前方15メートル程先に、眼光の鋭い男を発見して歩を止める。彼は、腕を組んで横にある塀に身を凭せ掛け、何故か少々不機嫌な顔をして立っていた。 一つ溜息を吐いてから目を逸らし、道路に転がっている空き缶を見ながら彼のいる方へと足を踏み出す。 彼の目の前に来て立ち止まり、それでも顔を上げずにいると、刺すような視線が自分の横顔に向けられる。幸せが逃げてしまうからもうこれ以上出したくもないのに、もう一度溜息を吐いた。
「どうも」
一言だけ、自分から声を出した。でも、顔は見ずに。
「顔、上げろよ」
彼の声は不機嫌そのものだ。そんな緊張感漲(みなぎ)る声で言われて、はいそうですかと顔を上げるような奴がいたらお目にかかりたい。
「おれ、何かしました?」
「別に」
「じゃあ、何でそんなに不機嫌――」
ひんやりと冷たい手が顔に触れ、顎と頬を掴まれて半ば無理矢理に彼の方へと持っていかれる。
「別に」
凄艶な瞳で見下ろしながら 『別に』 を繰り返され、全く持って意味がわからなかった。 指がめり込むほど頬に強く触れてくる彼に、眉を顰めて苦痛を伝える。鼻で嗤笑した彼は、力を緩めてはくれたものの、決して触れている手を離そうとしない。
「あの……あいつのことなら、おれ、諦めて……」
「そんなこと、聞いてない」
「それじゃ一体……」
聞こうと思って、止める。どうせ答えてくれないだろうことは明らかだったから。 もう諦めて好きなようにさせよう、そう結論して、彼の次の言葉を待った。
*
『ユウジに何かしたらただじゃおかないから』
まるで宣戦布告のようなことを彼に言われたのは、初めて会って間もない頃だった。 最初に会った時点で、彼は自分の心の裡を読み解いて、ユウジに邪な気持ちを抱いているのだと察知した。もちろん、知られて困るようなことでもなかったし、隠し立てするつもりもなかったので、『彼が好きなのか』 と聞かれたときは素直に頷いた。 しかし、今になってみると、あの時 『違う』 と否定しておくべきだったのかもと思う。 後日、彼に会った時には、何かにロックオンでもするかの如く決め台詞を吐いてくれたのだから。
彼のような人物に、『ただじゃおかない』 などと言われたら、本気でタダでは済ませてもらえないのだろうと戦慄が走る。それが怖ろしくて引いてしまう人もいるかもしれないが、自分は違った。 彼に言われたからどうのというわけではなく、ユウジには最初から手出しするつもりなど毛頭なかったからだ。 ある出来事がきっかけでユウジと一つ屋根の下で過ごし、色んなことを語り合ったけれど、それは友達の範疇をでることはなく。 ユウジの気持ちを十分に知っていたから、それ以上発展させたいとも思わなかった。 もちろん、『あわよくば』 の気持ちが皆無だったとは言い切れないが。
そんな風に考えていたのに――
気付けば、現在も無言で目の前に立つ彼は、よく自分の周りに現れるようになっていた。 まるで見張りでもするかのように。特に重要な話をするわけでも、長い時間一緒にいるわけでもないのだが、ふと気が緩んだ隙に入り込むようにして出現する。 最初はどう対応していいのか判らずかなり戸惑ったが、如何せん、彼は主題を述べないのであまり会話が成立しない。ただ、美麗な顔に無表情の仮面を被り、こちらを直視しているだけなのだ。
そうまでなって漸く気付いたのは、あまり人に深入りしてくるような人間ではないという第一印象を与える彼だが、友人知人に関しては全く別らしいということであった。 彼の大切にしている友人や知人に害を及ぼすような人間は、直ちに処理する。そんな雰囲気を持って標的を見定めるのだ。 その標的に自分が入れられてしまったのは考えるに難しくないわけで。
そして、現在も――
*
中々言葉を発しない彼を一瞥し、顔に触れている手を払い退ける。
「本当、何なんですか、あなたは」
「いい加減、さ……」
漸く開いた彼の口が紡いだ言葉は、前後に脈絡のない意味不明なもの。
「いい加減、その敬語、やめない?」
「はあ?」
