくれればいいのに、と真崎さんはいつも言うけど、俺にはこの愛しい寝顔を曇らせてまで起こすことなんて出来ない。 頬に軽く口付けを与えて自分に割り当てられた部屋へと戻る。
また、忙しい一日が始まる。
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