突然何を言い出すのかと思えば、敬語を使うなときた。
「同い年なんだし、知り合って結構経つのに、まだ敬語使ってるなんて何か気持ち悪いじゃん」
気持ち悪いと言われても――
「何で、そんな風に他人を装おうとすんの? ヒサ」
「だって、他人じゃないですか、おれとあなたは……全くの」
ふぅん、と小さく言って口の端を引き上げた彼が、信じられない行動に出た。
「な……」
愕然として声が喉で停滞する。 いきなり近づいてきた彼の顔に、一瞬見惚れてしまったのがいけなかった。 幾ら人気がないからと言っても、こんな路中で――
「いい唇、してんじゃん」
それも男に――
「その口で、名前呼んでよ……ヤマトってさ、呼び捨てでいいから」
――奪われたものは返って来そうにないものだった。
*
シングルの木製ベッド、綿のシーツ、安物のワタが詰まっただけの布団。 一般的な大学生が一人暮らしで使う寝具の上で、何かのオマケで貰った色気のない大きなマグカップに入ったインスタントコーヒーを啜る人物は、どう考えてもその場に似つかわしくない威光のようなものを放っていた。 床に置いてあったクライミングの雑誌を優雅に拾い上げ、上品に目を伏せて文字を追っているその人に、ヒサは聞こえないように幸せを逃す息を吐く。
「……何で、こんなとこまで付いて来るんですか……」
「別に。 それより、座ったら?」
マグカップを持って突っ立ったままのヒサに、ベッドの上の人物が席を勧めた。 自分の家だというのに初めて来た客人に着席を促されたヒサは、眉を寄せて再び口を開く。
「鷲爪(わしづめ)さん、一体……」
「ヤマト」
折角出した言葉も、即座に掻き消された。そして、自分の名前を言っただけのヤマトは、雑誌から顔を上げる気配もない。 またもや全ての反抗気力を殺がれ、ヒサは申し訳程度の小さなテーブルにマグカップを置いてその場に腰を下ろす。何故か、正座して。
テレビもつけてなければコンポも作動していない、これと言った気を紛らす音のない空間で、雑誌を捲る音とコーヒーを啜る音だけがたまに響く。 ヒサは、その苦痛をも生み出しそうな重たい空気を孕む空間に孤独を感じ、膝の上で握った拳を見詰めて考えることを放棄していた。
「ヒサ」
呼ばれて、俯けていた顔を上げる。
「はい?」
ベッド上のヤマトは、雑誌に見入ったままヒサに向かって手招きしていた。 ヤマトの見ている雑誌が自分の趣味であるクライミングに関するもので、それに興味を示したらしい彼が雑誌に集中したままヒサを手招いているのだから、書いてある記事で何か聞きたいことでもあるのだろう。そう思い、腰を上げて彼の傍に行った。
「何ですか? 何か面白い記事でも?」
立ったまま、ヤマトを見下ろし問う。
「これ……」
問われたヤマトは、それでも顔をヒサに向けることなく、雑誌に載っている写真を指差しながら一言漏らした。ヒサは写真を見るため腰を折ろうとする。 しかし、写真の上に載っていた指がすっと引くと同時に、ヤマトの鋭い視線に正面から射抜かれた。びくりとして、半分ほど身を屈めた状態でヒサの動きが止まる。
合わされた視線が逸らされることはない。確りとヒサを束縛して、行動の全てを制御しようと威圧する。ヒサが口内に溢れてきた唾液を嚥下しようとしたところで、ヤマトが自分の座っているベッドの脇を二三度ぽんぽんと叩いた。
「座れって」
それだけ言って、ヤマトの拘束の視線は外される。 解放されたヒサは一旦目を閉じて動揺しそうになっていた心を落ち着け、少し距離を置いて客人の隣に腰を下ろした。 再び雑誌を読み耽っている様子のヤマトを、ちらりと横目に捉える。そして何か質問を受けていたことを思い出し、体ごと彼の方を向いて、先程彼が指差していた写真に自分の人差し指を持って行った。
「で、これが何?」
「え?」
顔を上げ、不思議そうな表情を一寸だけヒサに見せたヤマトは、直後 「ああ」 と納得したような声を出す。
「『え』 じゃなくて……この写真について何か聞きたかったんじゃないんですか?」
呆れ気味に言うと、にこりと笑んだヤマトが紙の上に載っているヒサの指を取り、下方へと動かした。
「こっち。 これって何に使う道具なの? ていうか、ヒサがクライミングするなんて知らなかった」
「話したことないですからね、趣味程度でやってます……」
それより、先刻は違う写真を指し示していたじゃないか、という言葉は呑み込んでおく。
「ふぅん。 んで、これは何? 何に使うの?」
ヒサの趣味などにはまるで興味なさそうな生相槌を打ちつつ、ヤマトが再度問う――触れた手は、離さずに。
何について尋ねられているのか判断しかねたヒサが、そこをよく見ようと少しだけ体を移動させて雑誌を覗き込んだ。しかし、重なり合った二人分の男の手の所為で、何が写されているのか全く見えない。
「えっと……手、離してもらえません? 見えないんですけど……」
言ってから、触れられた手に妙な圧力を感じてヒサはヤマトを見る。雑誌の写真など全く見ていなかったらしい彼の顔は、真っ直ぐにヒサに向けられていた。彼の瞳の中に揺らめく、やけに艶めいた色にヒサは瞬間どきりとする。
「……あの」
上擦りそうになる声を抑え何かを問おうとしたヒサは、目の前の相手の口角が僅かに引き上げられたのに気付いた。 美麗な顔が急接近する。
「鷲……っ!」
数時間前の路上での出来事を瞬時に思い出し身を引こうとしたときには、雑誌を脇に退かしたヤマトに肩を押されて、上半身をベッドに倒されていた。流れるような動作でヒサの両手首を取り一まとめにして、己のものより幾分大きな掌がそれを拘束する。
「敬語、止めって言ったのに」
上から見下ろしたヤマトが口先を尖らす。 押し倒しておいて、今全く関係ないようなことをさらりと口走るヤマトを睨みつけ、ヒサが抗議文句を声に載せた。
「ちょっと! いきなり何をするんで――」
しかし、全部告げる前に阻まれる。しかも――言葉の出口である場所を塞がれて。
一度ならず二度までも。一体全体、この麗人は何を考えているのか。
ヒサが身体に力を入れるが、それを事前察知したかのように即座に入り込んできた生温かい肉の感触に、一瞬だけ意識が飛びそうになる。 彼は、その隙を見逃さない。 ヒサの口中に潜り込ませた肉を荒々しく動かして、そこを犯し始めた。
「……っんん!」
出せる声など言葉を形成できるほど上等なものではない。身を捩ってされる行為から逃れようとしたヒサを、さらに強い力が押さえつけてくる。衣服の中に入り込んできた冷たい手が脇腹を撫で、必要以上に身体が反応した。
一通りヒサの中を犯し尽くして離されたヤマトの唇は、紅く濡れていた。 彼は目を細め、ちらりと舌先で己の唇を舐める。ヒサの胸の突起を無遠慮に抓みながら指の間で転がした。
「まさか、初めて……なんてことない、よな?」
まるで、初めてであることが究極の恥であるかのようなヤマトの物言いに、ヒサが反駁の声を上げた。
「……は、初めてに決まってるだろ!? 何で男なんかに……」
「へえ! あんたほどの男が、童貞君?」
「は……?」
ニヤニヤするヤマトと、眉を顰めたヒサの話は多分食い違っている。
「まぁ、優しくしてあげるから安心しなよ」
獲物を捕獲してこれから食そうとする、肉食獣のような獰猛さを裡に秘めたヤマトの眼力に、抵抗の所作全てを忘れたヒサの喉がごくりと鳴った。
***
彼のあの目を見た瞬間、彼を欲しいと思った。 何者をも受け入れない、頑なに閉ざされた瞳の裡には、一体どんな世界が広がっているのだろうかと。その世界に、自分は入ることができないだろうか――否、どんな手を使っても入り込んでみたいとすら。 薄暗がりの中で閃光を照らし出した彼の瞳に魅入られたのは、紛れもない、真実だった。
彼の想い人は予想していた通り、自分と彼との共通の友人である 『男』 だった。 琥珀色の瞳に清純を宿す、潔癖の人。 一途な愛に苦しみ、それから逃れる術すら知らない、純潔の人。 そんな相手を、彼は心の深いところで想っていた。その想いが報われることは決してないと知りながら、それでもただ静かに直向に。 高潔の理性を秘めている彼の姿は、肉欲に満ちた遊郭に一輪、たおやかに咲く紅い椿を連想させた。
初めはその美しさ故に、彼の肉体を切望した。 彼を少し知るようになり、静謐で高貴な想いを自分に向けてはくれないだろうかと希った。 しかし、彼の溜息の数を数える度に、それは不可能なのだと思い知らされた。 それならば、無理矢理にでも手折ってしまいたいと――
『初めてに決まってるだろ?!』
『あんたほどの男が、童貞君?』
『は……?』
意味が違うということくらいわかっていた。 知りたくて、問うたのだから――彼が、『男』 を知っているのかどうか。
組み敷かれて両手首を己の頭上で押さえ付けられようとも、彼の瞳は一寸の感情すら映し出さない。唇を奪われ、身体を弄られても。声に動揺が現れたとしても、感情を如実に映すはずの瞳は揺らがない。 ただ、奥に灯る鬼火のような焔(ほのお)だけを、時折ちらと見せつけるだけ。 どんなことをしても穢せないのだと知ると、否応にも乱れる彼を見たいと己が希求する。その要求を満たそうとすることは、彼を傷つけてしまうということだとわかっていながら、止めることができなかった。
額に大粒の汗の玉を浮かばせ、歯を食いしばって声を漏らすまいとしている彼の呼吸が苦痛を訴える。ずっと押さえつけていた手を離しても、抵抗するよりも痛みから少しでも逃れる術を探しているのか、投げ出したままシーツを握り締めていた。
彼の中で精を放って脈打つ自身を感じながら、ヤマトは彼の顔に張り付いた髪を右の手で一本一本取り除いていく。左の手の内にある、彼の欲の中心は、早く出口を与えてくれと痙攣を繰り返していた。
「……名前、呼んで、ヒサ」
ヒサは唇を噛んだまま首を左右に振る。何度も上り詰めそうになって、その度にヤマトの手によって押し留められる。回数を重ねるごとに、彼の意識は朦朧とし、意味不明の言葉がその口から微かに聞こえた。しかし、決して望んだものは得られない。
左手を一度だけ上下させると、先端まで来ていたものが僅かに溢れ出て、ヤマトの手の甲をどろりと伝う。
「うっ……く、ぁ」
背を逸らして快楽に飲まれそうになる自身を押さえつけようとするヒサの姿に、未だ彼の中に収まったままでいた分身が再び熱を帯び始めた。
「呼んでくれるまで、解放してあげないよ」
強く根部を握りしめたままで腰を動かす。一度放たれた白濁の液体がヒサの体内から押し出され、激しい水音をさせた。 苦悶の表情をする彼を見下ろしながら、鍛え上げられた美麗な腹筋を何度も指の腹でなぞる。身体を寄せ、首筋を強く吸って跡を残す。自分の名を呼ばぬ、憎くて愛しい唇を際限なく貪る。
「……んで、こ、ん……な、ことっ、す……る……」
「欲しいから」
「……な……にが、ほ……、んっ……ほし、い」
搾り出すような声で紡がれる彼の質問に、耳元に唇を近づけて囁きの答えを置いた。
「全部」
気だるそうに持ち上げられたヒサの瞼の奥の瞳がヤマトを捉え、そこに初めて一片の感情を映し出す――戸惑い。
「ぜん……ぶ?」
「そう。 全部」
花首からほろりと落ちる椿のように、その精神と肉体の全てを――この手に。
「愛してる」
「嘘つき」
ヒサの頂点を留めていた左手を離し、腰と首の下に入れた腕で彼の身体を固定した。
「全部、貰うよ、ヒサ」
美しい形を残したまま、もぎ取るように。
「――っつ!」
耳朶の付け根を強く噛むと、微かに鉄の味がする。赤黒い血液が、首筋に垂れて髪の中へと隠れていった。血を流す彼の一部が綺麗すぎて、それに見惚れた自分を笑う。 腹に感じる彼の肉塊を意識しながら、高潔の理性すらも崩壊させる場所へと導いた。
「んっ、あっ、い、やめ……ねが」
ヒサの手がヤマトの背に爪を立てる。苦痛と快楽の錯綜する世界に掴まり、必至にもがく彼の様に煽られるようにして、ベッドの脚が壊れそうな軋み音を発した。
「呼ん、で……」
押さえ付けているにも関わらず、下になるヒサの身体が弓なりに反る。
「や……まと――」
与える快楽は一度きり。奪う官能は数知れず。 それにすら無言を通すだろう彼の姿は、その首に無数に咲く紅い花――椿。
***
何度も抱かれた。 彼に求められるままに、何も言わず、何も望まず。 苦痛を感じたのは最初の頃だけ。それも、肉体的なものであって、精神的には満たされていたのではないかとすら思う。
けれど、知らないわけではなかった。 彼には既に、想う人がいるのだということを。 年が明ければ、彼はその人と共に暮らすのだと言っていた。嬉しそうに目を細めながら、残酷なほど優しい声で。
では、一体自分は何なのか、彼は何のために自分を抱くのか。普通なら思うだろう。 少しでもこの心が揺らぐ、切ない感情が芽生えようとしているなら、尚更。 しかし、それについて考えることは愚かだった。 求められているのは、一時の慰みで、半永久的に続くような関係ではない。
口を噤んで何も望まない、そういう存在を彼は求めていた。 彼の求めるものを、自分が差し出せる分で満たせるものなら全て渡そう。 何も言わず、何も望まず。
ただ、密やかな想いをこの胸に抱くことだけは許して貰って。
*
「ヒサ、二月になったら、ここには来れなくなる」
やけに、あっさりと言う。それに、軽く溜息交じりの笑顔で頷いて、別にいいよと呟いた。
「柳瀬(やなせ)さん、こっちに来る日程は決まったんですか?」
未だ、敬語を崩さないのは、ちょっとした意地だった。もちろん、名前も極力呼ばない。身体を重ねる時以外では。
「うん、飛行機も予約したみたい……連絡来たし」
「ふーん、良かったじゃないですか。 楽しみだって散々聞かされてましたからね、漸くジジィのような繰り返しの戯言を聞かずに済む」
普段とかわらぬ受け答えをするこちらの様子に、かっきりと弧を描く彼の形の良い眉が、僅かに動いた。
「……ね、ヒサは、寂しくないの?」
「あなたは、寂しいんですか?」
静寂。 彼に、寂しいと言って欲しかったのだろうか――自嘲せずにはいられない。
「馬鹿なことを聞きました、あなたが寂しいはずないですね。 そうだ……柳瀬さんがこっちにきたら、是非紹介してください。 ユウジの幼馴染っていうのは興味深いし、あなたの恋人だっていうのも……まあ、興味を引かれないわけではないし。 物好きだなって。 それから、いつだったか突然電話してしまったことの非礼も詫びたいし」
彼が口を挟む隙を与えず、言いたいことだけを言って会話を終了する。バイトに行くからと告げ、用意を始めた。彼の冷めた視線を背に感じながら。
*
「おれ、出掛けますけど……ここにいます?」
ヒサは準備を終え、あとは出掛けるだけだったのだが、ヤマトはベッドに腰を下ろしたまま一向に動く気配を見せない。脚を組んで頬杖をつき、穏やかに瞑目している。
「鷲爪さん? いるなら、鍵置いていきますから……帰りたくなったら、コレ郵便受けに入れて置いてくれたらいいんで」
目を開けようともしないヤマトに嘆息し、キーホルダから外した家の鍵をテーブルに置いて玄関に向かった。 カタリと小さな音がして、ベッドを立ったヤマトがヒサの方へと歩み寄る。直ぐ後ろに彼の存在を感じて、それでもヒサは振り向かなかった。柔らかく抱き締められ、首元に彼の唇を感じる。
「もう少し、一緒にいよう」
「おれは、家賃稼がないと生活できないんで。 待っててくれたら夜中十二時過ぎには帰ってきますよ」
待っているはずなどないと知りながら、ほんの微かな希望を込めて言葉を紡ぐ。期待した分だけ、自分が傷付くのだとわかっているのに。 絡められている腕を解いて、彼と正面で向かい合う。
「行って来ます」
顔を上に向け、不服そうにする彼の唇に触れた。目を見開いて驚いた表情をした彼を置いて、ドアを閉める。 絶対に聞けることはない 『お帰り』 の声を期待することはせず、ヒサは薄暗い空の下に踏み出した。
The END
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